義弟の舌

志貴野ハル

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2章

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 昨夜は、私がお風呂から出る頃には台所の明かりは消されていて、義弟はいつも通り離れへ戻っていた。

 魔が差したとはいえ、覗きのような行為をして何か言われるかもしれないと覚悟をしてあまり眠れずにいたのに、一夜明けても義弟は相変わらず義弟のままだった。

 いつものように私が朝食を作り出すとふらりと横に立って手伝ってくれるから、私の方がビクビクしてぎこちなかったかもしれない。だけどそれも朝食を一緒に食べる頃には杞憂に変わって、私もいつもの調子を取り戻すことができた。


「今日は掃除が終わったら買い物に行ってきますね」


 義弟の作った半熟と硬い部分がうまく同居する目玉焼きに醤油をかけながら伝える。


「僕も、行きましょうか。荷物持ちなら、できますから」
「……いいの?」
「暑くなる前に、少しでも外に出て、体力をつけようと。……お邪魔でなければ」
「邪魔だなんて、むしろ助かります」


 ぺこりと頭を下げると、味噌汁のお椀を持つ義弟の目尻が下がった。声を出さずに返ってくるその表情に、胸がきゅうっとしなって目の奥がつんと痛くなる。誤魔化すように俯く。箸を入れた卵の黄身がぷつりと弾けて、とろとろの中身が流れた。



 朝食を済ませていつも通りに掃除や洗濯といった家事をしてから、シャワーを浴びて白いシャツワンピースに着替えた。髪も結おうとしたところで裏庭の水やりや手入れを終えた義弟が来てしまって、そのまま下ろしていくことになった。
 財布と買い物メモを入れたハンドバッグを持って玄関まで急ぐ。


「お待たせしました」
「いいえ、行きますか」


 玄関の上がり框に腰掛けていた義弟が振り向いて立ち上がった。
 「掃除をしたら汗をかいたので」とか「今日は昨日より暑いみたいだから」とか、いつもと違う格好を指摘された時のために用意しておいたセリフを使うこともないまま並んで家を出る。

 駅前に向かう平日の通勤通学ラッシュを終えた十時台のバスは、私たち以外に誰も乗っておらず静かだった。ちょうど真ん中の二人掛けの座席に並んで腰を下ろす。

 普段なら病院へ通うお年寄りで少しは混んでいるのにと思っていたら、停留所に着くごとに二人、三人と老人達が乗り込んできて、やっぱり予想していた通りに混み合い出した。

 少しずつ立っている人も増えたところで停車中のうちにいつもの癖で席を立つと、まるでイリュージョンでも見ているかのような素早い動きで杖をついた高齢女性がするりと座席に滑り込んできた。
 これも平日、買い物をする時のいつもの光景だ。お互いにこれが当たり前のようになっているから何も言わない。

 窓側に座っていた義弟が一瞬で隣が高齢女性に入れ替わったのを見て、ギョッとしたような顔つきになり慌てて席を立とうとする。


「あ、いいの、座ってて。また具合が悪くなったら大変だから」
「なぁに、あんたも具合悪いの」


 私たちの間に座った高齢女性が話に割って入ってくる。


「えっ」
「そうなんです」


 突然、見知らぬ人に話しかけられて、頭が窓にぶつかりそうになるくらい背中を仰け反らせた義弟に代わって返事をする。
 高齢女性は「若いのに大変だねえ」と言いながら、杖の持ち手に引っ掛けていた巾着からアメを出して義弟と私に差し出した。

 バスはゆっくりと市街地方面へ進んでいく。

 吊り革につかまって両足を踏ん張りながら、料金案内の電光掲示板を眺める。
 この時期、この時間帯のバスは天候やラッシュに左右されないから比較的楽だ。
 停留所を三つ過ぎたところで「そろそろ降りますよ」と義弟に声をかける。
 手持ち無沙汰な様子で窓の外を眺めていた義弟がこちらを振り向いて、義弟の隣に座っている女性が杖を抱きしめるように引っ込めた。

 バスがスーパーの目の前の停留所に停まった。
 久しぶりに外へ連れ出して本当に具合が悪くなったりしていないだろうかと、心配しながら先に降りて待っていると、「バス、久しぶりに乗りました」と少し浮かれた様子で義弟が後から降りてきたので安心する。

 住宅街より少し外れた大通りに面したこのスーパーは2年ほど前にできた。都会から来た大型チェーン店らしく、家から遠いけれど品揃えも豊富で行き帰りの交通の便が良いからよく利用するようになった。

 店名が印字されたカゴを手に持ち、人がまばらな店内に入ると寒いくらいの冷風に体が包まれる。


「さて、今日は何を食べたいですか?」


 買うものは決まっているのだけど、一応リクエストを募ってみる。


「そうですねぇ、昨日は、天ぷらだったから……」


 まるで珍しいものでも見ているように、遠くの生鮮食品売り場の方へ視線を投げ出しながら義弟が呟く。
 そうしてゆったりとひとしきり眺めて最後に私と目が合うと、長い体を折り曲げてふふっと笑った。


「えっ、なに」
「……いえ、何も」
「あ、もしかして昨日の夕食のことを思い出していたんでしょう。私が茗荷の天ぷらをほとんど食べちゃったから」
「ふっ、……いいえ」
「うそ、笑ってるじゃないの。昨日もそうだった」


 くっくっと肩を震わせている義弟の腕を軽く小突く振りをする。
 するりと体を捩って義弟が逃げた。
 ようやく笑いがおさまって、はぁっと溜め息をつく。


「今日は、お義姉さんが好きなものにしましょう。僕が作ります。何がいいですか?」
「今日も作ってくれるの?」
「はい、これでも一応、一人暮らしの経験はありますから。実は、家事は全般、できるんですよ」
「そうなの。じゃあ……じゃあね、あ、唐揚げ! お肉は家にあるから、でも足りなかったら嫌だから多めに買っておきましょうか。余ったらシチューにすればいいし」
「……揚げ物が、お好きなんですね」


 そう言って義弟が含み笑いを浮かべる。吹き出しそうな一歩手前といったところだ。


「そ、そんなことないですっ。油物をやりたくないから押し付けただけです」
「でも二日連続だ」
「いいのっ、私が食べたいものって言ったじゃない」
「ほら、やっぱり好きなんですね」


 言い返せず、ぐっと言葉に詰まる。子供のような押し問答に決着がついて義弟の目が意地悪く下がった。
 まさかあの義弟とこんなやりとりをするとは思わなかった。
 言い負かされたようだけど、……嬉しい。少しずつ心を開いていってくれている。
 義弟が腕を伸ばして私の持っていたカゴを掴んだ。


「行きましょう。鶏肉、いっぱい買わなくちゃ」
「あっ」
「他には、何を買うんですか?」
「ちょっと待って、メモを出すから」


 ハンドバッグから、昨日の夜に書いた買い物のメモを取り出す。


「えっと、……卵と牛乳とお豆腐と」


 読み上げたところで隣に並んだ義弟の顔がすぐ近くまで来た。
 息遣いすら聞こえてきそうな距離に義弟の顔があって、思わず半歩後ろへ下がる。


「あ、お豆腐はあっち」


 誤魔化しながら義弟の横をすり抜けて小走りになる。義弟は長い足をゆっくりと動かしながら私の後を追いかけてくる。

 店の中を順ぐりに見て周り、メモに書いたものを全てカゴへ入れていく。義弟は時折、左手から右手へカゴを持ち替えながら私の斜め後ろをついてきた。


「重くないですか? 代わります」
「平気ですよ。このために来たんですから、こき使ってください」
「ふふっ、本当に助かります。――あ、ねえ、甘いものは好き?」


 レジに並ぶ前のお菓子コーナーに立ち寄る。
 ずらりと並んだチョコレート菓子やガム、アメの包装を見て、もう随分こういったものを食べていないと気づく。結婚してからかもしれない。夫から家計を任されている手前、一円でも無駄遣いはできないと立ち入らないようにしていた。


「今日は買い物に付き合ってくれましたから、特別に」
「そういえば、我が家は、洋食があまり出ませんね」


 手に取った板チョコの包装紙の表と裏をひっくり返しながら、義弟が思い出したように言う。


「え? そうね、私はどちらかといえば和食を作る方が得意だから」
「お義姉さんは、ホットケーキ、好きですか? うちは毎週日曜日、朝食に、必ずと言っていいほど、出てて」
「ホットケーキ?」


 どうだろう。実家にいる時から食事はずっと和食がメインだったからあまり馴染みがない。喫茶店で食べるくらいだ。それもご飯の代わりではなくて、ちょっと奮発したおやつの立ち位置だった。だから私にとってのホットケーキは家で作るものではなくて、店で食べるもののイメージが強い。


「子供の頃、父が、作ってたんです。駅前の、古い喫茶店を真似て。……今もあるのかな」
「へえ、行ってみたい。私、喫茶店とかカフェの雰囲気が結構好きなの。通っていた看護学校の近くに何軒も建っていて」
「……レポート、書いたりしました?」
「そう! コーヒー一杯で何時間も粘ったりして、たまに申し訳ないなって思いつつナポリタンやサンドイッチも頼んで。ホットケーキもその時くらいかしら。テストが終わったご褒美に、クリームとフルーツをトッピングしてもらって」
「あぁ、一緒だ」


 義弟が懐かしそうに目を細めた。
 住んでいた場所が違っても、同じような空間で同じことをしていたのがわかって素直に嬉しくなる。
 思えば義弟は、私のことを「お義姉さん」「お義姉さん」と呼んでくれるけど、実際、年齢はふたつしか違わないのだった。
 もっと話せばきっといろんな共通点が見えてくるのかもしれない。


「……食べたいのなら、明日の朝食に作りましょうか?」


 提案すると、義弟の表情がぱっと華やいだ。


「本当ですか? じゃあ、これは僕のワガママなのですが、できれば上にかけるのは、蜂蜜じゃなくて、メープルシロップがいいです」
「メープルシロップ、好きなの?」
「家では蜂蜜だったけど、さっき言った、駅前の喫茶店が、蜂蜜か、メープルシロップか選べて。そこで初めて食べて、おいしくて。……買い物中でなければ、今すぐにでも、連れて行きたいですけど」


 「また今度、必ず行きましょう」と義弟が笑う。
 こんなに上機嫌で饒舌な義弟は初めてで、何の気なしに言ったのかもしれない口約束に私は戸惑ってしまって「そうね、絶対ね」としか言えなかった。二人きりで出かけるのは、いいんだろうか。

(でも今だって、二人で買い物に出かけているわけだし……)
(だけど、買い物と喫茶店は違うんじゃない?)

 私の心の声たちがそれぞれ反発し合う。


「材料、取ってきます。あ、薄力粉は、家にありますか?」


 意気揚々とした義弟がお菓子売り場から離れる。
 いつの間に覚えたのか、まるで何度も来たことのあるような足取りで製菓コーナーへ向かい、迷うことなくベーキングパウダーやバニラエッセンスをカゴに入れていった。
 棚の下段にはホットケーキミックスなる便利なものがあるのに見向きもしない。喫茶店のレシピを真似たというお義父さんのホットケーキを作るつもりなのだろうか。作ると言った手前、私はそのレシピを知らないからできればこういうものを使って失敗のないようにしたいのだけど。


「明日、僕が作ります」
「え、でも、今日の夜も作ってくれるんでしょう?」
「多分、僕、料理が好きです。最近、お義姉さんの手伝いをして、楽しいって思えてきて」
「そうなの」
「あ……メープルシロップって、思ったより高いですね」


 上段にあるメープルシロップと蜂蜜の値段を見比べて、義弟が声を潜める。
 蜂蜜の種類によってはそうでないものもあったけど、確かにメープルシロップは小さい容器でも蜂蜜より高価だった。買わないから知らなかった。
 義弟が子供のようにしゅんとした顔をして安価な蜂蜜の容器に手を伸ばす。思わず笑って、横からメープルシロップの瓶を取った。


「買いましょうよ。せっかく作るんですから、妥協しないで」
「……いいんですか?」
「その代わり、とびきり美味しいのを期待してますね」


 「はい」と朗らかな笑顔で義弟が頷いた。喜怒哀楽の喜と楽の感情がこもると、義弟はぐっと幼くなるのだと思った。「あの子は本当はもっと明るい子だから……」と病床の義母が何度もこぼしていたのを思い出す。本当にその通りだった。
 だとしたら、何が彼を壊したのだろう。まともに動くことも食べることもできず幽霊のようになるまで追い詰めたのは、何だったのだろう。夫、なのだろうか。確かに原因の一端に夫の存在はあるのかもしれないけど……。


「お義姉さん」


 義弟に呼ばれて我に返る。


「……あ、他はいいの? 買い忘れはない?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、会計しましょうか」



 買い物を済ませてバス停で帰りの時間を見ると、つい十数分前にバスは出て行ってしまったらしい。次のバスが来るまで三十分もある。最初に確認しておけばよかった。


「少し歩きますか?」
「え、でも」
「今日は、調子がいいので、大丈夫ですよ」


 義弟が「体力をつけないと」と朝と同じことを言った。
 まだ初夏とはいえ、お昼近くの太陽はほとんど真上をさしている。気温もすでに朝よりずっと高い。屋根付きのバス停で待っているだけでもじんわり汗ばむほどだ。


「お肉を買っちゃったから、次のバスが来るまでもう少し店内にいましょうか。歩いているうちに傷んだら大変だから」
「あ、そうか、そうですね」
「何か冷たいものでも買いましょう」


 言いながら、並んで店の中へ戻る。
 だけど次のバスが来る前に、肌寒い店内に体が耐えきれなくなったのか義弟の口数がどんどん減っていった。

 「……少し外に出てますね」と言ったきり戻って来ないので迎えに行ってみれば、バス停のベンチに座って俯いている。私に気づいて上げた顔はすっかり青ざめていて額に汗が滲んでいた。
 ついさっき買ったばかりの冷たい飲み物を差し出しても断られてしまう。


「つらいんでしょう」
「いや、平気です……」
「うそ。タクシー呼びますから、待ってて」


 確かスーパーの出入り口のところにタクシー会社へ直接通じる電話があったはずだ。
 急いで向かって電話をかけると、ちょうど空車のタクシーが近くを通っているらしくすぐ来てくれることになった。
 義弟は何度も「申し訳ないです……」と声を絞り出していたけど、バスに乗ったところで結局は家まで歩かなきゃいけないのだから、それなら家の目の前で停まってくれるタクシーの方がいいのだと説き伏せた。


「歩いてる途中でもし気を失ったりしたら、私、おぶっていけないもの。タクシーだったら、運転手さんにも助けてもらえるでしょ」


 ベンチの背もたれに体を預けた義弟が、ふ、と力無く笑った。
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