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隣人

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 その音が気になりだしたのは、いつだったか──。今にして思えば前々からうるさかったようにも思うが、私がその音をハッキリと認識したのは、ここニ週間程前くらいからだったような気がする。
 というのも、真夜中にも関わらずガンガンガンガンと煩い音が鳴り響いたからだった。いくら神経質な方ではないとはいえ、真夜中にそんな音を立てられれば嫌でも気になる。


「こんな時間に、一体なんなのよ……」


 不快感あらわに悪態を吐いた私は、頭から布団を被って再び眠りに就こうと瞼を閉じる。けれど、一向に鳴り止まないその音に邪魔をされ続け、その日はまともに睡眠を取ることができぬまま夜を明かすこととなってしまったのだ。


「──でね、それがニ週間も続いてるのよ。ホント嫌になっちゃう」


 同期の亜香里あかりに向けて大きく溜息を吐くと、そんな私を見た亜香里は眉間に皺を寄せた。


「うっわぁ……最悪じゃん、それ。大家さんに連絡してみたら? 直接クレーム入れてトラブルになっても嫌だしさ」

「そんなのとっくにやってるよ」

「それでもダメなの?」

「その日だけだよ、静かになったのは。また次の日から煩いんだから……ホント迷惑だよね」

「そんな時間に、何やってるんだろうね?」

「DIYでもしてるんじゃないの。日中にやれってのよ、まったく……」

「非常識な人が隣人になって、沙耶さやも災難だね」

「お陰でここ最近ずっと寝不足だよ……。今日も残業になりそうだし、ホント最悪」


 うんざりしたようにそう告げると、食べ終わった食器を持って席を立った私は、亜香里と共に社員食堂を後にしたのだった。





──────


────





 その日の夜も、例に漏れず真夜中に目を覚ました私は、ゴトゴトガンガンと煩く鳴り響く音に顔をしかめた。毎日毎日これでは、本当にたまったもんではない。
 連日の疲れもあったせいか、我慢の限界に達した私は堪らず大きな声を上げた。


「煩いッ!! 毎日毎日、いい加減にしてよっっ!!!」


 思いの外大きく発してしまった声にハッと我にかえると、私は自分の口元を抑えて息を呑んだ。

 木造建てのこのアパートでは防音効果など当然あるはずもなく、今の私の声も確実に聞こえてしまったはずだ。
 1.2階合わせて6部屋しかないこのアパートの、2階真ん中に位置する部屋に住んでいる私。真下は空室、右隣の1階も空室となれば、私の右隣に住む煩い住人からすれば、その声の主は私であると容易に特定できてしまうだろう。


(やってしまった……!)


 押し寄せる後悔と共に息を殺すと、静かに右隣の部屋の様子をうかがう。先程まで聞こえていた音はピタリと鳴り止み、私の声が届いてしまったことを物語っている。
 隣人との直接的なトラブルは極力避けたかったが、どうやらそれは回避できないようだ。静まり返った右隣の部屋からガチャリと玄関扉が開閉する音が響き、ヒヤリと冷たい汗を背中ににじませた私は固唾かたずを飲んだ。


(まさか、今から私のところへ来る気──?)


 例えそれが謝罪目的だったとしても、こんな真夜中に訪ねてくるだなんて全く予想もしていないことだった。
 時間帯を考えれば、後日改めて謝罪をするというのが普通だろう。けれど、考えてみればそんな常識を持ち合わせている人ならば、そもそもこんな時間に毎日のように煩くするはずもないのだ。
 非常識な人とは、どこまでいっても非常識らしい。



───ピンポーン



 鳴り響いた呼び鈴にゆっくりと重い腰を上げると、私はその足でモニター前へとやって来た。
 こんな時間に、ましてやパジャマ姿でなど応じたくはないけれど、来てしまったものは仕方がない。私の声を聞かれてしまった以上、居留守を使うこともできないのだ。


(……とりあえず、モニター越しに応対すればいいよね)


 大声を上げてしまったという後ろめたさもあり、私は諦めにも似た溜息を吐くと目の前の画面を見た。
 


───!?



「なに、この人……、気持ち悪っ」


 モニター越しに映し出された男の姿を見つめながら、私は思わず小さな声を漏らした。
 俯いたまま、ユラユラと左右に身体を揺らしている男。その姿は、まさに”不審者”と呼ぶに相応しい程の不気味さだ。


(どうしよう……)


 応じる為に伸ばしかけていた右手をゆっくりと下ろすと、私はモニターを見つめたまま狼狽うろたえた。
 仕方がないとはいえ、つい今しがたまで応じるつもりでいたものの、モニター越しに見える男の姿を捉えた瞬間、このまま居留守してしまおうかと真逆の考えが脳内をぎる。それ程に、目の前に映し出されている男の姿が不気味だったのだ。

 モニター越しの男を見つめたまま立ち尽くしていると、もう一度呼び鈴を押し鳴らした男はゆっくりとその顔を上げた。


「っ、……!」


 モニターを見つめながらニヤリと不気味に微笑んだ男を見て、私はすぐさまその場を離れるとベッドへと戻った。
 このまま居留守してしまおう。そう私に判断させる程に、不気味な笑顔を浮かべた男。暗がりの中ということもあってか、ボンヤリと浮かび上がった男のその姿は、まるで亡霊でも見ているのかと錯覚する程に恐ろしかった。

 私はベッドの上で小さく身体を震わせると、掻き集めた毛布に包まりながら息を潜めた。


(お願いだから……、このまま帰って)


 そうは願うものの、果たしてこのまま黙って帰ってくれるのだろうか……? 間違いなく私が在宅していはるのはバレているのだから、応じるまで何度も呼び鈴を鳴らす可能性だって大いにある。
 非常識な人間の行動とは、常識の範囲での予測が不可能なのだ。

 そんな私の不安を他所に、再び呼び鈴が鳴り響くこともなく静寂に包まれた室内。恐る恐るモニターで外の様子を確認してみると、先程までいた男の姿が見当たらない。どうやら、諦めて帰ってくれたようだ。
 私はホッと安堵の息を漏らすと、再びベッドの上へと腰を降ろした。


「面倒なことになったなぁ……」


 自分のしでかした言動に後悔しつつも、私はそのまま布団を被ると眠りについたのだった──。


 その翌日から、更なる問題が私を悩ませることとなった。

 仕事を終えてアパートへと帰宅すると、毎日のように私の自宅前に男が立っている姿を目撃するようになったのだ。モニター越しにチラリと見ただけとはいえ、その男が右隣りの住人であることはすぐに分かった。
 そうと分かれば普通に応対すれば済む話しなのだけれど、男に対して小さな恐怖心を抱いてしまった私には、直接的に関わりを持つということ自体に抵抗があった。連日のように私の帰宅を待ち伏せている男を見ると、その判断は決して間違いではなかったと思う。


「──あれから毎日?」

「うん、もう一週間以上……。ホント気持ち悪いよね」


 会社からの帰り道、隣を歩く亜香里に向けてそう答えれば、両手を組みながら難しい顔を見せた亜香里。


「う~ん……並々ならぬ執着心ね。この際だからさ、一度話してみたら?」

「えっ。やだよ、絶対! 余計に執着されたらどうするのよ」

「案外普通の人かもよ?」

「いやいやいや……! 普通の人だとしたら、一週間も待ち伏せなんてしないでしょ」

「……だよね。そもそも何の用なんだろ? 謝罪かな?」

「謝罪の為にわざわざ待ち伏せする?」

「…………しないよね、普通は」

「普通はね」


 その普通が通用しないのだから、男の目的がイマイチ分からなくて余計に怖い。普通に謝罪ならいいが、万が一にも逆上されようものなら対処できる自信もない。


「で、例の騒音の方は解決したの?」

「してないよ。相変わらずうるさいまま」

「煩くてキモイとか……前より最悪じゃん」


 亜香里の言う通り、元の状況より悪化してしまった現状。むしろ、騒音より待ち伏せの方が厄介だったりする。
 男と鉢合わせてしまうのではないか、という不安に怯えながら帰宅するのは精神的にも疲れるし、土日に至っては不安のあまり外出する事さえできなかった。
 その間にも何度となく男からの呼び鈴は鳴り響き、応対したくなかった私は極力物音を立てずに過ごさなければならなかった。
 せっかくの休日だったというのに、何故か私の方が静かに身を潜める生活を送るハメになってしまったのだ。


「なんで私がこんな目に……」

「もう一度、大家さんに連絡してみたら?」

「でも、ただの謝罪だったら……」

「謝罪だったとしてもさ、待ち伏せとかやり過ぎでしょ? 実際沙耶は怖がってるわけだし」

「……そう、だよね?」

「そうそう、大丈夫だって。……もぉ~、元気だして! 今日は朝まで飲むんだからねっ! で、明日は昼からショッピング!」

「朝まで飲んでお昼からはキツくない?」


 そんな返事を返しながらも、楽しそうに話す亜香里につられて私の顔にも自然と笑みが漏れる。
 自宅にいては男の動向が気になって仕方がない為、今日から日曜日まで亜香里の家に泊まらせてもらうことになったのだ。

 これでようやく土日には羽が伸ばせる。そう思えば、堅かった私の表情も自然と和らいでくる。


「亜香里、付き合ってくれてありがとね」

「な~に言ってんの、当たり前でしょ? さっさと荷物取りに行って、朝まで飲も~ねっ!」


 仕事終わりとは思えない元気さにクスリと声を漏らすと、私は今一度お礼を告げてから自宅へと向かう足を急がせたのだった。





──────


────





「──どう? 例の男……いる?」

「うん、いる」


 壁からコッソリと顔を覗かせながらそう答えれば、私の背後にいた亜香里はゆっくりと壁へと近付いた。


「……あの人か」


 壁際から顔を覗かせながら、男の姿を目視した亜香里はポツリと声を漏らした。


「え、待って。ちょっとイケメンじゃない?」


 そう言って身を乗り出した亜香里を慌てて後ろへと引き戻すと、私は焦りながらも声を潜めた。


「ちょっと、そんなに前に出たら見つかっちゃうから」

「ごめんごめん。でもさ、あの人イケメンぽくなかった?」

「…………。でも、ないでしょ」

「……まぁ、だよね」


 あるいは出会い方が違ったら、確かにイケメンだと思ったのかもしれない。けれど、こうして毎日のように私を待ち伏せている姿を見てしまうと、その容姿よりも際立つのはその異常性だった。
 いくらイケメンだからとはいえ、”有り”かと問われればその答えは間違いなく”ノー”だ。


「いつまで居るつもりかな?」

「長くても、いつもは20分くらいだけど……」

「20分も!?」

「ね、キモイでしょ?」

「うん、確かに」


 亜香里が小さくゴクリと喉を鳴らしたのを確認すると、私は「付き合わせてごめんね」と告げながら壁に背をもたれ掛けた。


「大丈夫大丈夫、これぐらい付き合うよ」

「ありがとう」


 幸いなことに、この日は10分程すると男は自宅へと戻っていった。その隙に素早く荷物を取り出した私は、その足で亜香里の家へと向かうと、予定通り土日の2日間を亜香里の家で過ごさせてもらった。
 久しぶりに自由に羽を伸ばすことが出来たおかげか、だいぶリフレッシュできた気がする。この2日の間に大家さんに事情を話すこともできたし、きっとこれで待ち伏せされることもなくなるだろう。


「でも、やっぱり憂鬱ゆううつだなぁ……」


 まだ日が沈み始める前の日曜日の午後、私は自宅へと帰る道すがらポツリと小さく声を漏らした。
 いつまでも長居するわけにもいかず、夕方から彼氏と約束があるという亜香里と別れると、私は嫌々ながらに自宅へと帰ることとなった。待ち伏せされる不安はなくなったとはいえ、やはり憂鬱さは簡単には拭えない。
 
 私は大きく溜め息を吐くと、足元にあった視線をゆっくりと上げた。すると、自宅アパート前に停車された1台のパトカーに気が付き、私はピタリとその場で足を止めた。
 

(……何かあったのかな?)


 よく見てみれば、パトカーの周りには何台かの車が停車され、アパート入り口には規制線が貼られている。
 一体、何事だというのだろうか。私が留守にしている間、まさか空き巣にでも入られたのでは──そんな不安が頭をよぎり、私は駆け足でアパートへと近付くと、そこに居たスーツ姿の刑事らしき男性に声を掛けた。


「──あの、何かあったんですか? 中に入りたいんですけど……」

「住人の方ですか?」

「はい。202に住んでいる木下です」

「ああ、202号室の方ですか。ちょうどお話しを伺いたかったんです。今、お時間よろしいですか?」

「はい……」


 ただならぬ雰囲気にゴクリと唾を飲み込むと、促されるまま道路脇へと寄った私は、そこで衝撃的な事実を聞かされることとなった。

 数時間前に殺害の容疑で逮捕された、私の右隣りに住む一人暮らしの男性。被害者は6名以上にも及ぶとみられ、驚くべきことは、バラバラにされた遺体の一部が室内から発見されたということだった。
 毎夜うるさかったあの音は、もしかしたら遺体を処理していた音だったのでは──そう考えると、何とも言えない感情と共に凄まじい程の吐き気が込み上げてきた。

 あの日──あるいはそれ以降でも、私の元へと訪ねて来た男に応対していたとしたら、今頃私はどうなっていたのだろうか……? 
 その結末は想像したくもないけれど、居留守するという判断をした私は決して間違いではなかった。それだけは確かだと思えた。

 
 ──あれから数年の月日が経ち、何度か引っ越しの経験はしているものの、あの日からどうしても無意識にしてしまう癖が私にはある。
 ありふれた日常の、何気ない人の声や物音。その音が近所から聞こえるたびに、その音の正体をどうしても想像してしまうのだ。

 誰かが殺される瞬間の声や、物音なのではないかと。





─完─
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