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秘花107
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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やわらかな温もりが頬に触れ、流れ落ちた涙を優しく拭いてくれる感触がある。
―意識を失ったままで涙を流すなんて、私はあなたをどれだけ苦しめたのでしょう。
また、声が聞こえてくる。乾は懸命に声のした方へと右腕を伸ばそうとした。だが、こういうときに限り腕が思うように動かない。乾はもどかしさに歯がみした。
すると、優しい声がまた聞こえた。
―乾、乾。僕はここにいるよ。ずっと乾を待ってるんだ。お願いだから、眼を開けて僕を見て。
乾の瞼に愛しいひとの面影が鮮やかに甦る。そのひとの顔は雨上がりの空に七色の虹が浮かび上がるように鮮烈に現れた。
刹那、今までピクリとも動かなかった右腕が愕くほどすんなりと動いた。乾は右手を伸ばしてみた。誰かがすかさずその手を取り、乾の手のひらに指を絡めた。柔らかくて小さな手だ。
―この小さな手の温もりを俺は確かに知っている。
―賢、賢。
乾は再び賢の名を呼んだ。その瞬間、ゆく手に眩しい光が雷光のように閃き、乾はあまりの眩しさに顔を伏せた。
天空から無数のまばゆい黄金の光が雨のように降り注ぐ。その光と共に前王の声が響いた。
―そなたが太陽ならば、賢は月だ。高麗にとっては太陽と月、どちらもが必要なものであろう。どちらかが欠けても、国は成り立たぬ。重臣どもは互いの私利私欲で王太子か乾、どちらか付くかであい争うておるようだが、どうか二人とも互いに相争うことなく、末永く手を取り合って高麗のために尽くしてくれ。
伯父である前王が亡くなる少し前、乾と賢をそれぞれ個別に病床に呼び寄せ、伝えたあの科白だった。
鉛のように重かった身体が軽やかになってゆく。まるで深い水底(みなそこ)からぽっかりと浮かび上がるように、乾の意識は覚醒した。
目覚めた時、最初に視界に映じたのは待ち人の顔だった。愛しくて一途に恋い慕い続けた彼の永遠の想い人であった。
彼は赤児がこの世で初めて出逢った人を見るかのような愕きと感じ入った気持ちで彼女を見つめ、その美しい面立ちを瞼に改めて刻み込んだ。
「乾、眼が覚めたんだね」
幼い頃と変わらぬ口調が懐かしく愛おしい。乾は幾度も頷いた。
賢はハッとした。握りしめた乾の手が強く賢の手を握りかえしてきたのである。固唾を呑んでいる賢の前で、眠り続けていたはずの乾の眼がゆっくりと開いた。
「乾、眼が覚めたんだね」
あまりの愕きと嬉しさで、つい口調が王妃らしくないものになってしまう。あ、と、口許を押さえ、賢は慌てて言い直した。
「殿下、お目覚めになったのですね」
乾がクスリと笑った。まだ声は少し掠れているけれど、随分と長い間意識がなかったのだから致し方ない。
「なんだ、しばらく顔を見ない間に随分と王妃らしくなったな」
乾は呟き、それから笑った。
「さりながら、無理をする必要はない。俺は間違っていたことに今更ながらに気付いたんだ。愛するのは執着し束縛することだと勘違いしていた。だから、賢は賢のままで良い。無理をして別の人間を演じても、それは本物の賢ではない」
「乾―」
賢は握りしめた乾の手を頬に押し当てた。涙がとめどなく溢れる。乾と嘉礼を挙げて王妃となって以来、たくさんの涙を流したけれど、これは初めて流す嬉し涙であった。
「そなたには迷惑かもしれぬが、愛している。賢への想いは恐らく一生、消えないだろう」
だが、と、乾は少し苦しげに呼吸して続けようとした。賢は慌てて止めた。
「意識を取り戻したばかりなんだ。あまり無理をしない方が良い」
乾はゆっくりと首を振る。
「いや、これだけは言わせてくれ」
「俺のそなたへの想いは変わらないと言ったが、だからといって、そなたが厭なら、もう賢をここに縛り付けておこうとは思わない。これから先は、賢の自由にしてくれ。宮殿にとどまるも良し、行きたいところがあるなら行っても俺は邪魔はしない」
乾の言葉に、賢は潤んだ瞳を向けた。
「あなたは残酷な男なんだね。僕がずっとあなたの側にいようと決めたら、今度は側にいなくて良いと言うの?」
乾の眼が愕きに見開いた。
「何―だって?」
賢が乾の広い胸に頬を押し当てた。
―意識を失ったままで涙を流すなんて、私はあなたをどれだけ苦しめたのでしょう。
また、声が聞こえてくる。乾は懸命に声のした方へと右腕を伸ばそうとした。だが、こういうときに限り腕が思うように動かない。乾はもどかしさに歯がみした。
すると、優しい声がまた聞こえた。
―乾、乾。僕はここにいるよ。ずっと乾を待ってるんだ。お願いだから、眼を開けて僕を見て。
乾の瞼に愛しいひとの面影が鮮やかに甦る。そのひとの顔は雨上がりの空に七色の虹が浮かび上がるように鮮烈に現れた。
刹那、今までピクリとも動かなかった右腕が愕くほどすんなりと動いた。乾は右手を伸ばしてみた。誰かがすかさずその手を取り、乾の手のひらに指を絡めた。柔らかくて小さな手だ。
―この小さな手の温もりを俺は確かに知っている。
―賢、賢。
乾は再び賢の名を呼んだ。その瞬間、ゆく手に眩しい光が雷光のように閃き、乾はあまりの眩しさに顔を伏せた。
天空から無数のまばゆい黄金の光が雨のように降り注ぐ。その光と共に前王の声が響いた。
―そなたが太陽ならば、賢は月だ。高麗にとっては太陽と月、どちらもが必要なものであろう。どちらかが欠けても、国は成り立たぬ。重臣どもは互いの私利私欲で王太子か乾、どちらか付くかであい争うておるようだが、どうか二人とも互いに相争うことなく、末永く手を取り合って高麗のために尽くしてくれ。
伯父である前王が亡くなる少し前、乾と賢をそれぞれ個別に病床に呼び寄せ、伝えたあの科白だった。
鉛のように重かった身体が軽やかになってゆく。まるで深い水底(みなそこ)からぽっかりと浮かび上がるように、乾の意識は覚醒した。
目覚めた時、最初に視界に映じたのは待ち人の顔だった。愛しくて一途に恋い慕い続けた彼の永遠の想い人であった。
彼は赤児がこの世で初めて出逢った人を見るかのような愕きと感じ入った気持ちで彼女を見つめ、その美しい面立ちを瞼に改めて刻み込んだ。
「乾、眼が覚めたんだね」
幼い頃と変わらぬ口調が懐かしく愛おしい。乾は幾度も頷いた。
賢はハッとした。握りしめた乾の手が強く賢の手を握りかえしてきたのである。固唾を呑んでいる賢の前で、眠り続けていたはずの乾の眼がゆっくりと開いた。
「乾、眼が覚めたんだね」
あまりの愕きと嬉しさで、つい口調が王妃らしくないものになってしまう。あ、と、口許を押さえ、賢は慌てて言い直した。
「殿下、お目覚めになったのですね」
乾がクスリと笑った。まだ声は少し掠れているけれど、随分と長い間意識がなかったのだから致し方ない。
「なんだ、しばらく顔を見ない間に随分と王妃らしくなったな」
乾は呟き、それから笑った。
「さりながら、無理をする必要はない。俺は間違っていたことに今更ながらに気付いたんだ。愛するのは執着し束縛することだと勘違いしていた。だから、賢は賢のままで良い。無理をして別の人間を演じても、それは本物の賢ではない」
「乾―」
賢は握りしめた乾の手を頬に押し当てた。涙がとめどなく溢れる。乾と嘉礼を挙げて王妃となって以来、たくさんの涙を流したけれど、これは初めて流す嬉し涙であった。
「そなたには迷惑かもしれぬが、愛している。賢への想いは恐らく一生、消えないだろう」
だが、と、乾は少し苦しげに呼吸して続けようとした。賢は慌てて止めた。
「意識を取り戻したばかりなんだ。あまり無理をしない方が良い」
乾はゆっくりと首を振る。
「いや、これだけは言わせてくれ」
「俺のそなたへの想いは変わらないと言ったが、だからといって、そなたが厭なら、もう賢をここに縛り付けておこうとは思わない。これから先は、賢の自由にしてくれ。宮殿にとどまるも良し、行きたいところがあるなら行っても俺は邪魔はしない」
乾の言葉に、賢は潤んだ瞳を向けた。
「あなたは残酷な男なんだね。僕がずっとあなたの側にいようと決めたら、今度は側にいなくて良いと言うの?」
乾の眼が愕きに見開いた。
「何―だって?」
賢が乾の広い胸に頬を押し当てた。
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