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秘花105
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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つまりは、乾が目覚めたくない、現実に還りたくないと思う原因があって、それが乾の回復を邪魔しているのではないか、ということであった。
もし、乾がそこまで深く思い悩むとすれば、それは間違いなく自分のことであろう。意識を失う間際まで、乾は〝済まない〟と訴え続けていた。彼が自分の取った行動を悔いていたのは明らかだった。賢は眠る乾を見つめながら、祈るような想いで囁きかける。
「あなた、お願いですから、早く眼を覚まして下さい。私はもう、どこにもゆきません。ずっと、あなたの側にいます」
乾に囁いたそのときだった。また、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
―賢。
耳を澄ませると、今度はよりはっきりと聞こえてきた。
「ョン、賢」
賢は立ち上がり、寝台の側に近寄った。
「乾、乾。起きて、賢だよ」
敢えて昔のような口調で呼びかける。
乾の閉じた眼がかすかに震え、その眼から涙の雫がひと粒溢れ、頬を流れ落ちた。
賢はやるせない想いで、手巾を取り出して王の涙をぬぐった。
「意識を失ったままで涙を流すなんて、私はあなたをどれだけ苦しめたのでしょう」
と、乾の力なく投げ出された右腕がかすかに動いた。賢は慌てて乾に呼びかけた。
「乾、乾。僕はここにいるよ。ずっと乾を待ってるんだ。お願いだから、眼を開けて僕を見て」
すると、右腕が持ち上がり、差しのべられるように賢に向かって伸ばされた。賢はすぐにその腕を取り、乾の手のひらと自分の手を重ね、指を絡めた。
「賢、賢」
また乾が賢の名を呼ぶ。暗闇にひと筋の光を見た気がして、賢は乾の手を握りしめた自分の手に力をこめた。
乾は一面の霧の中を歩いていた。
振り向いても、四方ははるかな彼方まで白い霧に包まれて視界はまったくきかない。
―ここは、どこなんだ?
思えば、自分はこの深い先の見えない霧の中をずっと歩いていたような気がする。
もう、疲れた。幾ら歩いても、この霧から抜け出すことはできず、明るい場所に出ることはない。乾が囚われた霧の中は真っ暗というわけではないが、薄暗く、およそ明るいとはいえない場所だ。
随分と長らく陽の光を見ていない。
このまま無為に歩き続けるなしかないならば、いっそのこと、ここで立ち止まってしまおうか。そうすれば、楽になるだろう。
いや、と、彼は気弱な考えを追い払う。
自分には待っている人がいる。誰かは思い出せないけれど、その人の許に必ず戻らなければならない。
だがと、また邪念が兆す。
その人は本当に自分を待ってくれているのだろうか。自分はその人にふさわしい男なのか、待って貰うだけの価値のある人間なのか。
―疲れた。
乾はがっくりと肩を落とし、立ち止まった。こんな風に思い悩むのも、歩き続けるのも疲れた。もう、このまま座り込んでしまおう。
そう思った時、唐突に前方の霧が二つに割れた。次いで、ひと筋の光がその割れ間から差し込んでくる。
乾は息を呑んで、前方を見つめた。
―乾よ。
懐かしい声に、乾は眼を瞠った。
―伯父上?
二つに割れた霧の彼方にひっそりと佇んでいたのは前王、順恭王だった。ありし日のように王の盛装に身を纏っている。
―伯父上、どうして、こんなところにいらっしゃるのですか?
問いかけると、前王は賢にどこか似た面差しに淡い微笑を浮かべた。
―どうしても、そなたに伝えたいことがあった。
そこで、乾はうなだれた。
―俺は伯父上に合わせる貌がありません。幼くして両親を失った俺を伯父上は息子のように慈しんで下さった。なのに、俺は結局、伯父上を裏切るような真似をしてしまった。
どうしても伯父にそのひと言を伝えたかった。詫びたとて許して貰えるものではないかもしれないが、せめて詫びの言葉を言えたならと願い続けてきた。
前王は鷹揚に頷いた。
―そなたの気持ちはよく判っておる。歴史とは時に無残なものだ。滔々と音を立てて流れゆく時代という波の下では、我々人はすべて塵芥のようなもの。その気持ちなど関わりなく、飲み込まれて沈む。さりとて、乾よ。それが歴史というものだ。大河が氾濫した後、そこに肥沃な大地が新たに生まれるように、一つの時代が終わった後、また新たな時代が始まる。
もし、乾がそこまで深く思い悩むとすれば、それは間違いなく自分のことであろう。意識を失う間際まで、乾は〝済まない〟と訴え続けていた。彼が自分の取った行動を悔いていたのは明らかだった。賢は眠る乾を見つめながら、祈るような想いで囁きかける。
「あなた、お願いですから、早く眼を覚まして下さい。私はもう、どこにもゆきません。ずっと、あなたの側にいます」
乾に囁いたそのときだった。また、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
―賢。
耳を澄ませると、今度はよりはっきりと聞こえてきた。
「ョン、賢」
賢は立ち上がり、寝台の側に近寄った。
「乾、乾。起きて、賢だよ」
敢えて昔のような口調で呼びかける。
乾の閉じた眼がかすかに震え、その眼から涙の雫がひと粒溢れ、頬を流れ落ちた。
賢はやるせない想いで、手巾を取り出して王の涙をぬぐった。
「意識を失ったままで涙を流すなんて、私はあなたをどれだけ苦しめたのでしょう」
と、乾の力なく投げ出された右腕がかすかに動いた。賢は慌てて乾に呼びかけた。
「乾、乾。僕はここにいるよ。ずっと乾を待ってるんだ。お願いだから、眼を開けて僕を見て」
すると、右腕が持ち上がり、差しのべられるように賢に向かって伸ばされた。賢はすぐにその腕を取り、乾の手のひらと自分の手を重ね、指を絡めた。
「賢、賢」
また乾が賢の名を呼ぶ。暗闇にひと筋の光を見た気がして、賢は乾の手を握りしめた自分の手に力をこめた。
乾は一面の霧の中を歩いていた。
振り向いても、四方ははるかな彼方まで白い霧に包まれて視界はまったくきかない。
―ここは、どこなんだ?
思えば、自分はこの深い先の見えない霧の中をずっと歩いていたような気がする。
もう、疲れた。幾ら歩いても、この霧から抜け出すことはできず、明るい場所に出ることはない。乾が囚われた霧の中は真っ暗というわけではないが、薄暗く、およそ明るいとはいえない場所だ。
随分と長らく陽の光を見ていない。
このまま無為に歩き続けるなしかないならば、いっそのこと、ここで立ち止まってしまおうか。そうすれば、楽になるだろう。
いや、と、彼は気弱な考えを追い払う。
自分には待っている人がいる。誰かは思い出せないけれど、その人の許に必ず戻らなければならない。
だがと、また邪念が兆す。
その人は本当に自分を待ってくれているのだろうか。自分はその人にふさわしい男なのか、待って貰うだけの価値のある人間なのか。
―疲れた。
乾はがっくりと肩を落とし、立ち止まった。こんな風に思い悩むのも、歩き続けるのも疲れた。もう、このまま座り込んでしまおう。
そう思った時、唐突に前方の霧が二つに割れた。次いで、ひと筋の光がその割れ間から差し込んでくる。
乾は息を呑んで、前方を見つめた。
―乾よ。
懐かしい声に、乾は眼を瞠った。
―伯父上?
二つに割れた霧の彼方にひっそりと佇んでいたのは前王、順恭王だった。ありし日のように王の盛装に身を纏っている。
―伯父上、どうして、こんなところにいらっしゃるのですか?
問いかけると、前王は賢にどこか似た面差しに淡い微笑を浮かべた。
―どうしても、そなたに伝えたいことがあった。
そこで、乾はうなだれた。
―俺は伯父上に合わせる貌がありません。幼くして両親を失った俺を伯父上は息子のように慈しんで下さった。なのに、俺は結局、伯父上を裏切るような真似をしてしまった。
どうしても伯父にそのひと言を伝えたかった。詫びたとて許して貰えるものではないかもしれないが、せめて詫びの言葉を言えたならと願い続けてきた。
前王は鷹揚に頷いた。
―そなたの気持ちはよく判っておる。歴史とは時に無残なものだ。滔々と音を立てて流れゆく時代という波の下では、我々人はすべて塵芥のようなもの。その気持ちなど関わりなく、飲み込まれて沈む。さりとて、乾よ。それが歴史というものだ。大河が氾濫した後、そこに肥沃な大地が新たに生まれるように、一つの時代が終わった後、また新たな時代が始まる。
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