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秘花97
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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愛の代償
予期せぬ形で結ばれたのは、賢だけではなく、王も同じであったかもしれない。とはいえ、名実共に夫婦になってからも、王と王妃の間はよそよそしかった。いや、これまでは何とか王の方だけは王妃に歩み寄ろうとしていたのに、これ以降は王もまた王妃とは公の席で隣に居並ぶことはあっても、視線を合わせようともしなくなった。
国王夫妻の間に漂う雰囲気は以前にも増して冷淡なものになった。丞相金宗俊を初め廷臣たちは若い王と王妃が疎遠なのを憂えたけれども、国王自身が
―夫婦の問題には口を出すな。
と厳しく戒めていた手前、しばらくは静観の構えを取ることになる。世継ぎ問題は、しばらく棚上げ状態となった。
国王夫妻が疎遠のまま、月日は流れ、やがてその年も終わりの月を迎えた。
その日、王は毎日の日課として朝の御前会議を終えた後は便殿の執務室で執務を取っていた。眼を通さなければならない上奏文、決裁しなければならない書類は毎度のことながら山積みになっている。
やっと一つの山が片付きそうだと思ったら、また内官が盆に載った山のような書類を運んでくるといった有り様である。これでは、いつこの書類の山がなくなるのか判りはしない。
だが、と、彼は思うのだ。けして、これらの書類一つ一つを疎かにしてはならないと。この一つ一つが民の声なのだ。昔から〝民の声は天の声〟といわれてきた。民心を得られなかった王や王朝が長続きした試しはない。
幾らお忍びで民情視察と称して町に出ても、王が眼にすることができる民の暮らしは限られている。自分が市井で見ているのは、この国の氷山の一角でしかないのだ。ならば、民の声なき声は、これらの上奏文で知るしかない。これらを通して彼らが訴えている声に耳を真摯に傾け、でき得る限りの対応策を講じねばならない。
この国から苦しむ民を、民の怨嗟の声を少しでも減らすことこそが王たる我が身の務めではないか。この頃、王はそんなことを考えるようになった。
二ヶ月ほど前、王は賢に簪を贈ろうとしたことがあった。その時、賢は言った。
―嘉礼を挙げてから、殿下(チヨナー)は僕に数え切れないほどの宝飾品や衣装を下されたが、本当にそのようなものが必要なのかな? 一事が万事だ。国王がこの有り様なのだから、貴族たちが同じことをするのも当たり前。王族も貴族も質素倹約に徹すれば、あそこまで民を苦しめずとも済むのではないかと僕は考えるけどね。
あのときは可愛げのない女だと怒りを憶えたけれど、冷静になって考えれば、賢の意見は道理であった。
民が日々の食べるものにも事欠き苦しんでいるというのに、王が贅沢や享楽に耽っていては、いずれ国は滅びる。
民の声を聞くには、この上奏文一枚さえも疎かにはできないのだ。王は小さな息をつくと、また次の新しい山積みのいちばん上、上奏文を手にした。
そのときだった。両開きの扉越しに控えめな声が響いた。
「殿下、王妃殿の女官が参っております」
王はつと顔を上げ、背後を振り向いた。後ろにはこれも常のことで、内官長が畏まっている。
「爺、通してくれ」
心得た内官長は扉を開け、女官を先導する。その女官の顔は見憶えのあるもので、王妃殿の崔尚宮に仕える若い女官だった。若いが機転が利くところを気に入られており、崔尚宮の信頼も厚いと聞く。
「何か火急の用なのか?」
王の問いに、女官は口早に応えた。
「崔尚宮さまから、ご伝言を預かって参りました」
「伝言? 妙だな。大切な用件であれば、いつも崔尚宮自らが来るのだが」
王は改めて女官を見た。小柄で平凡な娘だが、頬にわずかに散ったソバカスに愛嬌がある。その顔がかすかに蒼褪めていた。
これはただ事ではない。厭な予感がした。
「王妃に何かあったのか?」
「見知らぬ女官を王妃殿で見かけたと者がいると」
「何だと? それは一体、どういうことだ」
王の剣幕に、女官はやや気圧されたようであったが、すぐに説明を始めた。
騒動の発端は、その朝だった。女官といっても最下級の者が井戸端で洗濯している時、確かに見かけない顔の女官が側を横切ったと上役に報告した。上役の女官はその下級女官を直接呼んで訊ねたところ、確かに見たことのない顔だったと証言し、王妃殿に動揺が走った。
予期せぬ形で結ばれたのは、賢だけではなく、王も同じであったかもしれない。とはいえ、名実共に夫婦になってからも、王と王妃の間はよそよそしかった。いや、これまでは何とか王の方だけは王妃に歩み寄ろうとしていたのに、これ以降は王もまた王妃とは公の席で隣に居並ぶことはあっても、視線を合わせようともしなくなった。
国王夫妻の間に漂う雰囲気は以前にも増して冷淡なものになった。丞相金宗俊を初め廷臣たちは若い王と王妃が疎遠なのを憂えたけれども、国王自身が
―夫婦の問題には口を出すな。
と厳しく戒めていた手前、しばらくは静観の構えを取ることになる。世継ぎ問題は、しばらく棚上げ状態となった。
国王夫妻が疎遠のまま、月日は流れ、やがてその年も終わりの月を迎えた。
その日、王は毎日の日課として朝の御前会議を終えた後は便殿の執務室で執務を取っていた。眼を通さなければならない上奏文、決裁しなければならない書類は毎度のことながら山積みになっている。
やっと一つの山が片付きそうだと思ったら、また内官が盆に載った山のような書類を運んでくるといった有り様である。これでは、いつこの書類の山がなくなるのか判りはしない。
だが、と、彼は思うのだ。けして、これらの書類一つ一つを疎かにしてはならないと。この一つ一つが民の声なのだ。昔から〝民の声は天の声〟といわれてきた。民心を得られなかった王や王朝が長続きした試しはない。
幾らお忍びで民情視察と称して町に出ても、王が眼にすることができる民の暮らしは限られている。自分が市井で見ているのは、この国の氷山の一角でしかないのだ。ならば、民の声なき声は、これらの上奏文で知るしかない。これらを通して彼らが訴えている声に耳を真摯に傾け、でき得る限りの対応策を講じねばならない。
この国から苦しむ民を、民の怨嗟の声を少しでも減らすことこそが王たる我が身の務めではないか。この頃、王はそんなことを考えるようになった。
二ヶ月ほど前、王は賢に簪を贈ろうとしたことがあった。その時、賢は言った。
―嘉礼を挙げてから、殿下(チヨナー)は僕に数え切れないほどの宝飾品や衣装を下されたが、本当にそのようなものが必要なのかな? 一事が万事だ。国王がこの有り様なのだから、貴族たちが同じことをするのも当たり前。王族も貴族も質素倹約に徹すれば、あそこまで民を苦しめずとも済むのではないかと僕は考えるけどね。
あのときは可愛げのない女だと怒りを憶えたけれど、冷静になって考えれば、賢の意見は道理であった。
民が日々の食べるものにも事欠き苦しんでいるというのに、王が贅沢や享楽に耽っていては、いずれ国は滅びる。
民の声を聞くには、この上奏文一枚さえも疎かにはできないのだ。王は小さな息をつくと、また次の新しい山積みのいちばん上、上奏文を手にした。
そのときだった。両開きの扉越しに控えめな声が響いた。
「殿下、王妃殿の女官が参っております」
王はつと顔を上げ、背後を振り向いた。後ろにはこれも常のことで、内官長が畏まっている。
「爺、通してくれ」
心得た内官長は扉を開け、女官を先導する。その女官の顔は見憶えのあるもので、王妃殿の崔尚宮に仕える若い女官だった。若いが機転が利くところを気に入られており、崔尚宮の信頼も厚いと聞く。
「何か火急の用なのか?」
王の問いに、女官は口早に応えた。
「崔尚宮さまから、ご伝言を預かって参りました」
「伝言? 妙だな。大切な用件であれば、いつも崔尚宮自らが来るのだが」
王は改めて女官を見た。小柄で平凡な娘だが、頬にわずかに散ったソバカスに愛嬌がある。その顔がかすかに蒼褪めていた。
これはただ事ではない。厭な予感がした。
「王妃に何かあったのか?」
「見知らぬ女官を王妃殿で見かけたと者がいると」
「何だと? それは一体、どういうことだ」
王の剣幕に、女官はやや気圧されたようであったが、すぐに説明を始めた。
騒動の発端は、その朝だった。女官といっても最下級の者が井戸端で洗濯している時、確かに見かけない顔の女官が側を横切ったと上役に報告した。上役の女官はその下級女官を直接呼んで訊ねたところ、確かに見たことのない顔だったと証言し、王妃殿に動揺が走った。
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