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秘花54
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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これで話は終わったのかと思いきや、崔尚宮はまだ物言いだけに賢を見ている。
「崔尚宮、まだ何かあるのかい?」
「それから、このお話はお伝えすべきかどうか迷ったのですが」
それでも伝えるべきだと思った―、崔尚宮の顔には書いてある。賢は小さいけれど、はっきりとした声で応えた。
「崔尚宮が僕に伝えた方が良いと思うなら、そのとおりなんだろう。何でも聞くから、教えて」
崔尚宮はまた低声で話し始めた。
「前任の尚宮長さまのことでございます」
「前任の尚宮長といえば、婆やのことだね」
崔尚宮はやや緊張した面持ちで頷いた。
祖母のように可愛がってくれた優しい尚宮長の顔を思い出し、顔がひとりでにほころぶ。今頃は無事に元国に戻り、娘夫婦たちと幸せに暮らしているだろうか。
物想いに耽っていると、崔尚宮が沈痛な表情で言った。
「実は尚宮長さまはお亡くなりになりました」
「えっ」
賢は惚(ほう)けたように崔尚宮を見上げた。
「婆やが死んだ? 何故!」
崔尚宮は小さな溜息をつき、続けた。
「王女さまが王宮を出られた翌朝、尚宮長は自ら首を括り亡くなられました」
「そんな。婆やが何で」
新たな涙が溢れ、賢は絶句した。賢の耳にあまりにも静謐すぎる崔尚宮の声が響いた。
「尚宮長さまはひそかに遺書を残されていました」
その遺書には、このようにしたためられていたという。高麗王室危機存亡のときのみしか口外してはならない秘密通路を使い王太子を逃したからには、その罪は後宮女官長として自らの生命をもって償うと。
崔尚宮はいっそう声を低めた。
「ですが、このご遺書は私の独断で既に燃やしました。このことを知る者は私の他には数名しかおりません」
そのため、王宮内では前任の尚宮長が王太子を逃したというのは、あくまでも噂、推測の域を出ない話ということになっている。
「婆や」
賢は寝台に突っ伏した。
自分は何という身勝手な愚か者であったことか。考えてみれば、一国の後宮を与る女官長が禁忌を破って秘密通路の存在を他言したのだ。責任感のある尚宮長なら、当然、その罪の重さも自覚していたろうし、事後は生命をもって責任を取ることも想定内であったはず。
なのに、自分は迂闊にもそこまで考えられず、自分だけ秘密通路を使ってまんまと逃れ、安穏と暮らしていた。その間、尚宮長は自らの生命を絶って責任を取っていたのだ。
―婆や、婆や。どうか、愚かな僕を許してくれ。
生まれてすぐに生母を亡くした賢にとっては五歳まで育ててくれた乳母と、祖母代わりであった尚宮長は貴重な存在だった。乳母は賢が五歳になった春、体調を崩してやむなく退職して後宮を離れた。その後はずっと尚宮長がその代わりのようなものだった。
彼女は賢の母の乳母だった。賢は元生まれの母に似ていると言い、成長するにつれて永国公主に似てきた賢に実の祖母のような愛情を注いでくれた人だった。
ジュチと尚宮長、我が身と拘わったばかりに二人の大切な人たちが亡くなった。自分よりも賢の幸せと無事を願い賢のために生命を落とした人たちだった。
けれど、果たして我が身はそこまでの価値ある人間なのか。二つの生命を犠牲にしてまで、のうのうと生き存えている自分の生きる意味は何なのだろう。
ひっそりと涙を零す賢の瞼に、優しかった尚宮長の笑顔、ジュチの最期の微笑が浮かんで消えた。
その日は朝から天も佳き日をことほぐかのように高麗の空は澄み渡っていた。七月終わりのこととて、暑さはいやになるほど厳しいものではあったが、国を挙げての一大行事である嘉礼(カレ)は厳粛な中にも盛大に行われた。
冕冠(べんかん)を被り、婚礼の盛装に威儀を正した国王は十八歳。若々しさの中に早くも一国を統べる王者としての風格が漲り、その凛々しく端正な面立ちが際立っている。身動きする度に冠から垂れた玉や硝子がしゃらしゃらと涼やかな音を立てた。
今、王の待つ正殿前のひときわ高い壇上に向かい、この日、王妃に冊立される永照公主が正門から続く通路を進んでくる。永照公主も王と同じ十八歳、咲く花の盛りはかくやといわんばかりの匂いやかな美貌はさながら天空を舞う天女が現(うつ)し世に降臨したかのよう。
その清らかな気品溢れる美貌は周囲を圧倒し、王妃が一歩正殿前広場に脚を踏み入れるとともに、居並び待ち受ける百官たちからどよめきが洩れた。
「崔尚宮、まだ何かあるのかい?」
「それから、このお話はお伝えすべきかどうか迷ったのですが」
それでも伝えるべきだと思った―、崔尚宮の顔には書いてある。賢は小さいけれど、はっきりとした声で応えた。
「崔尚宮が僕に伝えた方が良いと思うなら、そのとおりなんだろう。何でも聞くから、教えて」
崔尚宮はまた低声で話し始めた。
「前任の尚宮長さまのことでございます」
「前任の尚宮長といえば、婆やのことだね」
崔尚宮はやや緊張した面持ちで頷いた。
祖母のように可愛がってくれた優しい尚宮長の顔を思い出し、顔がひとりでにほころぶ。今頃は無事に元国に戻り、娘夫婦たちと幸せに暮らしているだろうか。
物想いに耽っていると、崔尚宮が沈痛な表情で言った。
「実は尚宮長さまはお亡くなりになりました」
「えっ」
賢は惚(ほう)けたように崔尚宮を見上げた。
「婆やが死んだ? 何故!」
崔尚宮は小さな溜息をつき、続けた。
「王女さまが王宮を出られた翌朝、尚宮長は自ら首を括り亡くなられました」
「そんな。婆やが何で」
新たな涙が溢れ、賢は絶句した。賢の耳にあまりにも静謐すぎる崔尚宮の声が響いた。
「尚宮長さまはひそかに遺書を残されていました」
その遺書には、このようにしたためられていたという。高麗王室危機存亡のときのみしか口外してはならない秘密通路を使い王太子を逃したからには、その罪は後宮女官長として自らの生命をもって償うと。
崔尚宮はいっそう声を低めた。
「ですが、このご遺書は私の独断で既に燃やしました。このことを知る者は私の他には数名しかおりません」
そのため、王宮内では前任の尚宮長が王太子を逃したというのは、あくまでも噂、推測の域を出ない話ということになっている。
「婆や」
賢は寝台に突っ伏した。
自分は何という身勝手な愚か者であったことか。考えてみれば、一国の後宮を与る女官長が禁忌を破って秘密通路の存在を他言したのだ。責任感のある尚宮長なら、当然、その罪の重さも自覚していたろうし、事後は生命をもって責任を取ることも想定内であったはず。
なのに、自分は迂闊にもそこまで考えられず、自分だけ秘密通路を使ってまんまと逃れ、安穏と暮らしていた。その間、尚宮長は自らの生命を絶って責任を取っていたのだ。
―婆や、婆や。どうか、愚かな僕を許してくれ。
生まれてすぐに生母を亡くした賢にとっては五歳まで育ててくれた乳母と、祖母代わりであった尚宮長は貴重な存在だった。乳母は賢が五歳になった春、体調を崩してやむなく退職して後宮を離れた。その後はずっと尚宮長がその代わりのようなものだった。
彼女は賢の母の乳母だった。賢は元生まれの母に似ていると言い、成長するにつれて永国公主に似てきた賢に実の祖母のような愛情を注いでくれた人だった。
ジュチと尚宮長、我が身と拘わったばかりに二人の大切な人たちが亡くなった。自分よりも賢の幸せと無事を願い賢のために生命を落とした人たちだった。
けれど、果たして我が身はそこまでの価値ある人間なのか。二つの生命を犠牲にしてまで、のうのうと生き存えている自分の生きる意味は何なのだろう。
ひっそりと涙を零す賢の瞼に、優しかった尚宮長の笑顔、ジュチの最期の微笑が浮かんで消えた。
その日は朝から天も佳き日をことほぐかのように高麗の空は澄み渡っていた。七月終わりのこととて、暑さはいやになるほど厳しいものではあったが、国を挙げての一大行事である嘉礼(カレ)は厳粛な中にも盛大に行われた。
冕冠(べんかん)を被り、婚礼の盛装に威儀を正した国王は十八歳。若々しさの中に早くも一国を統べる王者としての風格が漲り、その凛々しく端正な面立ちが際立っている。身動きする度に冠から垂れた玉や硝子がしゃらしゃらと涼やかな音を立てた。
今、王の待つ正殿前のひときわ高い壇上に向かい、この日、王妃に冊立される永照公主が正門から続く通路を進んでくる。永照公主も王と同じ十八歳、咲く花の盛りはかくやといわんばかりの匂いやかな美貌はさながら天空を舞う天女が現(うつ)し世に降臨したかのよう。
その清らかな気品溢れる美貌は周囲を圧倒し、王妃が一歩正殿前広場に脚を踏み入れるとともに、居並び待ち受ける百官たちからどよめきが洩れた。
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