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秘花㉑
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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何と言っても、賢は元国皇帝を外祖父に持つ高貴な血筋の姫君なのだ。掌中の玉と愛でていた孫が突如として変死すれば、皇帝が黙っているはずがない。最悪、大軍を率いて高麗を攻めてくる可能性もあった。
叶うなら、元国皇帝の孫たる王子(王女)は生かしておきたい。それが反元派の本音に相違なかった。王子である限り、生かしておくのは難しい。けれども、王女であったとなれば殺すのは惜しい、元国との有効な取引に使える手駒となる存在だ。
つまり、新王はそこまでのことを考えた上で、反元派の誘いに乗ったと見せかけた。怖ろしく頭の切れる男であることに間違いはない。
ジュチは深い息を吐き出した。
彼の望みは即ち、賢の望みでもある。仮に王がいけ好かない男だとしても、賢が王を生涯の伴侶として受け容れても良いというのなら、ここまで悩みはしない。
そう、彼の美しい主君は明らかに王を厭うている。従弟への信頼が厚かっただけに、一度裏切られた衝撃と怒りは深いのだろう。それに、王はしてはならない失態を犯してしまった。
たとえ賢の生命を救うためとはいえ、王太子に父王毒殺の嫌疑をかけてしまった。本来なら前国王を誅殺した大罪人が王妃になるなど考えられないが、そこは王の鶴の一声、強引に押してしまえばできないことはない。それでなくても反元派は新しい王には借がある。王が口をつぐんでいる限り、彼らが犯した前王暗殺という天をも怖れぬ所業が明るみになることはない。
それと引き替えに前王太子が実は女であると公表し、そのまま王妃に立てるというごり押しをしてしまっても、反元派の重臣たちは王の独断を大目に見るしかない。
結局のところ、賢の選択がこれからのジュチの生きる道をも決めることは間違いなかった。
―私はあなたさまが選ばれる道ならば、たとえ、どのような道であろうと付いてゆきます。
ジュチは既に幾度も繰り返した科白を心の中でもう一度告げた。
彼の大切な想い人であり、主君である王太子は彼の腕の中で無心に眠っていた。けして触れてはいけない高貴な人だと判っていながら、この胸に燃え盛る恋心は止められない。
安らいだ表情はあどけなく、頬には涙の跡がいく筋も残っていた。そっと手を伸ばして、指先でその涙の跡をなぞる。
すっかり寝入っている賢を抱き上げ、彼は簡素な寝台へと運んだ。寝台に横たえ上掛けをかけてやりながら、しばし、その寝顔を眺める。こんなにも無防備な寝顔を見せるのは賢が自分を信頼してくれているからだと思うと、甘い疼きが身体中を満たしてくれる。
せめて今だけはと、ジュチはそっと眠る王太子に顔を近づけた。その頬に軽く唇で触れた後も、彼はずっと主の寝顔を飽きもせずに見守っていた。
逃亡
その夜半、高麗の王宮―詳しくいえば、〝冷宮〟と称される殿舎から、前王太子とその従者の姿がかき消すように見えなくなった。
王太子とその従者は、前国王毒殺という大罪を犯した重罪人であり、そのために冷宮に監禁されていた最中であった。
冷宮に監禁されていた王太子の室の前には常時、屈強な兵士が二人から数人は監視に当たっていた。室内には窓一つとてなく、唯一の出入り口は正面、つまり兵たちが立っている扉しかない。そこもきっちりと施錠がなされおり、王太子に仕える宦官が出入りする際も特別許可された場合に限られた。
だが、王太子主従がその扉から出た形跡はまったくなかった。ところが―、意外な事実が露見することになり、王宮中は色めき立った。
冷宮の室には、壁の一部が動く場所があり、その壁を押すと、ぽっかりと洞窟のような穴が空いたのだ! そこを拠点として深い底なしの闇へと続く長い階段が現れ、それを拠点とする地下通路を辿ってゆくと四半刻余りもすれば王宮の敷地内でも外れに出ることが判った。
その辺りは一日の中に数度、巡回の兵士が見回る他は人影もない。周囲には高い塀が巡らせてあるが、人の力でよじ登ることは可能である。
冷宮には数多くの部屋があるが、中に数カ所、そういった室があるという言い伝えはひそやかに語り継がれていた。が、それを確かめ得た者はまだ誰一人としていなかったのだ。
今回の王太子逃亡はその秘密の抜け道を使って行われたことは容易に予測がついた。王太子が見事に逃げおおせた翌朝、後宮の一角ではまた別の騒動が持ち上がった。
叶うなら、元国皇帝の孫たる王子(王女)は生かしておきたい。それが反元派の本音に相違なかった。王子である限り、生かしておくのは難しい。けれども、王女であったとなれば殺すのは惜しい、元国との有効な取引に使える手駒となる存在だ。
つまり、新王はそこまでのことを考えた上で、反元派の誘いに乗ったと見せかけた。怖ろしく頭の切れる男であることに間違いはない。
ジュチは深い息を吐き出した。
彼の望みは即ち、賢の望みでもある。仮に王がいけ好かない男だとしても、賢が王を生涯の伴侶として受け容れても良いというのなら、ここまで悩みはしない。
そう、彼の美しい主君は明らかに王を厭うている。従弟への信頼が厚かっただけに、一度裏切られた衝撃と怒りは深いのだろう。それに、王はしてはならない失態を犯してしまった。
たとえ賢の生命を救うためとはいえ、王太子に父王毒殺の嫌疑をかけてしまった。本来なら前国王を誅殺した大罪人が王妃になるなど考えられないが、そこは王の鶴の一声、強引に押してしまえばできないことはない。それでなくても反元派は新しい王には借がある。王が口をつぐんでいる限り、彼らが犯した前王暗殺という天をも怖れぬ所業が明るみになることはない。
それと引き替えに前王太子が実は女であると公表し、そのまま王妃に立てるというごり押しをしてしまっても、反元派の重臣たちは王の独断を大目に見るしかない。
結局のところ、賢の選択がこれからのジュチの生きる道をも決めることは間違いなかった。
―私はあなたさまが選ばれる道ならば、たとえ、どのような道であろうと付いてゆきます。
ジュチは既に幾度も繰り返した科白を心の中でもう一度告げた。
彼の大切な想い人であり、主君である王太子は彼の腕の中で無心に眠っていた。けして触れてはいけない高貴な人だと判っていながら、この胸に燃え盛る恋心は止められない。
安らいだ表情はあどけなく、頬には涙の跡がいく筋も残っていた。そっと手を伸ばして、指先でその涙の跡をなぞる。
すっかり寝入っている賢を抱き上げ、彼は簡素な寝台へと運んだ。寝台に横たえ上掛けをかけてやりながら、しばし、その寝顔を眺める。こんなにも無防備な寝顔を見せるのは賢が自分を信頼してくれているからだと思うと、甘い疼きが身体中を満たしてくれる。
せめて今だけはと、ジュチはそっと眠る王太子に顔を近づけた。その頬に軽く唇で触れた後も、彼はずっと主の寝顔を飽きもせずに見守っていた。
逃亡
その夜半、高麗の王宮―詳しくいえば、〝冷宮〟と称される殿舎から、前王太子とその従者の姿がかき消すように見えなくなった。
王太子とその従者は、前国王毒殺という大罪を犯した重罪人であり、そのために冷宮に監禁されていた最中であった。
冷宮に監禁されていた王太子の室の前には常時、屈強な兵士が二人から数人は監視に当たっていた。室内には窓一つとてなく、唯一の出入り口は正面、つまり兵たちが立っている扉しかない。そこもきっちりと施錠がなされおり、王太子に仕える宦官が出入りする際も特別許可された場合に限られた。
だが、王太子主従がその扉から出た形跡はまったくなかった。ところが―、意外な事実が露見することになり、王宮中は色めき立った。
冷宮の室には、壁の一部が動く場所があり、その壁を押すと、ぽっかりと洞窟のような穴が空いたのだ! そこを拠点として深い底なしの闇へと続く長い階段が現れ、それを拠点とする地下通路を辿ってゆくと四半刻余りもすれば王宮の敷地内でも外れに出ることが判った。
その辺りは一日の中に数度、巡回の兵士が見回る他は人影もない。周囲には高い塀が巡らせてあるが、人の力でよじ登ることは可能である。
冷宮には数多くの部屋があるが、中に数カ所、そういった室があるという言い伝えはひそやかに語り継がれていた。が、それを確かめ得た者はまだ誰一人としていなかったのだ。
今回の王太子逃亡はその秘密の抜け道を使って行われたことは容易に予測がついた。王太子が見事に逃げおおせた翌朝、後宮の一角ではまた別の騒動が持ち上がった。
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