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身代わり姫の告白②

第二話「絶唱~身代わり姫の恋~」

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 千種は頼経を見上げた。彼は先刻、見せた動揺が嘘のように、静かな瞳で海を見ていた。その横顔はあまりにも静謐すぎて、何の感情も読み取れない。彼に嫌われたとしても仕方ない。この四年間というもの、千種は頼経をずっと騙し続けていたのだ。彼が心から愛おしんだ妻は源氏の姫などではなく、一御家人の娘でしかなかった。
 千種は続けた。
「身代わりを命じられたときは、私も尼御台さまをお恨み致しました。あの時、私は選択の余地すらなかったのです。退路を断たれ、ただ前に進むしか生きるすべはないのだと言われたのも同然でした。何故、我が身がそのような運命に―他人の人生に巻き込まれ翻弄されねばならないのかと、すべてが虚しいものに思えました。でも、その中にふと気付いたのです。尼御台さまが守りたかったものを私も共に守ろうと」
 頼経が初めて千種を見た。
「尼御台さまが守りたかったもの?」
 千種は頼経と視線を合わせ頷く。
「あの方は幕府を守りたかったのです。亡きご夫君頼朝公と共に夫婦力を合わせて築き上げた鎌倉幕府。尼御台さまにとって幕府は生涯のすべてを捧げた見果てぬ夢であったに違いありません」
「見果てぬ夢―」
「はい。頼朝公との間に四人の御子を儲けながら、皆さまが先立たれた。残された孫君方も次々とあえない最期を遂げられ―。最後に尼御台さまが望みを繋いでおられたのが頼家公のご息女であられる紫姫だったのです」
 口に出されたことはありませんが、と、千種は前置きした。
「紫姫は源氏嫡流―頼朝公の血を引く最後の方でした。恐らく尼御台さまが何より優先されたのは源氏の血を引く正真正銘の姫が誰でであるかという事実よりも、鎌倉武士の心のよりどころである源氏の存続だったのではないでしょうか」
「源氏の存続、か」
 頼経は呟き、首を振った。
「さもありなん。彼(か)の方は幕府が続いてゆくことに尋常ではない執念を燃やしておいでであった。私が四代将軍として迎えられたのも、そのせいだったのだからな」
 政子は生涯、源氏の血に拘った。頼経も頼朝の同母妹の曾孫であり、紛れもなく頼朝の血を引いている。その頼朝の血を引く摂関家出身の将軍に二代頼家の娘である紫を娶せ、いずれは源氏の直系の血を受け継ぐ五代将軍を誕生させる。それこそが政子の最後まで見た夢だったのである。
 頼経がポツリと洩らした。
「それでは、そなたは尼御台さまの見果てぬ野望の犠牲になったというわけか」
 その言葉に、千種は首を振る。
「最初はそのように思いましたれど、今はそうは思いませぬ。御所さまもご存じのように、私は生まれながらに背中に醜いアザを持っております。それゆえ、生涯誰にも嫁ぐこともなく、ひっそりと生涯を終えるつもりでした。それが、たまたま紫姫にうり二つ、生まれ歳まで同じだったことから、替え玉に仕立てられた。一御家人の娘であれば到底見ることの叶わなかった途方もない夢、幸せな夢を見せて頂きました」
 頼経が千種を見つめた。
「何故、そのように考えが変わったのだ?」
 千種は笑いを含んだ声で応えた。
「何も栄耀栄華ができたから幸せだったというのではごいません。本来なら政の表舞台には上がれぬおなごが幕府の存続のために働き、また女としても心から恋い慕う方とめぐり逢い、その上、妻としてその方のお側にいることができました。ですから、私は十分幸せだったのです」
「そなたという女はやはり、賢く優しいのだな。私がそなたの立場であれば、そのように達観はできぬ。恐らくはいまだに亡くなられた尼御台さまを恨んでいることだろう」
 千種は頼経に想いをこめた視線を向けた。
「今まで畏れ多くも御所さまを欺くようなことを致しまして、お詫びの言葉もございません。この秘密をお話しするべきか、実は私自身も迷いました。されど、御台さまに守りたきものがあったように、私にももっと他に守りたい別のものがあると気付いた時、やはり御所さまにだけは真実をお伝えしたいと決意しました」
 頼経が千種の瞳を見つめながら訊ねた。
「そなたの本当に守りたいものとは?」
 今度は千種は迷いなく応えた。
「あなたさまへの気持ちでございます。たとえ偽物の姫でも、偽りの結婚でも、私の頼経さまに対する想いだけは真です。なれば、その真だけはお慕いする方に伝えたいと願いました」
 すべてを話し終え、千種はむしろ心は軽やかになっていた。四年前のあの運命の日を転機として、千種の人生は大きく変わった。あの日からずっと重すぎる秘密を抱え、鬱々として生きてきた日々に彩りを与えてくれたのは他ならぬ愛するひと頼経の存在だった。
 これでもう思い残すことはない。千種は晴れやかな表情で頼経を見上げた。
「申したいことはすべて申し上げました。すべてをお話ししたからには、いかようなるご処分を受けても致し方なしと覚悟は決めております。ただ、最後に一つお願いを聞いて頂けるなら、私の実家には累が及ばないようにして下さいませ。私の父は御家人ですが、尼御台さまの命に逆らうことはできませんでしし、実際、身代わりを命じられるとも知らず御所に上がって以来、私は父には逢うことも許されず実家との縁は途切れました」
 しばらく言葉はなかった。ただ打ち寄せては返す波の音だけが静かな空間に響いている。
 頼経が呟いた。
「哀れな。だが、何故、そなたはそのように優しく強く毅然としていられるのだ? 並の者であれば、己れの宿命を呪い現実を受け容れきれず気が狂ってしまう、それほどの酷い役目をそなたは課せられたのだぞ。なのに、どうして、そのように凜として己が運命を受け容れて生きてゆけるのだろう」
 頼経が淋しげな笑みを浮かべた。
「私にそなたが断罪できるはずがない。そなたの身体には私の子が宿っているのだぞ? 我が子を産んでくれようとする女を何故、罪に問える? たとえ、そなたが何者であろうとも、私が愛したのは、そなたという女だ。何も源氏の姫や紫姫という名前に恋をしたわけではない」
―たとえ、そなたが何者であったとしても、これから先、何を聞いたとしても、私のそなたへの想いは終生変わらぬ。
 互いに名も知らぬ同士から実は夫婦であったと知った時、頼経が千種にくれた言葉だ。あのときの科白が今、まざまざと耳奥に甦っていた。
 想いが溢れて言葉にならない。
「御所さま」
 言えなかった言葉が涙となって流れ落ちる。涙を流しながら見上げた妻を頼経は近寄り、優しく抱き寄せた。
「今日という日を私は未来永劫、忘れることはないだろう。愛する女から、私への気持ちこそがいちばん大切な守りたいものだと嬉しい言葉を貰った。私は今はむしろ、尼御台さまに感謝しているよ。あの方がそなたを替え玉に仕立てなければ、私はそなたと出逢えなかった」
 頼経は最後は冗談のように言い笑った。
 しばらく穏やかな静寂が二人を包み込む。二羽のカモメが寄り添うように並んで飛び、やがて空高く舞い上がってゆく。千種はしばらくそのカモメを追っていたが、やがて、二羽は空の蒼に吸い込まれるように見えなくなった。
「真の名は?」
 頼経によって唐突に破られた沈黙に、千種は眼を瞠った。
 頼経が繰り返した。
「そなたには真の名があるだろう?」
 意外なことを聞いたと眼をまたたかせた千種の前に、真摯な表情をした頼経がいた。
―ああ、この方は。
 千種の胸を温かいものが満たしてゆく。この方は私を優しいと言うけれど、本当に優しいのは頼経さまの方。
「千種と申します」
「では、あれがそなたの本来の名であったと?」
「はい。いつか御所さまが仰せになったように、春、百花が一同に咲く時期に生まれたので、父が母と相談してこの名を付けたのだと聞いたことがあります」
「千種、千種か」
 そのひとは宝物を慈しむかのように大切そうにその名を呼んだ。
「千種」
 もう一度、呼ばれた瞬間、心が震えた。だって、あまりにも幸せで。愛する男にとうとう本当の名前を呼んで貰えたから。
 頼経の声にわずかに狼狽が混じった。
「そなた、泣いているのか?」
 その言葉で、泣いていることに自分でも初めて気づいた。
「ああ、また泣く! そなたが泣いたら、私の方が困るのだと言っておるだろうに。何度言い聞かせても判らぬヤツだ」
 頼経は言葉とは裏腹に千種を引き寄せ、幼子をあやすようにトントンと背中を叩いてくれる。
「頼経さま、もう一度、名前を呼んで下さいませんか」
 頼経がハッとしたように千種を見た。
「とても―幸せなのです。もう誰にも呼んで貰うことはないだろうと思っていた名前を大好きな方に呼んで頂けるなんて、今でも信じられません」
「そなたはつくづく欲のない女だ。天下の将軍へのねだり言が名前を呼ぶだけで良いのか。そのようなもの、何度でも呼んでやる。千種」
 頼経は千種の漆黒の髪に頬を押し当てた。
「千種、私の千種。これまでさぞ辛かったろう。もう、これで私たち夫婦の間に秘密も隠し事もない。これより後は気持ちを楽に持って、今は無事に子を産んで身二つになることだけを考えてくれ」
 その日、千種は頼経の腕の中で泣くだけ泣いた。その涙は千種が〝紫〟となってからずっと心の奥底に封じ込めていた鬱憤を綺麗に洗い流したのだった。
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