上 下
18 / 34
見知らぬ花婿⑤

第二話「絶唱~身代わり姫の恋~」

しおりを挟む
 男が笑って首を振る。
「それは判らぬ。眼の前の女に下心を抱いているからと申して、すべての男が女をいきなり押し倒すわけでもなかろう。では、もう少し判りやすく言い換えよう、下心ではなく興味だ。もちろん、興味の中には下心も含まれていようが、この際、大雑把に興味と言い換える」
 大真面目に講釈を始める男を、千種は笑顔で見つめた。
「随分と確信を持った言い様をなさいますのね」
 しばらく沈黙があった。何か機嫌を損ねることを言ってしまったのかと千種が不安になり始めた頃、男が呟いた。
「私自身がそうだからだ」
「え―」
 思いもかけぬ話の展開に、千種はついてゆけない。
「それは、どういうことなのでしょうか?」
 これ以上、鈍い女だと思われたくはないけれど、本当に科白の意味が判らないのだから仕方ない。
 男が焦れったそうに千種を見た。
「ああ、本当に鈍い女だな。男がこれだけ言えば、判りそうなものを」
 彼の千種の手を掴む力がまた強くなった。グイグイと引っ張られるように歩く。どれほど歩いたのか、気が付いたときには町を抜け、眼前に海がひろがっていた。
「由比ヶ浜」
 吐息のようにかすかに零れ落ちた呟きは、絶え間なく続く海鳴りに忽ちにしてかき消された。
 はるか前方に、何やら小屋らしきものが見えている。男はその方向を指した。
「行ってみよう」
 千種の返事を待つつもりはないらしく、一人で歩いてゆく。千種は慌てて後を追った。
「私もそなたと同じだ」
 男が唐突に立ち止まり、振り返った。千種は息を呑んで、彼の次の言葉を待つ。
「何が同じなのですか?」
 またしても謎かけのようなことを言われ、千種は涙ぐんだ。今し方も〝鈍い女〟と言われたばかりだ。また今度もで、これでは早々に愛想を尽かされてしまうに違いない。
 振り向いた男は千種の涙を見て、狼狽えた。
「どうした! 私が何か酷いことを申したか?」
 千種は無理に微笑んだ。こんなことで涙をみせるなんて、余計に鬱陶しいと思われるだけだ。何故か、この男には嫌われたくない。
「ああ、本当に私は、どうしようもない男だな」
 端正な風貌には似合わず、両手で髪をかきむしった。
「済まぬ、私は本当に朴念仁で、実のところ、おなごを歓ばせる歌の一つも詠めぬのだ。これで公卿の血を引いているというのだから、自分でも信じられない。幼いときから武門の跡取りとして育てられたせいで、どうも武芸しか能のない武辺者になってしまった」
 彼はまだ一人でぶつぶつと言っている。
「こんなことなら、女を口説く和歌の一つでも日頃から用意しておくのだった」
 男が懐から手巾を出して、千種の眼尻に堪った涙をぬぐった。
「泣くな、私はそなたの泣いた顔は見たくない。そなたには、いつも笑顔で居て欲しいのだ」
 話している中に、いつしか二人は件(くだん)の小屋の前で来ていた。それは家というよりは、かつては家だったのであろうという方がふさわしかった。朽ち果てた小屋がぽつねんと浜辺に取り残されたように建っている。
「もう一度訊くが、私が何か粗相をしたのなら、教えてくれ」
 千種は潤んだ瞳で首を振る。男が参ったというように天を仰ぐ仕種をした。
「ああ、その顔はいかん。そんな眼をして男を見ては、男の下心もとい興味はますます募るばかりだ」
 千種はまたしても意味不明の言葉を呟く男に微笑みかけた。
「違います。私があなたさまに嫌われたのだと思って―」
 と、男は愕いたように仰け反った。どうも見かけによらず、剽軽な男のようである。いちいち仕種が大仰すぎる。
「私はそなたを嫌ってなどおらぬ。むしろ、その逆だ!」
 言ってから、慌てて口を押さえた。わざとらしい咳払いをして、彼は更に続けた。
「泣いたのが私のせいでなければ良いのだ。おお、そうであった、先刻の話の続きであったな。私がそなたと同じだと申したのは、ほれ、息が詰まりそうになると、こうして屋敷を抜け出して外に出ることだ」
 あ、と、千種は声を上げた。その表情に、男はニッと笑う。
「であろう?」
 屈託なく笑うと、大人の仮面が外れ、無防備で無邪気な素顔が現れる。この笑顔で、千種は男が二十歳よりはかなり若いのであろうことを再確認した。
「私もそなたも屋敷暮らしが窮屈になれば、人知れず抜け出して町に出る。似た者同士だ」
「そうですね」
 今度は意味が理解できたので、千種も素直に頷いた。
 男はうーんと気持ち良さげに両手を伸ばし、のびをする。天を仰ぎながら、彼は言った。
「今日も鎌倉の空は蒼く、海も空に負けないほどに蒼い。私は元々、鎌倉の生まれではない。京の都で生まれて、まだ赤児の時分に鎌倉の地に来た。鎌倉の者ではないが、暮らした年月はここが長いのだ」
「鎌倉はお好きですか?」
「ああ」
 彼は依然として空を仰ぎ見ている。千種もつられるようにして空を仰いだ。抜けるような空はそっくりそのまま鎌倉の海を写し取ったようだ。どこまでが空で、どこまでが海なのか判別がつかない。
 どこまでも蒼い大海原のような空に、白い絵の具をそこだけ落としたようにカモメが浮かんでいた。
「鎌倉は良きところだ。様々に美しきところがある」
 つと振り向き、彼は笑顔になった。整った面に悪戯っぽい微笑が浮かぶ。
「私がそなたに見せたかったというのは、この海、私の大好きな鎌倉の美しき海だったのだよ」
 刹那、胸に湧き上がった想いをどのように形容すれば良いのだろう。このひとが私に自分の好きな海を見せたいと言ってくれた。歓びが千種の胸を軽やかに駆け抜けた。
「空気も新鮮だし、都と異なり、海も近い。そなたのような美女もいる。―好きだ」
 最後は真正面から見つめられて言われ、千種は紅くなった。
―馬鹿みたい。この方は鎌倉が好きだとおっしゃっただけなのに、まるで自分が告白されたみたいに頬を熱くするなんて。
 慌てて自分を戒めてみたけれど、一度高鳴った胸の鼓動はなかなかおさまってくれなかった。
 男は視線を千種から荒れた小屋に移した。
「誰が住んでいたのであろうな」
 その言葉に、千種も朽ちた家の残骸を見る。かつてその家に人が暮らし、笑い声が響き、人の営みがあったはるか昔を偲ぶかのような想いで見つめる。よもや、そのうち捨てられた小屋が貌も見たことのない大叔父の娘、楓とその良人時繁の暮らしていたものだとは知る由もなかった。
 楓と時繁が鎌倉を去って三十数年の星霜を重ねている。時はただ茫々と大海のようにこの小さな小屋の傍を通り過ぎ、流れ去った年月から無残に取り残されて小屋だけがかつてを忍ぶよすがもないほどに変わり果てた姿を見せている。
 何かとても物哀しいような、厳粛なような気持ちを千種が感じたのも、ここに身内である楓が暮らしていたことを敏感に察知していたからだろうか。その想いを彼女は、かつてここで懸命に日々を紡いでいた人たちを想いながら小屋を眺めるからだろうと考えた。
 男が小屋を眺めながら、しみじみと言った。
「自然は凄いなと思うときがある。時の流れの中で、我ら人間はいつかこの世から消え去るが、海はいつまでも変わらずここにある。かつてこの小屋に暮らしていたであろう人々はいなくなっても、恐らく海はその頃と寸分違わぬだろう」
 彼は嘆息するように言い、小さく首を振った。
「つまぬ話であろう? このような話をしても、女人は歓ばぬな。何ゆえ、私は女に気の利いた科白一つも口にできないのか」
 男が自嘲するように言った時、千種は微笑んだ。
「そのようなことはございません。私もあなたさまと同じように思います。例えば、私がこの世からいなくなっても、あなたさまはここに来れば変わらぬ海を見ることができましょう。私があなたさまの傍から消えたしても、由比ヶ浜も鎌倉の海も空も何一つ変わりませぬゆえ。やはり自然は偉大だと思います」
 男がふいに千種を見た。
「何故、そなたはそのように哀しいことを言うのだ」
 千種が小首を傾げるのに、彼はやや強い口調で言った。
「二度と私の前から消え去るなどと不吉なことを申すな」
 男の黒い瞳が懇願するように見つめている。
しおりを挟む
初めまして。まだサイト初心者なので、使い方に慣れていません。ページが飛んだりする更新ミスがあるかもしれません。お気づきの点があれば、お知らせ頂けると幸いです。よろしくお願いします。
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

真田幸村の女たち

沙羅双樹
歴史・時代
六文銭、十勇士、日本一のつわもの……そうした言葉で有名な真田幸村ですが、幸村には正室の竹林院を始め、側室や娘など、何人もの女性がいて、いつも幸村を陰ながら支えていました。この話では、そうした女性たちにスポットを当てて、語っていきたいと思います。 なお、このお話はカクヨムで連載している「大坂燃ゆ~幸村を支えし女たち~」を大幅に加筆訂正して、読みやすくしたものです。

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...