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雨の朝(あした)②

第二話「絶唱~身代わり姫の恋~」

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 政子は先刻までの親しげな口調とは打って変わり、どこか淡々とした他人事めいた様子で語った。
「私はそなたに逢うたことはないが、楓はよう知っておる。更に、記憶に残る楓と紫はうり二つであった。だからこそ、楓とよう似ておるというそなたと紫もまた似ているのではと思うたのよ」
 それでも、千種はまだ政子の意図を計りかねた。茫然としている千種に向かい、政子は囁くような声で言った。
「我が孫紫は昨夜、死んだ」
「―っ」
 流石に、千種も息を呑んだ。紫姫が亡くなったどころか、病臥しているとの噂すら聞いてはいない。なのに、いきなり死んだと告げられて、納得できるはずもない。
 政子は更に声を低めた。
「紫が篤き病の床に伏していたのは幕府内でもわずかな者しか知らぬ」
「ですが、紫さまは御所さまとの祝言をまもなくに控えられたおん身では―」
 言いかけて、千種はハッとした。あまりの予想に唇が戦慄(わなな)いた。
「よもや、尼御台さま」
 雨音だけが響くしじまの中で、政子と千種の視線が交わった。明かりさえ射さぬ薄い闇が満たす中で、政子の眼が炯々と光っていた。
「それゆえにじゃ。やはり、河越の家の者は聡明じゃのう。皆まで言わずとも、私の頼みたきことは判ったようだ。そなたならば、この大事を託しても間違いはないと見たぞ」
 千種は熱病に浮かされたように烈しく首を振った。
「そのような! 私にそのような大切なお務めは果たせませぬ。紫さまの代わりになるなど。万が一、事が露見すれば、それは私一人の咎では済みますまい。畏れ多きことながら、尼御台さまを初め、執権どの、引いては幕府そのものの咎として追及されることもありまする」
 そこで、政子の語調が強くなった。
「そなたが望むと望まぬに拘わらず!」
 ひと息ついて、千種を見据える。
「最早、賽(さい)は投げられた。この幕府でも最高の機密情報を知った時点で、そなたはもう引き返せぬ大事に拘わったも同然」
 千種は唇を噛みしめる。その華奢な身体が唐突にあたたかな温もりに抱きしめられた。あろうことか、千種は政子の腕の中にいた。
「残酷なことを申しているのは判っている。されど、そなたの父康正の伯父恒正は、私の良人、亡き初代さまとは流人時代から苦楽を共にしてきた第一の臣であった。河越氏といえば北条氏にも勝る名門じゃ。どうか、千種よ、聞き分けて、私の頼みを聞いてたも。紫は頼朝さまの血を引く最後の源氏一族であった。その紫と新しき将軍頼経どのを娶せることは、私だけではない、これまで決死の覚悟で幕府を支え続けてきた御家人たちの悲願でもある。今、ここで、紫を死なせることはできぬのじゃ。あの哀れな娘には何が何でも生き存えて貰わねばならぬ」
 承久の乱の砌、並み居る御家人をも落涙させたという政子の説得に、千種が勝てるはずもなかった。
「―はい」
 千種は返事をする自分がまるでまったく見知らぬ人間になったような気がする。だが、やはり、女ながら幕府を率いるだけあり、政子は必要以上に感傷に浸ることもなく、頭の切り替えも速いようである。
「よくぞ決意してくれた。それと、今一つ、そなたに訊ねたいことがある」
 千種は覚悟を決めるように、端座した膝の上で揃えた両手に力をこめる。その様子を見るともなしに見た政子がおもむろに言った。
「そなた、いくつにあいなる?」
 短い沈黙が流れ、千種は応えた。
「二十八にあいなります」
「やはり、聞いたとおり、紫と同年か。姿形が似ておるだけでなく、生まれ年まで同じとは因果なものよのう」
 政子は軽く頷きながら、千種を見つめる。
「何故、その年まで嫁がなかった?」
 矢継ぎ早に繰り出される問いに、千種は少し言い淀んだ末、続けた。
「兄が一人、おりますが、生まれながらに盲目なのです。七歳の砌、家を出て、さる寺に入り僧侶となりました」
 それは紛うことない事実である。優しかった母は兄が僧籍に入るのを見ることなく、病で逝った。そのことがせめてもの救いといえた。
 まるで千種に考える暇を与えまいとでもするかのように、政子は次々と問いを発する。
「兄が盲目であるのは、そなたが嫁がぬ理由にはなるまい」
「―それは」
 千種は唇を無意識に舐めた。
 ああ、咽が渇いた。そういえば、もうかれこれふた刻近く茶を飲んでいない。などと、千種は、このような状況でありながら、どこか場違いなことを考えていた。
「兄の盲目は先天性のものです。私が良人を持ち、子が産まれた時、盲である可能性もあります。そのことを怖れました」
 政子の黒い瞳が射貫くように見つめている。その瞳は千種の返答にまったく得心していないことがありありと見てとれた。
 楓はホウと息をついた、やはり、尼御台の眼はごまかせないということだ。どうせ政子の提案した途方もない入れ替わりに荷担すると決めた身だ。
 今更、隠し立てすることもないだろう。
 千種は袿(うちぎ)を脱いだ。御所に上がると聞いて、急なことではあったが、持ち物すべてから最上等のものばかりを選んで身につけたのだ。流水に舞う桜を描いた袿は萌葱色、帯は錆朱で小袖は薄紅を選んだ。
 帯を解き、衿もとをくつろげると、はらりと小袖と下の長襦袢もはだけて肩を露わにする。胸は覆われているものの、白い背中は腰まですっかり現れた。
 政子はまたたきもせずに、白磁の膚を見つめいた。
 雪とも思えるそのすべらかな膚に、紅い花が咲いていた。丁度、背中のやや左寄りの真ん中ほどに、赤児の手のひらほどの紅いアザがある。
 政子が溜息をつき、千種が落とした袿を拾い、手ずから羽織らせてやった。
「哀れなことよ。そなたほどの美しい娘があたら花の時期を無為に過ごしたとは」
「ご納得頂けましたでしょうか?」
 このアザゆえに、母はいつも悩んでいた。父との間に儲けた二人の子は、家督を継ぐべき長男は生まれつき、眼が不自由だった。娘は生まれながらに背中に大きなアザがあり、嫁げぬ身体だった。
 二人ともに常ならぬ身体なのは、生みの母の罪であると、母は悩み抜きながら死んでいったのだ。そして、千種は母を苦しめた自分をずっと恨んできた。 
 元どおりに身仕舞いを整え、千種は政子を真っすぐに見た。
「畏れ多くも将軍家に嫁ぐ身にこのようなアザがあっては申し開きが立たないのではございませんか?」
 このアザが逆にこの難題を断る理由にならないかと、かすかな期待を込めたのだけれど。
 その気持ちを察したかのように、政子は淡く微笑した。その何もかも知り尽くしたような表情に、千種は我が身の迂闊さを知った。
 政子は端から知っていたのだ。千種の名前どころか、歳から背格好、歳も長年、秘密にしてきた背中のアザのことも。
 幕府を根底から揺るがすような大事を託す身代わり姫に千種を仕立てると決意したその瞬間から、千種のことはおよそ、どのようなことでも余さず調べ上げているに違いない。その上で、知らぬような貌をして訊ねるのだ。
 この時、千種は尼御台と呼ばれるこの女傑の怖ろしさをかいま見たのだった。
「残念だが、アザのことは何の問題もない。紫は深窓の姫として大切にかしずかれて育ったのだ。その姫の背中にアザがあるなどと知る者は姫の身近に仕えた侍女しか知らず、また、侍女も口外するようなことは一切無い。ゆえに、紫の背中に元々アザがあったのかなかったのかを実のところ、誰も知る者などおらぬ。のう、千種よ」
 政子は再度、千種の手を両手で包み込み、押し頂いた。これには愕き、手を引き抜こうとしたが、政子の力は齢(よわい)七十過ぎの女人とは信じられないほどに強かった。
「紫は我々の最後の希望の星であった。あの姫の細い肩に、この幕府の存亡がかかっていたと申しても過言ではない。頼朝さまの血を引く姫を新将軍に娶せる。それは頼経どのがわずかに一歳でここに来たときから、既に決まっていたことなのじゃ。当時、紫は十七歳、あの娘にふさわしき年格好の相手との縁組みもあまたあったに、すべて断ったのも、すべてはこの婚姻のため。結局、私は紫をどこにも嫁がさずに死なせてしもうた。十七の紫に、そなたの婿どのが今はまだ襁褓の取れぬ赤児だと告げた時、紫は赤児の妻になるのかと泣いた。あの泣き顔を私は今も忘れぬ。そうまでして、この婚姻は是が非でも成し遂げねばならぬものゆえな。千種、この名で呼ぶのも最後になろう。次にあいまみえるときは、そなたは既に千種ではない、紫じゃ、そのことをゆめ忘れぬようにな」
「はい」
 千種は消え入りそうな声で応え、平伏した。生涯誰にも嫁がぬと決めていた我が身が三十路を前にして嫁ぐことになるのも皮肉な話だ。そう思うと、他人の思惑に良いように翻弄される自分の人生が滑稽にも哀れにも思えた。
 立ち上がった政子が何を思ったか、千種を見下ろした。 
「誰かの妻になるという暮らしも、満更棄てたものではないかもしれぬぞ。頼経どのは年若いが、聡明で心優しい若者だ。たとえ身代わりとはいえ、私は今、この瞬間から、そなたを真の孫紫と思おう。ゆえに、そなたが頼経どのに添い、妻として女として幸せな生涯を送ることを望んでおる。それは紛うことのない真実だ」
「ありがたいお気持ちでございます」
 空々しい言葉は口にしても、虚しいだけだ。自らの口が紡ぐ言葉には何の意味もない。政子はそんな千種に憂い顔を向けた。
「私を恨むのは仕方ない。されど、頼経どのを恨むでないぞ。そなた自身の曇りなき眼で頼経どのをとくと見、どのような男かを判ずるのじゃ。曇った眼で頼経どのを見れば、そなただけでなく頼経どのをも不幸にする」
 衣擦れの音が遠ざかってゆく。依然として平伏した体勢でその音を聞きながら、千種は思った。
―我が人生は今、このときを持って終わった。
 来たときに案内してくれた侍女に導かれて部屋を出て廊下を辿る。吹き抜けになった渡殿からは庭が見渡せた。夏ならば、ここからは満開になった蓮の花が見渡せるはずだが、神無月の今は枯れた蓮(はちす)がどこかうらぶれた姿を晒しているだけだ。
 初夏には薄紅、純白と言わず大輪の蓮花が満開に咲き誇り、さながら極楽浄土もかくやといわんばかりの光景が出現する。それに引き替え、今の何と侘びしいことだろう。まさに、極楽と地獄ほどの違いがある。
 つい三ヶ月前には極楽のごとき花を咲かせいた蓮池に浮かぶのは枯れ花だけ、その上に細やかな雨が降り続いている。まるでその池の無残な姿に、これからの自分の姿を見るような気がして、千種はそっと眼を背けた。
 ふと視線を転じた先に、紫式部の花がひっそりと咲いていた。丁度、渡殿から庭まで続く短い階(きざはし)の傍、小粒の薄紫の実を一杯につけ、愛らしい花を咲かせている。千種には、その可憐な花が秋雨に打たれて、泣いているように見えた。見るともなく見入っていると、背後から声がかけられる。
「姫さま、いかがなされました? 外は肌寒うございます。大切な御身がご風邪でも召されたら一大事ですわ」
 そのひと言で、我に返った。そう、我が身はもう、千種ではない。河越康正の娘千種は、今日を境に死んだ。ここにいるのは尼御台の孫にして、源家の血を受け継ぐ最後の姫君紫なのだ。
 千種は滲んできた涙を眼裏で乾かした。そうでもしなければ、泣き出してしまいそうだったからだ。そして、一度溢れ出した涙は秋雨のように止むことはないだろう。
 ―だから、泣かなかった。
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