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疑惑②

「潮騒鳴り止まず~久遠の帝~」

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 そのひと月後。月明かりもない夜更け、河越家の庭の奥深く、ひそやかに動く影が二つあった。
「それでは、予定どおりに」
 男女の性別を感じさせない声はどこかに感情を置き忘れてきたかのように響いた。
 対するのは男の声。
「薬は?」
「ここにこざいます。これを当日の朝、頼朝の膳に混入させます」
「判った」
 短い沈黙の後、男の低い声が呟いた。
「鈴音、この計画、すべてはそなたに掛かっている。よしなに頼む」
「御意、必ずや我が生命に代えましても」
 囁き交わす声はそれきり、ふつりと止んだ。後はただ生い茂った樹木が黒々とした影を庭に落とすのみ。

 時繁の正体を知ってからも、表面上は穏やかな日々が流れていった。時繁が頼朝暗殺を企てていると知った今、彼を愛していても、心をひらくことはできない。
 ただ、楓には彼を告発することだけはどうしてもできなかった。大恩ある将軍夫妻には裏切り行為に他ならなかったが、楓には他にすべはなかった。
 彼女はただ沈黙を守り通すことで、愛する良人と自らの粉々に砕けそうになる心を守ったのだ。更に、幸か不幸か、楓は時繁がいつどんな形で、頼朝を暗殺するつもりなのかは詳細は知らなかった。鈴音という忍びと時繁の会話では、それが近い中に行われるというのは察せられたものの、それだけではいつなのか判らない。
 そんな中、楓は自らの懐妊を知ることになる。
「おめでとうございます。ご出産は来年の六月辺りになりましょう」
 楓が子どもの頃から河越家に出入りしている老いた薬師はにこやかに告げた。楓は薬師に十分な金子を取らせ、このことは当分は父恒正初め誰にも口外せぬようにと厳重に言い含めた。薬師は一瞬怪訝そうになったものの、すぐに深々と頭を下げた。
 初めての懐妊、しかも最愛の時繁の子を授かった。この歓びの日を一日千秋の想いで待っていたにも拘わらず、楓は手放しでは歓べなかった。事が成功するかどうかに関係なく、万が一、時繁の仕業だと露見してしまえば、時繁の生命ばかりではなく、腹の子の生命まで脅かされることになる。
 また、引いては父恒正や河越氏の家まで累が及ぶことは必定であった。
 将軍暗殺、それは世の中を根底から揺るがすほどの陰謀だった。時繁がその大罪に手を染めようとしている今、懐妊が知れたのも良かったのかどうかと思えば、涙が零れた。
 このようなときに傍に居て欲しい乳母さつきは楓の結婚を機に屋敷勤めを辞め、遠江の御家人に嫁いだ次女の許に身を寄せていた。今は孫の守をしながら、安楽な余生を過ごしていることが時折届く文には綴られていた。
 
 運命のその日はふいに訪れた。建久九年(一一九八)、その年も押し詰まった師走の二十七日、相模川において橋の落成式が盛大に執り行われた。相模橋は檜という上質な材質を用いたものであり、当時としては最先端の建築技術をもって造られた。
 そもそもこれは稲毛三郎重成が妻の供養のために施主となって行った工事であり、重成の亡妻は御台所北条政子の妹に当たった。
 そのため、将軍頼朝も落成式には臨席するという大変栄誉あるものになったのである。落成式は厳粛かつ賑々しく行われ、頼朝は大いに満足して帰途についた。
 事件はその帰り道に起こった。頼朝が途中、落馬するという事故が勃発、直ちに応急処置が施され、その身柄は輿で鎌倉まで送り届けられた。
 鎌倉は蜂の巣をひっくり返したような混乱に陥った。侍医をはじめ、名医と呼ばれる医者が集められ、頼朝の枕頭に侍り手を尽くして不眠不休の治療が行われる中、次第に事件の詳細がつまびらかにされていった。
 落馬の原因は、頼朝の馬が暴走し、相模川に乱入したことだった。その際、弾みで馬から振り落とされたのである。面妖であったのは、その馬は普段からよく訓練され、急に暴走するようなことはかつて一度もなかったこと、更に暴走したときは異常に興奮していたこと。
 また、頼朝自身もまるで眠り薬でも飲んだかのように馬上でうつらうつらと船を漕いでいたという。これもまた滅多とないことであった。頭脳派の武将といえども、歴戦の戦をかいくぐってきた頼朝である。乗馬は第一級で、調教されていない野生馬ですら楽々乗りこなしてみせるほどの腕前であった。それが居眠りで落馬とは不自然といえば不自然だ。
―連日の激務のお疲れが溜まっていたのではないか。
 それが大方の見方だったが、中には首を傾げる者たちもいた。
 また、一部では怪談めいた怖ろしい話もまことしやかに囁かれた。
―頼朝さまの前にふいに貴人のなりをした童子が浮かんだというではないか。
―貴人のなりをした童子? 
―そうじゃ、髪は角髪(みずら)に結い、眼の覚めるような深紅の小袖に純白の水干を纏った綺麗な童子であったそうな。
―それはもしや―。
 そこで人々は顔を合わせる。
―その童子は頼朝さまに〝我は安徳〟と言い、ふっとかき消えた。その瞬間、頼朝さまの馬が何ものかに怯えたように暴れ出したというぞ。
 安徳天皇は平清盛の娘徳子の生み奉った御子である。父は高倉天皇。第八十一代の帝ととして、わずかに御年一歳(数えは三歳)で即位した。平氏が外戚として繁栄する礎を築くための傀儡の帝ではあったが、清盛に溺愛され、源平の戦いでも終始、平家軍と行動を共にした。
 最期の戦いとなった壇ノ浦合戦ではいよいよおしまいと悟った平家方が帝のおわす御座船に集まり、源平双方が見守る中、祖母の二位の尼平時子に抱かれて三種の神器の中の二つと共に海中に身を投じられた。
 崩御されたときは六歳。その亡骸は後に漁師の網に引き上げられ、丁重に弔われた。安徳帝はそのため水神として祀られている。
 結局、安徳帝とともに海中に沈んだ神器二つの中の一つ、草薙の剣は見つからなかった。どれだけ探索の手を尽くしても発見できず、安徳帝が平家に報じられて西海に逃れてから、都では新帝が立った。それが頼朝の次女が女御として入内する予定の後鳥羽天皇、崩御した安徳天皇とは腹違いの弟であり、二つ下になる。
 つまり、後鳥羽天皇は神器なしで即位したということになる。その後も折に触れては神器の探索は行われたものの、ついに草薙剣はないまま、新しい剣が造られ内裏に納められたといわれている。
 頼朝の落馬は〝安徳幼帝の祟り、平家の呪い〟と巷で囁かれた。幕府は事実無根の噂を無責任に流す輩を取り締まったが、 
―鎌倉どのが平家の亡霊に呪われた。
 という噂は野火が枯れ野にひろがるごとく鎌倉ばかりでなく都にもひろがった。噂好きの都人は寄ると触ると、そのことで持ちきりになった。
 そんな中、一進一退を繰り返していた頼朝の病状が急激に悪化の兆しを見せ、翌一月十三日、ついに薨去、五十二年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
 頼朝の死から一夜明けたその朝、父恒正は憔悴しきった顔で帰邸した。頼朝が十代の頃より兄弟のようにして育ち、主従を超えた絆で繋がっていた主君の死に、恒正は悲嘆を隠せない様子だった。
 それもそのはず、頼朝が御所で寝ついてからというもの、その枕頭を一刻たりとも離れなかったのが恒正と御台所政子であった。頼朝の死を看取った恒正は疲れ果てて戻ってくるや、倒れるようにして深い眠りに落ちた。
 楓は頼朝の訃報を耳にした刹那、御所の方角を合掌して伏し拝んだ。
―御所さま、御台さま、不忠者の私をどうかお許し下さいませ。
 幼い頃には頼朝に抱き上げて貰ったこともある楓だ。神経質な面もあるにせよ、長く続いた公家社会から新たな武士の世へと大きく時代を切り開いた偉大な武将であった。
 結局、楓は主君への忠孝よりは男への愛を選んでしまったのだ―。
 仮に楓がすぐに頼朝や政子に、いや恒正にでも良いから事の次第を告げていれば、頼朝の落馬は未然に防げたはずだった。今や楓は時繁が頼朝の死の真相に深く関わっていると信じて疑っていない。
 恐らくは平清盛の遺した忍び集団〝落ち椿〟の末裔である、あの鈴音という男(女)が御所の台盤所に忍び込み、ひそかに睡眠薬を頼朝の朝の御膳に混入させた。あの者はひと月以上も前に婢女(はしため)として河越家に潜入していたのだ。
 自在に姿を変える術を持つ鈴音であれば、面体を変えて御所の厨房に入り込むことなど朝飯前であろう。また、普段は極めて大人しい頼朝の愛馬が俄に異変を起こしたのも解せぬ話であった。頼朝その人だけでなく、馬にも鞍に微小な針でも仕込んでいたか、もしくは薬を食(は)ませていたのかもしれない。大方、それも鈴音の仕業に相違なかった。それが時ならずして興奮した理由ではないか。
 楓はそのように今回の事件を見ていた。
 
 頼朝の死から二日経った。幕府内では現在、頼朝の葬儀のことで御台所政子の指揮の下、北条時政や河越恒正ら重臣たちが談合を重ねているという。初代将軍の格式をもって行われるため、準備にも入念に入念を重ねねばならない。
 父は丸一日在宅しただけで、またその日の夕刻には慌ただしく御所に向かった。以来、一度も帰ってきていない。時繁は頼朝の家臣とはいえ、あくまでも恒正の配下のため、いつものように夕刻には帰宅していた。
 頼朝の死が公表されてからというもの、夫婦の間に、殆ど会話らしい会話はなくなっていた。
 三日めの深夜のこと、楓は咽の渇きを憶えて眼を覚ました。ふと傍らを見ると、良人が眠っているはずの夜具はもぬけの殻だ。慌て夜具に触れてみれば、すでにしんと冷たい。真冬の夜であることを差し引いても、この分では既にかなり前に出て行ったものと思われた。
 楓は狼狽え、まろぶように部屋から転がり出た。
 蒼褪めた満月が煌々と怖いほどに美しく間近に迫って見えた。月の面にくっきりと刻まれた模様まで見えるほど近い。かつてこれほどまでに凄艶な美しさを際立たせた月を見たことがなかった。
 若夫婦の寝所前、小さな庭には今を盛りと紅椿が咲き誇っていた。突如として、手前の紅い花がポトリと落ちた。椿ほど色のないとかく沈みがちにな冬景色を艶やかに彩る花を知らないが、花冠ごとすっぽりと落花するその様が〝首が落ちる〟に通じ不吉だと見なされることも多いのだ。
 何かしら厭な予感がし、楓は何気なく空を仰ぎ、慄然とした。先ほどまで蒼く神秘的な光を放っていた月が深紅に染まっていた。紅い月、まさにそんな呼び名がふさわしい。
―まるで死人の血のような。
 楓は慌てて眼をこすった。もしや紅い椿を見ていたゆえ、その鮮やかすぎる色が残像となって紅い月などという幻覚を見せたのかもしれない。儚い期待を抱いたのである。
 が、ふっくらとした月はやはりゾッとするほど妖しく美しく紅かった。時繁が出ていったその夜、このような月を見ることになるとは―。
 薄い夜着一枚きりでは、一月の夜は寒すぎる。しんしんとした冷気が足許から這い上ってきて、楓の身体はすぐに冷え切った。
 それでも、楓は頓着せず、唇を噛みしめ、ただ紅い月を食い入るように見上げていた。

 今日も鎌倉の海はどこまでも蒼く、由比ヶ浜はきめ細やかな白砂がどこまでも続いている。絶え間なく鳴り響く海鳴りを聞きながら、楓は一歩一歩踏みしめるように浜辺を歩いていった。この道は愛する男へと続く一本道だ。この道を進めば、もう二度と後戻りはできない。
 生まれた家も父も棄て、楓は再び愛する男の許へ走る。二度と戻れない修羅の道をゆくために。
 父恒正の貌が眼裏をよぎる。ずっと慈愛深く見守ってくれた父を結果的には裏切ることになってしまった。自分はつくづく親不孝者だと思う。
―またいずこでひっそりと生きておるならば、それも良いと思ってな。
 四月に楓が時繁と河越に戻った時、父はそんなことを言った。楓の探索を早々に打ち切った背景には、影ながら娘の幸せを願う父の心があったのだ。今更ながらに、父の言葉が甦り、楓は瞼が熱くなる。自分が選ぼうとしている道は、どれだけの大切なものを棄てなければならないのか。
 それでも、楓は最早、あの男なしでは生きられない。今、時繁を追わずに河越の家で平穏だけれども虚しい日々を選べば、楓の心は永遠に死んでしまうだろう、
―お父さま。ごめんさない。
 楓は唇をきつく噛みしめ、もう一度、心の中で父に詫びた。  
 この懐かしい〝我が家〟に帰ってきたのは七ヶ月ぶりだった。去年の六月、河越の屋敷に戻るときには、またここに来るとは考えもしなかった。
 楓には予感があった。時繁は必ずやここにいるという確かな想いに導かれるようにして、ここに来たのだ。楓は少し軋む音を立てる扉を開けた。この戸が立てる音ですら以前は煩いと思ったのに、今は懐かしい。
 果たして、彼女の想い人はそこにいた。ただし、以前と大きく違うところは室内がガランとして持ち物らしいものは何一つないことだ。元々、男の一人暮らしらしく何もない家だったけれど、以前は申し訳程度にあった柳行李さえなくなっている。それはこの家(や)の主人が既にここを引き払うつもりでいることを何より物語っていた。
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初めまして。まだサイト初心者なので、使い方に慣れていません。ページが飛んだりする更新ミスがあるかもしれません。お気づきの点があれば、お知らせ頂けると幸いです。よろしくお願いします。
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