66 / 68
裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~66
しおりを挟む
もう聞いてはいられなかった。チュソンは室に入り、大股で母に近寄った。
息子の顔を見るや、母の顔が笑み崩れた。
「チュソンや。嘉礼の後は一向に顔を見せてくれないので、どうしているかと心配していましたよ。居ても立ってもおれらず、こうして訪ねてきました」
央明に対する棘のある声とは天地ほども違う猫なで声だ。チュソンは我が母の別の一面を初めて見た。あまり良い気持ちはしなかった。
チュソンは無難な言い訳をした。
「色々と忙しかったものですから。お伺いできず、申し訳ありませんでした」
母が意味ありげに言った。
「忙しい? そなたは畏れ多くも国王殿下の姫君を賜った身でしょう。附馬は一生涯、名ばかりの官職を与えられ、王室の飼い殺しにされる身。何が忙しいことがあるものですか」
チュソンは思わず声を荒げた。
「母上!」
幾ら何でも、酷すぎる。うつむいているため顔は見えないが、央明の肩が小刻みに震えていた。泣いているのかもしれない。
チュソンは自分を必死に抑え、冷静な声を出そうとした。
「そのことについては、もうご納得して頂いたはずです。翁主さまとの結婚は私自身が望み、よくよく考えた上でお受けしたことですゆえ」
母が腹の底からわき出るような声で言った。
「そなたは納得していても、私はいまだに納得はできていません」
母が憎々しげに央明を睨めつけた。
「そなたは科挙に最年少で首席及第した身ではないか。それをみすみす、こんなことで棒に振るなんて、母は我慢なりません」
憤懣やる方なしといった体で続ける。
「しかも、そなたが将来をなげうってまで迎えた嫁御は妻としての屋敷内の采配をするでもなく、昼日中から殿方が読むような書物に現を抜かしておる」
チュソンは静謐な声で断じた。
「翁主さまは、いつも書物を読んでいるわけではありません。私の妻として、この屋敷の女主人としてやらねばならぬ務めはすべて滞りなくやっています」
実際、央明はただ頭が良いだけではなかった。女の諸芸万端はすべて身につけていた。
結婚してまだ日も浅いが、央明は既に幾度も厨房に立ち、自ら腕をふるっている。チュソン自身、央明の手料理を食べたことがあるので、料理も一級の腕前だと自信を持って言える。
それでも彼女はいつも慎ましく、年配の女中から、あれこれと教わりながら大勢の女中たちに立ち交じって働いていた。使用人だからとけして上から目線で物を言うのではなく、己れに非があれば頭を下げ、至らないところは素直に認めて使用人に教えを乞うていた。だからこそ、女中たちは年若い央明に心服し、
ー若奥さまの仰せなら。
と、従順に働くのだ。
チュソンは実家の使用人たちに対して、母が頭を下げるのを見たことは一度たりともない。母はけして非情な女主人ではないけれど、やはり典型的な両班家の人間だった。使用人は自分たちとは違う世界の人間であり、自分たちは生まれながらにかしずかれる特権を持っているのだと信じて疑わない。
料理だけではなかった。央明は仕立ての腕もなかなかものだし、刺繍も見事なものだ。
結婚以来、彼が愛用しているのは央明が手ずから縫い上げた道袍だ。良人に対して距離を置いているというのに、彼女は彼のために手ずから衣服を縫い上げてくれた。チュソンは何より、その心遣いが嬉しかった。
央明を育てたのは亡くなった保母尚宮だというが、よほど心利いた女性であったのだとチュソンは央明の乳母が早死にしたことを残念に思ったものだ。
息子が嫁を庇ったのは逆効果だった。そのことをチュソンはすぐに身をもって知った。
母はいきなり文机に置かれていた書物を取り上げ、力任せに引き裂いたのだ。
あまりの展開に、チュソンはなすすべもなかった。貞淑な母はいつも鷹揚に笑っていた。少なくとも、チュソンには優しい母であったのだ。
だが、今の母を見るが良い。鬼のような形相で美しい顔を憎悪に歪め、これでもかと書物を破っている。
ふいに央明が立ち上がった。猛烈な勢いで母から書物を奪い取り、ひしと胸に抱く。
「本に罪はありません。義母上さまのお腹立ちは、この私にぶつけて下されば良いのです」
母がいきり立った。
「そなたは嫁の分際で義母(はは)に口答えするのか!」
央明は涙の滲んだ眼で母を見つめた。
「理不尽な仕打ちをされて、本が泣いております」
息子の顔を見るや、母の顔が笑み崩れた。
「チュソンや。嘉礼の後は一向に顔を見せてくれないので、どうしているかと心配していましたよ。居ても立ってもおれらず、こうして訪ねてきました」
央明に対する棘のある声とは天地ほども違う猫なで声だ。チュソンは我が母の別の一面を初めて見た。あまり良い気持ちはしなかった。
チュソンは無難な言い訳をした。
「色々と忙しかったものですから。お伺いできず、申し訳ありませんでした」
母が意味ありげに言った。
「忙しい? そなたは畏れ多くも国王殿下の姫君を賜った身でしょう。附馬は一生涯、名ばかりの官職を与えられ、王室の飼い殺しにされる身。何が忙しいことがあるものですか」
チュソンは思わず声を荒げた。
「母上!」
幾ら何でも、酷すぎる。うつむいているため顔は見えないが、央明の肩が小刻みに震えていた。泣いているのかもしれない。
チュソンは自分を必死に抑え、冷静な声を出そうとした。
「そのことについては、もうご納得して頂いたはずです。翁主さまとの結婚は私自身が望み、よくよく考えた上でお受けしたことですゆえ」
母が腹の底からわき出るような声で言った。
「そなたは納得していても、私はいまだに納得はできていません」
母が憎々しげに央明を睨めつけた。
「そなたは科挙に最年少で首席及第した身ではないか。それをみすみす、こんなことで棒に振るなんて、母は我慢なりません」
憤懣やる方なしといった体で続ける。
「しかも、そなたが将来をなげうってまで迎えた嫁御は妻としての屋敷内の采配をするでもなく、昼日中から殿方が読むような書物に現を抜かしておる」
チュソンは静謐な声で断じた。
「翁主さまは、いつも書物を読んでいるわけではありません。私の妻として、この屋敷の女主人としてやらねばならぬ務めはすべて滞りなくやっています」
実際、央明はただ頭が良いだけではなかった。女の諸芸万端はすべて身につけていた。
結婚してまだ日も浅いが、央明は既に幾度も厨房に立ち、自ら腕をふるっている。チュソン自身、央明の手料理を食べたことがあるので、料理も一級の腕前だと自信を持って言える。
それでも彼女はいつも慎ましく、年配の女中から、あれこれと教わりながら大勢の女中たちに立ち交じって働いていた。使用人だからとけして上から目線で物を言うのではなく、己れに非があれば頭を下げ、至らないところは素直に認めて使用人に教えを乞うていた。だからこそ、女中たちは年若い央明に心服し、
ー若奥さまの仰せなら。
と、従順に働くのだ。
チュソンは実家の使用人たちに対して、母が頭を下げるのを見たことは一度たりともない。母はけして非情な女主人ではないけれど、やはり典型的な両班家の人間だった。使用人は自分たちとは違う世界の人間であり、自分たちは生まれながらにかしずかれる特権を持っているのだと信じて疑わない。
料理だけではなかった。央明は仕立ての腕もなかなかものだし、刺繍も見事なものだ。
結婚以来、彼が愛用しているのは央明が手ずから縫い上げた道袍だ。良人に対して距離を置いているというのに、彼女は彼のために手ずから衣服を縫い上げてくれた。チュソンは何より、その心遣いが嬉しかった。
央明を育てたのは亡くなった保母尚宮だというが、よほど心利いた女性であったのだとチュソンは央明の乳母が早死にしたことを残念に思ったものだ。
息子が嫁を庇ったのは逆効果だった。そのことをチュソンはすぐに身をもって知った。
母はいきなり文机に置かれていた書物を取り上げ、力任せに引き裂いたのだ。
あまりの展開に、チュソンはなすすべもなかった。貞淑な母はいつも鷹揚に笑っていた。少なくとも、チュソンには優しい母であったのだ。
だが、今の母を見るが良い。鬼のような形相で美しい顔を憎悪に歪め、これでもかと書物を破っている。
ふいに央明が立ち上がった。猛烈な勢いで母から書物を奪い取り、ひしと胸に抱く。
「本に罪はありません。義母上さまのお腹立ちは、この私にぶつけて下されば良いのです」
母がいきり立った。
「そなたは嫁の分際で義母(はは)に口答えするのか!」
央明は涙の滲んだ眼で母を見つめた。
「理不尽な仕打ちをされて、本が泣いております」
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
チート魔王はつまらない。
碧月 晶
BL
お人好し真面目勇者×やる気皆無のチート魔王
───────────
~あらすじ~
優秀過ぎて毎日をつまらなく生きてきた雨(アメ)は卒業を目前に控えた高校三年の冬、突然異世界に召喚された。
その世界は勇者、魔王、魔法、魔族に魔物やモンスターが普通に存在する異世界ファンタジーRPGっぽい要素が盛り沢山な世界だった。
そんな世界にやって来たアメは、実は自分は数十年前勇者に敗れた先代魔王の息子だと聞かされる。
しかし取りあえず魔王になってみたものの、アメのつまらない日常は変わらなかった。
そんな日々を送っていたある日、やって来た勇者がアメに言った言葉とは──?
───────────
何だかんだで様々な事件(クエスト)をチートな魔王の力で(ちょいちょい腹黒もはさみながら)勇者と攻略していくお話(*´▽`*)
最終的にいちゃいちゃゴールデンコンビ?いやカップルにしたいなと思ってます( ´艸`)
※BLove様でも掲載中の作品です。
※感想、質問大歓迎です!!
部室強制監獄
裕光
BL
夜8時に毎日更新します!
高校2年生サッカー部所属の祐介。
先輩・後輩・同級生みんなから親しく人望がとても厚い。
ある日の夜。
剣道部の同級生 蓮と夜飯に行った所途中からプチッと記憶が途切れてしまう
気づいたら剣道部の部室に拘束されて身動きは取れなくなっていた
現れたのは蓮ともう1人。
1個上の剣道部蓮の先輩の大野だ。
そして大野は裕介に向かって言った。
大野「お前も肉便器に改造してやる」
大野は蓮に裕介のサッカーの練習着を渡すと中を開けて―…
エレベーターで一緒になった男の子がやけにモジモジしているので
こじらせた処女
BL
大学生になり、一人暮らしを始めた荒井は、今日も今日とて買い物を済ませて、下宿先のエレベーターを待っていた。そこに偶然居合わせた中学生になりたての男の子。やけにソワソワしていて、我慢しているというのは明白だった。
とてつもなく短いエレベーターの移動時間に繰り広げられる、激しいおしっこダンス。果たして彼は間に合うのだろうか…
ハルくんは逃げ出したい。~全寮制男子校の姫になったら、過保護なストーカー護衛に溺愛されました~
夜薙 実寿
BL
〝男子校の姫〟……それは、男だらけのむさ苦しい学園生活に咲いた一輪の花として、周りに彩りと癒しを与えるアイドルのような存在。
オレ、日向 陽(ヒナタ ハル)がこの春入学した全寮制私立男子校は、その〝男子校の姫〟が役職として制度化されているらしい。
けどまぁ、大衆に埋もれる平凡モブ(自認)のオレには、そんな姫制度なんて一切関係ない……と思っていたのに、あれよあれよという間に女装させられて、気が付いたら姫選抜会のステージに立たされて……まさかの、オレが姫に!?
周りの期待を裏切れず(あと、諸々の特権に多少揺らいで)仕方なく姫職を請け負うことにはしたものの、オレに付けられた護衛人が、何というか過保護過ぎて……。
オレを深窓の令嬢か何かと勘違いしているのか、荷物は持たせてくれないし、授業中も背後に立ってるし、あまつさえ皆がオレを(性的な意味で)狙っているなどと思い込んでいる始末。
警戒のし過ぎで周囲を威圧、排除してしまい……ああもうっ! これじゃあ、友達も出来やしない!
~無自覚可愛い系姫♂と執着美人護衛による、年の差学園主従BL!~
━━━━━━━━━━━━━━━
ストックが切れるまでは毎日(18:10頃)更新。以降は書け次第の気まぐれ不定期更新となります。
※他サイトでも先行公開しております
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる