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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~66

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 もう聞いてはいられなかった。チュソンは室に入り、大股で母に近寄った。
 息子の顔を見るや、母の顔が笑み崩れた。
「チュソンや。嘉礼の後は一向に顔を見せてくれないので、どうしているかと心配していましたよ。居ても立ってもおれらず、こうして訪ねてきました」
 央明に対する棘のある声とは天地ほども違う猫なで声だ。チュソンは我が母の別の一面を初めて見た。あまり良い気持ちはしなかった。
 チュソンは無難な言い訳をした。
「色々と忙しかったものですから。お伺いできず、申し訳ありませんでした」
 母が意味ありげに言った。
「忙しい? そなたは畏れ多くも国王殿下の姫君を賜った身でしょう。附馬は一生涯、名ばかりの官職を与えられ、王室の飼い殺しにされる身。何が忙しいことがあるものですか」
 チュソンは思わず声を荒げた。
「母上!」
 幾ら何でも、酷すぎる。うつむいているため顔は見えないが、央明の肩が小刻みに震えていた。泣いているのかもしれない。
 チュソンは自分を必死に抑え、冷静な声を出そうとした。
「そのことについては、もうご納得して頂いたはずです。翁主さまとの結婚は私自身が望み、よくよく考えた上でお受けしたことですゆえ」
 母が腹の底からわき出るような声で言った。
「そなたは納得していても、私はいまだに納得はできていません」
 母が憎々しげに央明を睨めつけた。
「そなたは科挙に最年少で首席及第した身ではないか。それをみすみす、こんなことで棒に振るなんて、母は我慢なりません」
 憤懣やる方なしといった体で続ける。
「しかも、そなたが将来をなげうってまで迎えた嫁御は妻としての屋敷内の采配をするでもなく、昼日中から殿方が読むような書物に現を抜かしておる」
 チュソンは静謐な声で断じた。
「翁主さまは、いつも書物を読んでいるわけではありません。私の妻として、この屋敷の女主人としてやらねばならぬ務めはすべて滞りなくやっています」
 実際、央明はただ頭が良いだけではなかった。女の諸芸万端はすべて身につけていた。
 結婚してまだ日も浅いが、央明は既に幾度も厨房に立ち、自ら腕をふるっている。チュソン自身、央明の手料理を食べたことがあるので、料理も一級の腕前だと自信を持って言える。
 それでも彼女はいつも慎ましく、年配の女中から、あれこれと教わりながら大勢の女中たちに立ち交じって働いていた。使用人だからとけして上から目線で物を言うのではなく、己れに非があれば頭を下げ、至らないところは素直に認めて使用人に教えを乞うていた。だからこそ、女中たちは年若い央明に心服し、
ー若奥さまの仰せなら。
 と、従順に働くのだ。
 チュソンは実家の使用人たちに対して、母が頭を下げるのを見たことは一度たりともない。母はけして非情な女主人ではないけれど、やはり典型的な両班家の人間だった。使用人は自分たちとは違う世界の人間であり、自分たちは生まれながらにかしずかれる特権を持っているのだと信じて疑わない。
 料理だけではなかった。央明は仕立ての腕もなかなかものだし、刺繍も見事なものだ。
 結婚以来、彼が愛用しているのは央明が手ずから縫い上げた道袍だ。良人に対して距離を置いているというのに、彼女は彼のために手ずから衣服を縫い上げてくれた。チュソンは何より、その心遣いが嬉しかった。
 央明を育てたのは亡くなった保母尚宮だというが、よほど心利いた女性であったのだとチュソンは央明の乳母が早死にしたことを残念に思ったものだ。
 息子が嫁を庇ったのは逆効果だった。そのことをチュソンはすぐに身をもって知った。
 母はいきなり文机に置かれていた書物を取り上げ、力任せに引き裂いたのだ。
 あまりの展開に、チュソンはなすすべもなかった。貞淑な母はいつも鷹揚に笑っていた。少なくとも、チュソンには優しい母であったのだ。
 だが、今の母を見るが良い。鬼のような形相で美しい顔を憎悪に歪め、これでもかと書物を破っている。
 ふいに央明が立ち上がった。猛烈な勢いで母から書物を奪い取り、ひしと胸に抱く。
「本に罪はありません。義母上さまのお腹立ちは、この私にぶつけて下されば良いのです」
 母がいきり立った。
「そなたは嫁の分際で義母(はは)に口答えするのか!」
 央明は涙の滲んだ眼で母を見つめた。
「理不尽な仕打ちをされて、本が泣いております」
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