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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~㊸
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どこかで、花が香っているのだろうか。央明は髪を梳いていた櫛を置き、姫鏡台を覗き込んだ。頭を軽くひと振りすると、艶やかな黒髪が滝のように流れ落ちる。
彼女は長い髪を手早く横に寄せて一つに纏めた。鏡には、蒼白い顔をした女が映っている。
こんな憂鬱そうな顔をした女と暮らして、チュソンはどこが嬉しいのだろうか。央明の側にはズラリと化粧道具が並んでいる。どれも、彼女が普段から愛用しているものばかりだ。
小さな陶器を手に取り、蓋を外す。これは白粉だ。白粉叩き(化粧パフ)で白粉を少量掬い、肌にポンポンと手際よく付けてゆく。昼間の化粧と違い、夜はあまり濃くしない。これから良人と初夜を迎えるはずの花嫁があまりに濃い化粧をするのも外聞が悪い。
第一、あの男ーチュソンに初夜に備えて気合いを入れてきたなどと誤解されては堪ったものではない。
とはいえ、まったくのスッピン(素顔)というのもあまりにたしなみがなさすぎる。こんな場合は、そこはかとなきくらいが丁度良い。
白粉は軽くはたく程度で終え、眼許には薄く紅を入れ、指の腹で軽くこすってぼかした。唇には珊瑚色の紅を丁寧に引き、仕上げに紙を銜える。これは歯に紅がつかないためである。
自らの仕事を検分するかのように鏡でもう一度、確認する。やはり、顔色ははすごぶる悪い。これでは、まるで病み上がりの半病人ではないか。薄化粧ではごまかしようがないほどだ。
央明は紅粉入れの蓋を開け、刷毛に紅をほんの少しだけつけた。鏡で確認しながら、頬骨の高くなった辺りにサッと紅を引く。
「これで良し、と」
頬紅をつけたのは、何も良人なる男を満足させるためではない。彼女は自分に言い聞かせ、立ち上がった。
「美鈴(ミリヨン)」
呼べば、控えの間に続く扉が開き、丸顔の若い娘がやってくる。金美鈴は央明付きの女官だ。物心ついたときから、ずっと側にいる。
央明はミリョン以外の女官には絶対に身辺の用をさせない。四年前までは央明が生まれたときからずっとお側去らずの乳母がいたけれど、病を得て亡くなった。今はこのミリョンただ一人が央明の理解者であり、味方だ。
ミリョンは央明を見て、微笑んだ。
「いつもながら、お美しいです」
央明が肩をすくめた。
「それは皮肉?」
「まさか」
ミリョンは笑った。
「お召し替えを?」
「そうね」
央明が気のない様子で言うのに、ミリョンはてきぱきと準備を始めた。央明は黙って立っているだけだ。その間に、ミリョンは夜着一式を蒔絵の衣装箱に入れて運んでくる。
「手伝いが必要でしょうか」
問われ、央明は、むっつりと首を振った。
「要らない」
「承知しました。私は隣におりますので、ご用があれば何なりとお申しつけ下さいませ」
ミリョンがまた隣室に下がり、央明は一人で重い婚礼衣装を脱ぎ始めた。
嘉礼を挙げた新婚夫婦は婚礼衣装のまま、初夜を迎えることが多い。新婦の婚礼衣装を脱がせるのは新郎の最初の役目だ。
だが、央明は断固として拒否した。あからさまに拒絶するわけにはゆかないので、疲れたから窮屈な婚礼衣装から早く解放されたいのだと、もっともらしい理由をつけた。
お人好しのチュソンは央明の我が儘を聞き入れ、央明はさっさとこうして婚礼衣装を脱いでいるというわけだ。
疲れたと言えば、新婚初夜は一人で寝かせてくれると思いきや、流石にそこまでお人好しではなかった。央明の期待は外れた。
まあ、良い。科挙に最年少で首席合格したと聞いていたから、どれだけ石頭で融通がきかぬ男かと思っていたけれど、予想外に話していて愉しい相手だ。
あろうことか、チュソンは十年前に下町で遭遇したあの少年だった。あの子なら、絶対に石頭のはずはないし、話して愉しくないはずはない。チュソンと過ごしたのはわずかな時間にすぎなかったけれど、央明は今も大切な想い出として心の宝箱にしまい込んでいた。
幸いにも、彼はあの頃とまったく変わらぬ心を持った好青年に成長していた。あの頃は央明より背が低かったのに、今は見上げるほど背が高くなっている。
目鼻立ちも整っているし、若い娘にはモテるだろう。しかも、今をときめく羅氏の御曹司で、科挙に最年少で合格した天才といわれている。何故、選ぶ女には事欠かなかったはずのチュソンが自分をわざわざ妻に選んだのか?
彼女は長い髪を手早く横に寄せて一つに纏めた。鏡には、蒼白い顔をした女が映っている。
こんな憂鬱そうな顔をした女と暮らして、チュソンはどこが嬉しいのだろうか。央明の側にはズラリと化粧道具が並んでいる。どれも、彼女が普段から愛用しているものばかりだ。
小さな陶器を手に取り、蓋を外す。これは白粉だ。白粉叩き(化粧パフ)で白粉を少量掬い、肌にポンポンと手際よく付けてゆく。昼間の化粧と違い、夜はあまり濃くしない。これから良人と初夜を迎えるはずの花嫁があまりに濃い化粧をするのも外聞が悪い。
第一、あの男ーチュソンに初夜に備えて気合いを入れてきたなどと誤解されては堪ったものではない。
とはいえ、まったくのスッピン(素顔)というのもあまりにたしなみがなさすぎる。こんな場合は、そこはかとなきくらいが丁度良い。
白粉は軽くはたく程度で終え、眼許には薄く紅を入れ、指の腹で軽くこすってぼかした。唇には珊瑚色の紅を丁寧に引き、仕上げに紙を銜える。これは歯に紅がつかないためである。
自らの仕事を検分するかのように鏡でもう一度、確認する。やはり、顔色ははすごぶる悪い。これでは、まるで病み上がりの半病人ではないか。薄化粧ではごまかしようがないほどだ。
央明は紅粉入れの蓋を開け、刷毛に紅をほんの少しだけつけた。鏡で確認しながら、頬骨の高くなった辺りにサッと紅を引く。
「これで良し、と」
頬紅をつけたのは、何も良人なる男を満足させるためではない。彼女は自分に言い聞かせ、立ち上がった。
「美鈴(ミリヨン)」
呼べば、控えの間に続く扉が開き、丸顔の若い娘がやってくる。金美鈴は央明付きの女官だ。物心ついたときから、ずっと側にいる。
央明はミリョン以外の女官には絶対に身辺の用をさせない。四年前までは央明が生まれたときからずっとお側去らずの乳母がいたけれど、病を得て亡くなった。今はこのミリョンただ一人が央明の理解者であり、味方だ。
ミリョンは央明を見て、微笑んだ。
「いつもながら、お美しいです」
央明が肩をすくめた。
「それは皮肉?」
「まさか」
ミリョンは笑った。
「お召し替えを?」
「そうね」
央明が気のない様子で言うのに、ミリョンはてきぱきと準備を始めた。央明は黙って立っているだけだ。その間に、ミリョンは夜着一式を蒔絵の衣装箱に入れて運んでくる。
「手伝いが必要でしょうか」
問われ、央明は、むっつりと首を振った。
「要らない」
「承知しました。私は隣におりますので、ご用があれば何なりとお申しつけ下さいませ」
ミリョンがまた隣室に下がり、央明は一人で重い婚礼衣装を脱ぎ始めた。
嘉礼を挙げた新婚夫婦は婚礼衣装のまま、初夜を迎えることが多い。新婦の婚礼衣装を脱がせるのは新郎の最初の役目だ。
だが、央明は断固として拒否した。あからさまに拒絶するわけにはゆかないので、疲れたから窮屈な婚礼衣装から早く解放されたいのだと、もっともらしい理由をつけた。
お人好しのチュソンは央明の我が儘を聞き入れ、央明はさっさとこうして婚礼衣装を脱いでいるというわけだ。
疲れたと言えば、新婚初夜は一人で寝かせてくれると思いきや、流石にそこまでお人好しではなかった。央明の期待は外れた。
まあ、良い。科挙に最年少で首席合格したと聞いていたから、どれだけ石頭で融通がきかぬ男かと思っていたけれど、予想外に話していて愉しい相手だ。
あろうことか、チュソンは十年前に下町で遭遇したあの少年だった。あの子なら、絶対に石頭のはずはないし、話して愉しくないはずはない。チュソンと過ごしたのはわずかな時間にすぎなかったけれど、央明は今も大切な想い出として心の宝箱にしまい込んでいた。
幸いにも、彼はあの頃とまったく変わらぬ心を持った好青年に成長していた。あの頃は央明より背が低かったのに、今は見上げるほど背が高くなっている。
目鼻立ちも整っているし、若い娘にはモテるだろう。しかも、今をときめく羅氏の御曹司で、科挙に最年少で合格した天才といわれている。何故、選ぶ女には事欠かなかったはずのチュソンが自分をわざわざ妻に選んだのか?
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