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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~⑲

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 母の涙混じりの声が扉を通して聞こえてくる。ややあって、父の苦しげな声が聞こえた。
「恋愛経験のない者ほど、一度思い込んだら梃子でも動かぬ。あれほどに思い詰めたチュソンを見るのは初めてだが」
「では、大監(テーガン)は国王殿下に降嫁を願い出るおつもりなのですか!」
「ー」
 父は黙り込んで、何も言おうとしない。
 母が泣きながら訴える。
「央明翁主さまなどという方が王室にいらっしゃることも、私は今まで知りませんでした。息子の眼を引いたほどです、美しい方なのでしょうけれど、私は王女さまが恨めしいですわ。何故、後宮の奥深くにお住まいの姫君とチュソンが出会ってしまったのでしょう。チュソンの眼に入る場所にいなければ良かったのに」
 父のたしなめる声が続いた。
「何を言うのだ。翁主さまご自身に罪はない。人の縁とはそのようなものだ。意図して避けることはできぬ。チュソンと王女さまが出逢ったのも縁だとしか言いようがない」
 立ち聞きは人として褒められたことではない。父母の会話はまだ続いているようであったが、チュソンは足音を立てないように自室へと戻った。
 
 父の訓戒を受けて以来、チュソンも勤務中は気を引き締めるようになった。そのお陰で、仕事上のミスもなくなり、表面上はすべてが順調に流れていっているように見えた。
 三月半ばのある日、チュソンは勤務を終え、いつものように徒歩(かち)で屋敷まで戻った。高官クラスになると、偉そうに輿にふんぞり返って出仕する御仁もいるが、チュソンはあまり好みではない。ましてや、彼はまだ任官したばかりの新米だ。
 屋敷の前は、人気の無い道が続いている。官服のチュソンが屋敷に向かって歩いていると、小道を若い夫婦が対抗方面から歩いてくるのが見えた。
 チュソンの頬が思わず緩む。
「チョンドク」
「若さま」
 チョンドクも嬉しげに顔をほころばせていた。チョンドクに寄り添うように立つ若い女もチュソンに丁重に頭を下げた。この若い女はチョンドクが二年前に娶った妻である。チョンドクは八年前、チュソンが父の任地に下向するのに従った。もちろん、乳母のヨニも一緒だった。八年の間には、チョンドクにも様々なことがあった。都を離れた彼(か)の地でナ家の執事を長年務めたチョンドクの父親は亡くなり、また、彼自身は現地で雇った雇った若い女中と所帯を持った。
 チョンドクの妻は、腕に丸々と肥えた赤児を抱いていた。
「今日は早いな。もう帰りか?」
 チュソンが気軽に声をかけると、チョンドクが少し顔を曇らせた。
「赤ン坊の具合が良くないんで、連れて帰って医者に診せようと思ってるんです」
「それはいけない」
 チュソンは近寄り、女房の腕の中の赤児を見た。生後八ヶ月くらいの赤児は男の子だ。チョンドクによく似た利かん気な顔をしている。ふっくらとした頬が紅いのは、風邪で熱があるせいかもしれない。
「春先は気候が変わりやすいからな。よく気をつけてやると良い」
 チョンドクは頷き、軽く一礼し、夫婦は寄り添い合うようにまた歩き去った。チョンドクの妻は赤児を宝物のように大切そうに抱いていた。
 良い光景だと素直に思う。チョンドクはチュソンの乳兄弟だ。子ども時分は二人でーというより専ら、屋敷を抜けだそうとそそのかしたのはチュソンだがーよく、学問の師匠が来る日に限って、室を逃れて出て下町を闊歩した。
 チョンドクの母、チュソンの乳母を務めたヨニは今も女中頭として羅家ではなくてはならない存在である。執事を務めた父親の方は数年前、病を得て亡くなった。今は別の年かさの使用人が執事を務めているが、二、三年内にはチョンドクが父の跡を継いで執事になることは決まっている。
 チョンドクはチュソンが王宮に出仕する際は、供回りとして付き従い、屋敷では彼の身の回りの世話や雑用をこなしているのは昔と変わらない。その他は下男としての仕事をし、所帯を持った今は住み慣れた羅家の屋敷内にある小屋から出て、一家を構えた。去年には初子にも恵まれ、同じく羅家の女中である妻と共に子を連れて通いで奉公している。
 そういえば、ジアンと初めて下町で出逢ったのも、チョンドクと屋敷を抜け出した最中だった。あの日がもう随分と昔のように思える。
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