63 / 66
闇に咲く花~王を愛した少年~63
しおりを挟む
その一刻後。
誠恵は町の目抜き通りをひた走っていた。
東の空はまだ漸く薄明るくなってきたほどの早朝である。徐々に明るさを増す空を仰ぎ見ながら、誠恵の心は急いていた。
宮殿を抜け出してきたのは良いが、これから先のことを考えると、見通しはあまり芳しくない。
誠恵は少女の姿から、本来の少年に戻っていた。いや、十歳で月華楼に売られてきたときから、ずっと少女の格好をさせられていた彼は実に八年ぶりに〝男〟に戻ったということになる。
華やかさには欠けるが、上衣とズボンという服装は女性のチマチョゴリに比べると、随分身動きしやすい。
「これはこれで悪くないな」
誠恵は一人で呟き、慌てて周囲を見回して誰もいないことを確かめた。
まだ朝も早い町は寝静まっており、普段は大勢の通行人が行き交う通りに面した家々も固く戸を閉ざしている。
これからどうするかは、まだ、はっきりと決めてはいない。故郷の村に帰ることも考えたけれど、領議政は自分が村に帰ることなどお見通しだろう。もし、追っ手が放たれるとすれば、まず最初に赴くのが故郷に違いない。
ならば、村に帰るのは、あの古狸に捕まえてくれと自ら頼んでいるようなものだ。
彼は、逃げられるところまで逃げるつもりだ。あの方が王としてお歩きになられる道を、陰ながら見守っていたい―、そう願っているから、可能性がある限り、生きてみるつもりだ。
月華楼の香月にはひとめ逢ってゆきたいが、これもまたあまりにも無謀だろう。香月は実の母のように優しくしてくれたが、結局、最後には見世を守るために孫尚善に誠恵を売り渡したのだ。一度顔を見せたら、あの男に連絡して、自分の存在を知らせるに違いない。
とりあえずは東へ。日輪が赤々と空を染め上げて昇ってゆく方角に向かってみよう。
当てがあるわけではなく、あまりにも行き当たりばったりな気がしないでもなかったが、太陽が昇る方に向いて進めば、何か良いことがありそうな気がしたのである。
まずは都を一刻も早く出る。都を出さえすれば、無事逃げ切れる可能性は大きくなる。逃げ先として真っ先に眼を付けられるのが故郷だとも考えたが、実のところ、領議政ほどの大物が自分のような小物をわざわざ都から遠く離れた場所まで追ってくる意味はない。
幾ら〝任務〟に失敗すれば殺すと脅していたからとて、都の外に一旦出てしまえば、大がかりな捜索網を張ってまで捕らえるほどの価値は誠恵にはない。口封じのためなら、誠恵が都を出れば、領議政にとっては十分のはずだ。
誠恵がハッと顔を上げた。
東の空の端が燃えている。
夜の色をいまだわずかに残した黎明の空が完全に朝の色に染め上げられようとしている。
黎明の色は、希望を抱かせる。
たとえ、それが儚い一縷のものであったとしても。
誠恵が輝く朝陽に眼を奪われ、見惚れていたその時、彼は背後でビュウともヒュウともつかぬ音を聞いた。まるで風の唸りような音が一瞬耳の傍を掠めたかと思ったのと、誠恵の細い身体が大きくつんのめったのは、ほぼ同時のことだった。
「国王殿下、万歳。国王殿下、万―歳」
呟く誠恵の口からコポリと音を立てて鮮血が溢れ、飛沫(しぶき)のように周囲の地面を濡らす。
彼の背中を一本の矢が深々と刺し貫いていた。丁度心臓のある位置を毒矢で射貫かれたのだ。
しかも、早朝の人気が途絶えた道で、後ろから付けてくる気配は全く感じられなかった。大方、気配を消していたのだろう。よく訓練された刺客であれば、それくらいのことは朝飯前だ。よほどの手練れの者の仕業としか思えない。
誠恵は口から大量の血を吐きながら、地面に音を立てて倒れた。
誠恵は薄れゆく意識を懸命に保とうと己を叱咤する。
ありったけの力を振り絞り、うつ伏せて倒れていた状態で顔だけを起こした。
―嗚呼、何と美しい。
昇りかけた朝陽が正面―はるか東の地平を淡い藤色に染めている。
誠恵は震える手で懐から玉牌を取り出した。薔薇の花を翠玉石で象った玉牌は、簪とお揃いで光宗から贈られたものだ。
早々と毒が回ったのか、手脚は痺れて上手く動かないし、眼も時々霞んで視界が覚束なくなり始めている。
流石は抜かりのない領議政孫尚善だ、こうも易々と宮殿を出てからすぐに殺られるとは考えてもみなかった。
誠恵は町の目抜き通りをひた走っていた。
東の空はまだ漸く薄明るくなってきたほどの早朝である。徐々に明るさを増す空を仰ぎ見ながら、誠恵の心は急いていた。
宮殿を抜け出してきたのは良いが、これから先のことを考えると、見通しはあまり芳しくない。
誠恵は少女の姿から、本来の少年に戻っていた。いや、十歳で月華楼に売られてきたときから、ずっと少女の格好をさせられていた彼は実に八年ぶりに〝男〟に戻ったということになる。
華やかさには欠けるが、上衣とズボンという服装は女性のチマチョゴリに比べると、随分身動きしやすい。
「これはこれで悪くないな」
誠恵は一人で呟き、慌てて周囲を見回して誰もいないことを確かめた。
まだ朝も早い町は寝静まっており、普段は大勢の通行人が行き交う通りに面した家々も固く戸を閉ざしている。
これからどうするかは、まだ、はっきりと決めてはいない。故郷の村に帰ることも考えたけれど、領議政は自分が村に帰ることなどお見通しだろう。もし、追っ手が放たれるとすれば、まず最初に赴くのが故郷に違いない。
ならば、村に帰るのは、あの古狸に捕まえてくれと自ら頼んでいるようなものだ。
彼は、逃げられるところまで逃げるつもりだ。あの方が王としてお歩きになられる道を、陰ながら見守っていたい―、そう願っているから、可能性がある限り、生きてみるつもりだ。
月華楼の香月にはひとめ逢ってゆきたいが、これもまたあまりにも無謀だろう。香月は実の母のように優しくしてくれたが、結局、最後には見世を守るために孫尚善に誠恵を売り渡したのだ。一度顔を見せたら、あの男に連絡して、自分の存在を知らせるに違いない。
とりあえずは東へ。日輪が赤々と空を染め上げて昇ってゆく方角に向かってみよう。
当てがあるわけではなく、あまりにも行き当たりばったりな気がしないでもなかったが、太陽が昇る方に向いて進めば、何か良いことがありそうな気がしたのである。
まずは都を一刻も早く出る。都を出さえすれば、無事逃げ切れる可能性は大きくなる。逃げ先として真っ先に眼を付けられるのが故郷だとも考えたが、実のところ、領議政ほどの大物が自分のような小物をわざわざ都から遠く離れた場所まで追ってくる意味はない。
幾ら〝任務〟に失敗すれば殺すと脅していたからとて、都の外に一旦出てしまえば、大がかりな捜索網を張ってまで捕らえるほどの価値は誠恵にはない。口封じのためなら、誠恵が都を出れば、領議政にとっては十分のはずだ。
誠恵がハッと顔を上げた。
東の空の端が燃えている。
夜の色をいまだわずかに残した黎明の空が完全に朝の色に染め上げられようとしている。
黎明の色は、希望を抱かせる。
たとえ、それが儚い一縷のものであったとしても。
誠恵が輝く朝陽に眼を奪われ、見惚れていたその時、彼は背後でビュウともヒュウともつかぬ音を聞いた。まるで風の唸りような音が一瞬耳の傍を掠めたかと思ったのと、誠恵の細い身体が大きくつんのめったのは、ほぼ同時のことだった。
「国王殿下、万歳。国王殿下、万―歳」
呟く誠恵の口からコポリと音を立てて鮮血が溢れ、飛沫(しぶき)のように周囲の地面を濡らす。
彼の背中を一本の矢が深々と刺し貫いていた。丁度心臓のある位置を毒矢で射貫かれたのだ。
しかも、早朝の人気が途絶えた道で、後ろから付けてくる気配は全く感じられなかった。大方、気配を消していたのだろう。よく訓練された刺客であれば、それくらいのことは朝飯前だ。よほどの手練れの者の仕業としか思えない。
誠恵は口から大量の血を吐きながら、地面に音を立てて倒れた。
誠恵は薄れゆく意識を懸命に保とうと己を叱咤する。
ありったけの力を振り絞り、うつ伏せて倒れていた状態で顔だけを起こした。
―嗚呼、何と美しい。
昇りかけた朝陽が正面―はるか東の地平を淡い藤色に染めている。
誠恵は震える手で懐から玉牌を取り出した。薔薇の花を翠玉石で象った玉牌は、簪とお揃いで光宗から贈られたものだ。
早々と毒が回ったのか、手脚は痺れて上手く動かないし、眼も時々霞んで視界が覚束なくなり始めている。
流石は抜かりのない領議政孫尚善だ、こうも易々と宮殿を出てからすぐに殺られるとは考えてもみなかった。
0
☆ついに若き国王が寵姫の正体を知る! 美しき女官は実は、領議政が国王暗殺のために後宮に送り込んだ刺客の少年であった。真実を知った光宗は、緑花が男と知りながら、敢えて寝所に呼ぶがー。残酷な運命に翻弄される二人。朝鮮王朝時代、激動の中で美しく開き、一瞬で散った儚い恋のゆくえはー。ご覧頂き、ありがとうございます。大体、週に一度くらいの更新です。よろしければ、ご覧戴けますと幸いです。
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
虐げられている魔術師少年、悪魔召喚に成功したところ国家転覆にも成功する
あかのゆりこ
BL
主人公のグレン・クランストンは天才魔術師だ。ある日、失われた魔術の復活に成功し、悪魔を召喚する。その悪魔は愛と性の悪魔「ドーヴィ」と名乗り、グレンに契約の代償としてまさかの「口づけ」を提示してきた。
領民を守るため、王家に囚われた姉を救うため、グレンは致し方なく自分の唇(もちろん未使用)を差し出すことになる。
***
王家に虐げられて不遇な立場のトラウマ持ち不幸属性主人公がスパダリ系悪魔に溺愛されて幸せになるコメディの皮を被ったそこそこシリアスなお話です。
・ハピエン
・CP左右固定(リバありません)
・三角関係及び当て馬キャラなし(相手違いありません)
です。
べろちゅーすらないキスだけの健全ピュアピュアなお付き合いをお楽しみください。
***
2024.10.18 第二章開幕にあたり、第一章の2話~3話の間に加筆を行いました。小数点付きの話が追加分ですが、別に読まなくても問題はありません。
幼馴染は僕を選ばない。
佳乃
BL
ずっと続くと思っていた〈腐れ縁〉は〈腐った縁〉だった。
僕は好きだったのに、ずっと一緒にいられると思っていたのに。
僕がいた場所は僕じゃ無い誰かの場所となり、繋がっていると思っていた縁は腐り果てて切れてしまった。
好きだった。
好きだった。
好きだった。
離れることで断ち切った縁。
気付いた時に断ち切られていた縁。
辛いのは、苦しいのは彼なのか、僕なのか…。
【完結】『ルカ』
瀬川香夜子
BL
―――目が覚めた時、自分の中は空っぽだった。
倒れていたところを一人の老人に拾われ、目覚めた時には記憶を無くしていた。
クロと名付けられ、親切な老人―ソニーの家に置いて貰うことに。しかし、記憶は一向に戻る気配を見せない。
そんなある日、クロを知る青年が現れ……?
貴族の青年×記憶喪失の青年です。
※自サイトでも掲載しています。
2021年6月28日 本編完結
早く惚れてよ、怖がりナツ
ぱんなこった。
BL
幼少期のトラウマのせいで男性が怖くて苦手な男子高校生1年の那月(なつ)16歳。女友達はいるものの、男子と上手く話す事すらできず、ずっと周りに煙たがられていた。
このままではダメだと、高校でこそ克服しようと思いつつも何度も玉砕してしまう。
そしてある日、そんな那月をからかってきた同級生達に襲われそうになった時、偶然3年生の彩世(いろせ)がやってくる。
一見、真面目で大人しそうな彩世は、那月を助けてくれて…
那月は初めて、男子…それも先輩とまともに言葉を交わす。
ツンデレ溺愛先輩×男が怖い年下後輩
《表紙はフリーイラスト@oekakimikasuke様のものをお借りしました》
今世はメシウマ召喚獣
片里 狛
BL
オーバーワークが原因でうっかり命を落としたはずの最上春伊25歳。召喚獣として呼び出された世界で、娼館の料理人として働くことになって!?的なBL小説です。
最終的に溺愛系娼館主人様×全般的にふつーの日本人青年。
※女の子もゴリゴリ出てきます。
※設定ふんわりとしか考えてないので穴があってもスルーしてください。お約束等には疎いので優しい気持ちで読んでくださると幸い。
※誤字脱字の報告は不要です。いつか直したい。
※なるべくさくさく更新したい。

幸福からくる世界
林 業
BL
大陸唯一の魔導具師であり精霊使い、ルーンティル。
元兵士であり、街の英雄で、(ルーンティルには秘匿中)冒険者のサジタリス。
共に暮らし、時に子供たちを養う。
二人の長い人生の一時。

いつかコントローラーを投げ出して
せんぷう
BL
オメガバース。世界で男女以外に、アルファ・ベータ・オメガと性別が枝分かれした世界で新たにもう一つの性が発見された。
世界的にはレアなオメガ、アルファ以上の神に選別されたと言われる特異種。
バランサー。
アルファ、ベータ、オメガになるかを自らの意思で選択でき、バランサーの状態ならどのようなフェロモンですら影響を受けない、むしろ自身のフェロモンにより周囲を調伏できる最強の性別。
これは、バランサーであることを隠した少年の少し不運で不思議な出会いの物語。
裏社会のトップにして最強のアルファ攻め
×
最強種バランサーであることをそれとなく隠して生活する兄弟想いな受け
※オメガバース特殊設定、追加性別有り
.
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる