闇に咲く花~王を愛した少年~

めぐみ

文字の大きさ
上 下
40 / 66

闇に咲く花~王を愛した少年~㊵

しおりを挟む
 その一瞬、凶暴な手負いの獣の中に、傷ついた男の顔がかいま見えた。
「殿下、国王殿下。お願いです、どうか、どうか、許して下さい、お止め下さい」
 誠恵は、このときとばかりに懸命に繰り返す。
 欲望に歪んだ凶悪な表情が束の間、消えた。
 素顔の光宗は哀しげに誠恵を見つめている。
 嗚呼、私がこのお方の心をここまで追いつめたのだ。
 光宗の言葉は正しいのかもしれない。たとえ、その気はなくても、結果として自分が若い王の心を弄んだことに変わりはない。
 誠恵は最後の力を振り絞った。すべての力を込めて光宗の身体を両手で押すと、今度は呆気なく逞しい身体は離れた。
 ガタガタと戸を揺らしていると、心張り棒が外れたのか、戸が開いた。
 誠恵はもう、後も振り返らず、夢中で走った。途中で立ち止まれば、光宗が追いかけてきそうで怖かった。
 漸く殿舎まで帰って自室に行こうと廊下を歩いていた時、趙尚宮が息を呑んで自分を見ているのに気付いた。
 あまりにも怯えていて、我が身が今、どんな酷い格好をしているか―半裸に近い姿になっているかも認識できていないのだ。人眼を気にしている余裕など到底ない。
「張女官、その有様は、いかがしたのですか? 殿下のご寵愛をひとたびお受けした女官を宮殿内で辱めようとする不逞な輩がいるとは―」
 言いかけた趙尚宮がはたと口をつぐんだ。
 他ならぬその国王から度重なる召し出しを受けても、誠恵が応じなかったことを趙尚宮は知っている。
「まさか、張女官」
 趙尚宮は絶句した。後宮の女官は王の女と見なされ、王が望めば、何があろうと閨に上がらねばならない。この娘は幾度も光宗の相手をしたにも拘わらず、王の誘いを真っ向から拒んだのだ。
 聖君と国中の民から慕われる世に並びなき賢君光宗。そんな彼ですらも、恋をしてしまえば、ただ一人の若い男になる。欲しい女を得たいと、つい力をもって女を我が物にしようとしたのだろう。
「―趙尚宮さま」
 誠恵は趙尚宮の胸に飛び込み、号泣した。
 趙尚宮は、これ以上人眼につかぬよう、誠恵を自分の部屋に連れていった。新しいチョゴリをそっと肩から羽織らせてやり、その肩を宥めるように叩く。
「国王殿下のお心を疑ってはなりませんよ。殿下は今もあなたを大切に思っておいででしょう。ただ、あなたは殿下のお心をあまりにも長い間、そのままにしておきすぎました。あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。お心を受け容れられぬのに、殿下のお目に止まる場所にいるのは、あまりに酷ではありませんか?」
 趙尚宮の言葉は、もっともだ。誠恵は自分が光宗に対して取った仕打ちがいかに残酷だったか、初めて知った。
 泣きじゃくる誠恵の背を撫でながら、趙尚宮が小声で呟いたのを、誠恵は聞かなかった。
「可哀想に、誰が見ても似合いのご夫婦になるだろうと思うのに、あなたが殿下の御意を受け容れられない、どのような理由があるというのですか―?」

 そのとき以来、誠恵の脳裡から趙尚宮の言葉が離れなかった。
―あなたは殿下のお心をあまりにも長い間、そのままにしておきすぎました。あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。
 趙尚宮の言葉は鋭く誠恵の心を突いた。それがあまりにも的を射ていたからだ。
 あのときに聞かされた科白が何度も耳奥でこだまし、誠恵の心を苛み、誠恵は我と我が身を責めた。
 食欲もめっきりと落ち、沈み込むことの多くなった誠恵を、趙尚宮はいつも気遣わしげに眺めていた。
 王に乱暴されそうになったあの事件から数日後、誠恵は一人、殿舎と殿舎の間の広場に佇んでいた。ここは世子誠徳君と初めて出逢った場所でもある。
―あなたがどうしても殿下の御意を受け容れられないというのなら、あなたは潔く身を退き、宮殿を去るべきだったのです。
 また、趙尚宮の言葉が甦る。
 誠恵は深い吐息をつき、思わず小さく首を振る。
 英邁な王も恋をすれば、血気盛んな年頃の若者にすぎなくなる。王をあそこまで追い込んだのは、他ならぬ自分だ。
しおりを挟む
☆ついに若き国王が寵姫の正体を知る! 美しき女官は実は、領議政が国王暗殺のために後宮に送り込んだ刺客の少年であった。真実を知った光宗は、緑花が男と知りながら、敢えて寝所に呼ぶがー。残酷な運命に翻弄される二人。朝鮮王朝時代、激動の中で美しく開き、一瞬で散った儚い恋のゆくえはー。ご覧頂き、ありがとうございます。大体、週に一度くらいの更新です。よろしければ、ご覧戴けますと幸いです。
感想 0

あなたにおすすめの小説

記憶の代償

槇村焔
BL
「あんたの乱れた姿がみたい」 ーダウト。 彼はとても、俺に似ている。だから、真実の言葉なんて口にできない。 そうわかっていたのに、俺は彼に抱かれてしまった。 だから、記憶がなくなったのは、その代償かもしれない。 昔書いていた記憶の代償の完結・リメイクバージョンです。 いつか完結させねばと思い、今回執筆しました。 こちらの作品は2020年BLOVEコンテストに応募した作品です

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版) 読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭 1/27 1000❤️ありがとうございます😭

仕事ができる子は騎乗位も上手い

冲令子
BL
うっかりマッチングしてしまった会社の先輩後輩が、付き合うまでの話です。 後輩×先輩。

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

早く惚れてよ、怖がりナツ

ぱんなこった。
BL
幼少期のトラウマのせいで男性が怖くて苦手な男子高校生1年の那月(なつ)16歳。女友達はいるものの、男子と上手く話す事すらできず、ずっと周りに煙たがられていた。 このままではダメだと、高校でこそ克服しようと思いつつも何度も玉砕してしまう。 そしてある日、そんな那月をからかってきた同級生達に襲われそうになった時、偶然3年生の彩世(いろせ)がやってくる。 一見、真面目で大人しそうな彩世は、那月を助けてくれて… 那月は初めて、男子…それも先輩とまともに言葉を交わす。 ツンデレ溺愛先輩×男が怖い年下後輩 《表紙はフリーイラスト@oekakimikasuke様のものをお借りしました》

某国の皇子、冒険者となる

くー
BL
俺が転生したのは、とある帝国という国の皇子だった。 転生してから10年、19歳になった俺は、兄の反対を無視して従者とともに城を抜け出すことにした。 俺の本当の望み、冒険者になる夢を叶えるために…… 異世界転生主人公がみんなから愛され、冒険を繰り広げ、成長していく物語です。 主人公は魔法使いとして、仲間と力をあわせて魔物や敵と戦います。 ※ BL要素は控えめです。 2020年1月30日(木)完結しました。

【完結】『ルカ』

瀬川香夜子
BL
―――目が覚めた時、自分の中は空っぽだった。 倒れていたところを一人の老人に拾われ、目覚めた時には記憶を無くしていた。 クロと名付けられ、親切な老人―ソニーの家に置いて貰うことに。しかし、記憶は一向に戻る気配を見せない。 そんなある日、クロを知る青年が現れ……? 貴族の青年×記憶喪失の青年です。 ※自サイトでも掲載しています。 2021年6月28日 本編完結

処理中です...