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闇に咲く花~王を愛した少年~㉛
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愚かなことだ。一体、王を殺すつもりがあるのか、いや、殺せるのか。こんな不安定で宙ぶらりんな心のまま、〝任務〟が果たせるはずがない。万が一、任務に失敗すれば、自分の生命はないだろう。それは構いはしないが、月華楼の女将香月は孫尚善の言葉を改めてはっきりと伝えてきた。
―任務に失敗したときは、家族の生命は亡きものと思え。
どこまで冷酷な男なのだろう。今や、誠恵の生命だけでなく、家族の生命まで、あの男の手のひらにある。任務を引き受けなくとも、家族を殺すと脅されたし、たとえ引き受けたとしても、失敗したら、殺すと言う。
まるで他人の生命を虫けら同然にしか思ってはおらぬ最低の男だ。
光宗を心から愛してはいるが、家族の安全を思えば、殺さないわけにはゆかない。誠恵にとっては、やはり最優先するべきなのは、家族なのだから―。
そう割り切ろうとしても、光宗の優しい笑顔を思い出す度に、胸は切なく痛む。愛する男と家族への情の狭間で誠恵の心は大きく揺れていた。
想いに耽っていた誠恵はハッと我に返った。前方で誠徳君が転んで、泣いている。
自分の立場も顧みず、誠恵は駆け出した。
「世子(セイジヤ)邸(チヨ)下(ハ)」
誠恵は誠徳君に駆け寄ると、しゃがみ込み、その顔を覗き込む。
「大事ございませぬか?」
可哀想に、幼い王子は膝をすりむいたらしい。
「失礼致します。少しだけ、お怪我の具合を見させて下さいませね」
優しく言い聞かせ、誠徳君のズボンを捲った誠恵は息を呑んだ。
「―!」
怪我に愕いたのではない。左の膝小僧から薄く血が滲んでいたものの、怪我そのものはたいしたことはない。ひどく泣いているのは、幼い子どもにとっては、やはり衝撃を受けたからだろう。
誠恵が驚愕したのは、誠徳君の脹ら脛に鞭で打たれた跡が惨たらしく紫色となって残っているからだった。
世子である先王の第七王子を鞭で打てるのは一人しかいない。世子の生母、孫大妃だけだ。
この傷痕は一度や二度ではなさそうだ。転んでできた擦り傷よりも、こちらの方がよほど重傷に見える。
「世子邸下、お歩きになれますか?」
だが、一介の女官の身で、大妃の所業について触れることはできない。酷い傷痕には知らぬふりをするしかなかった。
七歳の王子は、ただ泣きじゃくるばかりだ。
誠恵は仕方なく、しゃがみ込んだまま背を向けた。
「さあ、お乗り下さいませ。私が世子邸下を大妃殿までお送り致します」
と、王子がふっと泣き止んだ。
「そなたは見たところ、か弱い女人ではないか。男たる者、女に負ぶわれるわけにはゆかぬ」
口だけは大人顔負けなのに、内心吹き出しそうになってしまい、慌てて笑いを堪えるのに苦労しなければならなかった。
「ご心配には及びませぬ、こう見えても、力はございますゆえ、世子邸下を大妃殿までお連れするなど造作もなきことにございます」
その言葉で幼い王子は漸く納得したらしい。素直に誠恵に負われた。大妃殿に戻る道すがら、王子が問いかけてくる。
「そなたは、どの宮の女官なのだ?」
「私は趙尚宮さまにお仕えする女官の張緑花にございます。世子邸下は、お伴の女官も連れず、お一人でいらしたのですか?」
大抵、国王にしろ世子にしろ、宮殿内を移動する際でも、大勢の伴が付き従う。内官、尚宮、女官と総勢十数人ほどで物々しい行列を作って移動するのである。
それを考えれば、世子である王子がこのような場所に一人きりでいること自体がおかしい。
「お付きの尚宮や女官たちは皆、母上(オバママ)の言いなりだ。私がいちいち何をしたと言いつけては、母上を怒らせる。だから、わざと宮を抜け出してやるんだ」
利かん気そうな物言いに、誠恵はクスリと笑った。
「それは大変ではございませんか。今頃、世子邸下がいらっしゃらないのに気付いた尚宮さまが大騒ぎなさっていることでしょう」
「―緑花、私は母上が嫌いではないが、好きでもない」
七歳の童子が母親を好きではないというのも妙な話だ。もしや、王子の大妃への気持ちがあの惨たらしい傷痕と関係しているのではないかと思ったが、口に出せるはずもない。
―任務に失敗したときは、家族の生命は亡きものと思え。
どこまで冷酷な男なのだろう。今や、誠恵の生命だけでなく、家族の生命まで、あの男の手のひらにある。任務を引き受けなくとも、家族を殺すと脅されたし、たとえ引き受けたとしても、失敗したら、殺すと言う。
まるで他人の生命を虫けら同然にしか思ってはおらぬ最低の男だ。
光宗を心から愛してはいるが、家族の安全を思えば、殺さないわけにはゆかない。誠恵にとっては、やはり最優先するべきなのは、家族なのだから―。
そう割り切ろうとしても、光宗の優しい笑顔を思い出す度に、胸は切なく痛む。愛する男と家族への情の狭間で誠恵の心は大きく揺れていた。
想いに耽っていた誠恵はハッと我に返った。前方で誠徳君が転んで、泣いている。
自分の立場も顧みず、誠恵は駆け出した。
「世子(セイジヤ)邸(チヨ)下(ハ)」
誠恵は誠徳君に駆け寄ると、しゃがみ込み、その顔を覗き込む。
「大事ございませぬか?」
可哀想に、幼い王子は膝をすりむいたらしい。
「失礼致します。少しだけ、お怪我の具合を見させて下さいませね」
優しく言い聞かせ、誠徳君のズボンを捲った誠恵は息を呑んだ。
「―!」
怪我に愕いたのではない。左の膝小僧から薄く血が滲んでいたものの、怪我そのものはたいしたことはない。ひどく泣いているのは、幼い子どもにとっては、やはり衝撃を受けたからだろう。
誠恵が驚愕したのは、誠徳君の脹ら脛に鞭で打たれた跡が惨たらしく紫色となって残っているからだった。
世子である先王の第七王子を鞭で打てるのは一人しかいない。世子の生母、孫大妃だけだ。
この傷痕は一度や二度ではなさそうだ。転んでできた擦り傷よりも、こちらの方がよほど重傷に見える。
「世子邸下、お歩きになれますか?」
だが、一介の女官の身で、大妃の所業について触れることはできない。酷い傷痕には知らぬふりをするしかなかった。
七歳の王子は、ただ泣きじゃくるばかりだ。
誠恵は仕方なく、しゃがみ込んだまま背を向けた。
「さあ、お乗り下さいませ。私が世子邸下を大妃殿までお送り致します」
と、王子がふっと泣き止んだ。
「そなたは見たところ、か弱い女人ではないか。男たる者、女に負ぶわれるわけにはゆかぬ」
口だけは大人顔負けなのに、内心吹き出しそうになってしまい、慌てて笑いを堪えるのに苦労しなければならなかった。
「ご心配には及びませぬ、こう見えても、力はございますゆえ、世子邸下を大妃殿までお連れするなど造作もなきことにございます」
その言葉で幼い王子は漸く納得したらしい。素直に誠恵に負われた。大妃殿に戻る道すがら、王子が問いかけてくる。
「そなたは、どの宮の女官なのだ?」
「私は趙尚宮さまにお仕えする女官の張緑花にございます。世子邸下は、お伴の女官も連れず、お一人でいらしたのですか?」
大抵、国王にしろ世子にしろ、宮殿内を移動する際でも、大勢の伴が付き従う。内官、尚宮、女官と総勢十数人ほどで物々しい行列を作って移動するのである。
それを考えれば、世子である王子がこのような場所に一人きりでいること自体がおかしい。
「お付きの尚宮や女官たちは皆、母上(オバママ)の言いなりだ。私がいちいち何をしたと言いつけては、母上を怒らせる。だから、わざと宮を抜け出してやるんだ」
利かん気そうな物言いに、誠恵はクスリと笑った。
「それは大変ではございませんか。今頃、世子邸下がいらっしゃらないのに気付いた尚宮さまが大騒ぎなさっていることでしょう」
「―緑花、私は母上が嫌いではないが、好きでもない」
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