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闇に咲く花~王を愛した少年~㉘
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光宗がしばし、愉しい空想に心躍らせていると、哀しげな声音がそれを遮った。
「殿下、私はもう、殿下のお側にはいられませぬ」
「何故だ? 突然、そのようなことを申す理由は何だ」
光宗は慌てた。緑花の顔をまじまじと見つめると、その瞳から、とうとう大粒の涙がころがり落ちた。
「私が殿下のお側にいることが気に入らぬお方がこの宮殿にはあまりにも多いようにございます。賤しい身の私は、誰に何を言われても構いはしませぬ。ただ、こうして殿下のお顔を見て、お声を聞いていれば、それだけで幸せなのです。でも、たとえ何を言われたとしても、私が殿下のお生命を狙い奉ったなどと、そのような怖ろしいことだけは耳にするにも耐えられそうにありません。これほど恋い慕うお方のお生命を狙うだなんて」
それでも泣き声が周囲に洩れるのをはばかってか、緑花は声を殺して忍び泣く。泣くときさえ、思いきり心のままに泣くこともできぬ女への不憫さが光宗の心を重く沈ませた。
また、生涯の想い人とまで愛する女をそのような境遇に置いたままの自分にも厭気が差す。
「緑花、緑花。もう、泣くでない」
光宗は、泣きじゃくる緑花の背を幼子にするようにさすった。
「予が悪いのだ。このようなことをそなたの前で口にするべきではなかった、―許せよ」
「殿下、私にお暇を下さいませ。明日の朝一番に、私は出宮致します。もう二度と殿下の御前に現れたりは致しませぬ」
「それはならぬ。緑花、そなたは予の宝ぞ。予がそなたに無理強いをせず、ずっと待っておるのは、そなたの身も心も欲しいゆえだ。予は、いつか遠からず、そなたが予のものになると信じておる。そなたこそが、予の伴侶となる女であり、予の子を生むべき女なのだ。これは予からの頼みだ、ずっと予の傍にいて、予と共に生きてくれ」
これが光宗から緑花への事実上の求婚の言葉になった。
確かに、自分にとって、この女は得難い宝だと光宗はこの時、改めて思った。緑花に出逢うまで、彼は生涯妻を娶るつもりもなく、子をなすつもりもなかった。王室内でくりひろげてきた血で血を洗う王位継承を巡っての争い―、その愚かな過ちを繰り返す気はなかったのだ。
しかし、張緑花という一人の少女にめぐり逢い、彼の心は変わった。仮に自分に王子が誕生としたとしても、世子である誠徳君に位を譲る決意はいささかも変わってはいないし、これからも変わることはないだろう。
兄は王として優れているとはいえなかったかもしれない。むしろ十人に余る妃を持ち政務を顧みるよりは享楽に耽った凡庸な王と巷ではいわれている。兄がこの世でやり遂げた仕事は、十二人の后妃との間に九人の王子と七人の王女を儲けたことのみであった。
とはいえ、光宗自身が兄の王としての資質云々を語る気はない。だが、光宗にとっては同じ母から生まれた、ただ一人の兄であった。
永宗が崩御したのは、二十四歳のときのことである。女と酒に溺れる怠惰な生活は、若い健康なはずの永宗の身体を芯から蝕んで朽ちさせていたのだ。息を引き取るまでの数ヵ月は、殆ど寝たきりの状態であった。まだやり残したこともあったに違いないし、残してゆく大勢の妃や王子王女のゆく末も気がかりだっただろう。
その兄の心にこたえるためにも、兄の忘れ形見である第七王子の誠徳君を世子に立てたのだ。誠徳君には六人の異母兄がいたが、王妃の生んだ嫡流の王子は彼ただ一人であったからだ。
自分は本来なら、王になるべき身ではなかった。ゆえに、中継ぎの王として、誠徳君が成人するまで王座を守り続ける。そして、甥が長じた暁には、彼に王座を明け渡し、王統は本来あるべき姿に戻り、兄の子孫が受け継いでゆくことになるだろう。たとえ朝廷が光宗自身が中殿を迎えた上での王子生誕を期待していたとしても、光宗自身はそう望んでいた。
分不相応な欲や権力への固執が血を呼び、血なまぐさい闘争の因(もと)となることを、誰より賢明なこの若き王は承知していた。
「緑花、この際、やはり、側室にならぬか。さすれば、二度と、こんな根も葉もない中傷でそなたを傷つけることはない。妃という立場がそなたを守ることもあろう」
「殿下、以前も申し上げたとおり、私は妃の位も何も望んではおりませぬ。ただ、こうして殿下のお側にずっといさせて頂ければ、それで十分なのでございます」
その時、緑花は既に泣き止んでいた。涙を拭いながらも微笑もうとする彼女を、光宗はいじらしいとも、可愛いとも思う。
「殿下、私はもう、殿下のお側にはいられませぬ」
「何故だ? 突然、そのようなことを申す理由は何だ」
光宗は慌てた。緑花の顔をまじまじと見つめると、その瞳から、とうとう大粒の涙がころがり落ちた。
「私が殿下のお側にいることが気に入らぬお方がこの宮殿にはあまりにも多いようにございます。賤しい身の私は、誰に何を言われても構いはしませぬ。ただ、こうして殿下のお顔を見て、お声を聞いていれば、それだけで幸せなのです。でも、たとえ何を言われたとしても、私が殿下のお生命を狙い奉ったなどと、そのような怖ろしいことだけは耳にするにも耐えられそうにありません。これほど恋い慕うお方のお生命を狙うだなんて」
それでも泣き声が周囲に洩れるのをはばかってか、緑花は声を殺して忍び泣く。泣くときさえ、思いきり心のままに泣くこともできぬ女への不憫さが光宗の心を重く沈ませた。
また、生涯の想い人とまで愛する女をそのような境遇に置いたままの自分にも厭気が差す。
「緑花、緑花。もう、泣くでない」
光宗は、泣きじゃくる緑花の背を幼子にするようにさすった。
「予が悪いのだ。このようなことをそなたの前で口にするべきではなかった、―許せよ」
「殿下、私にお暇を下さいませ。明日の朝一番に、私は出宮致します。もう二度と殿下の御前に現れたりは致しませぬ」
「それはならぬ。緑花、そなたは予の宝ぞ。予がそなたに無理強いをせず、ずっと待っておるのは、そなたの身も心も欲しいゆえだ。予は、いつか遠からず、そなたが予のものになると信じておる。そなたこそが、予の伴侶となる女であり、予の子を生むべき女なのだ。これは予からの頼みだ、ずっと予の傍にいて、予と共に生きてくれ」
これが光宗から緑花への事実上の求婚の言葉になった。
確かに、自分にとって、この女は得難い宝だと光宗はこの時、改めて思った。緑花に出逢うまで、彼は生涯妻を娶るつもりもなく、子をなすつもりもなかった。王室内でくりひろげてきた血で血を洗う王位継承を巡っての争い―、その愚かな過ちを繰り返す気はなかったのだ。
しかし、張緑花という一人の少女にめぐり逢い、彼の心は変わった。仮に自分に王子が誕生としたとしても、世子である誠徳君に位を譲る決意はいささかも変わってはいないし、これからも変わることはないだろう。
兄は王として優れているとはいえなかったかもしれない。むしろ十人に余る妃を持ち政務を顧みるよりは享楽に耽った凡庸な王と巷ではいわれている。兄がこの世でやり遂げた仕事は、十二人の后妃との間に九人の王子と七人の王女を儲けたことのみであった。
とはいえ、光宗自身が兄の王としての資質云々を語る気はない。だが、光宗にとっては同じ母から生まれた、ただ一人の兄であった。
永宗が崩御したのは、二十四歳のときのことである。女と酒に溺れる怠惰な生活は、若い健康なはずの永宗の身体を芯から蝕んで朽ちさせていたのだ。息を引き取るまでの数ヵ月は、殆ど寝たきりの状態であった。まだやり残したこともあったに違いないし、残してゆく大勢の妃や王子王女のゆく末も気がかりだっただろう。
その兄の心にこたえるためにも、兄の忘れ形見である第七王子の誠徳君を世子に立てたのだ。誠徳君には六人の異母兄がいたが、王妃の生んだ嫡流の王子は彼ただ一人であったからだ。
自分は本来なら、王になるべき身ではなかった。ゆえに、中継ぎの王として、誠徳君が成人するまで王座を守り続ける。そして、甥が長じた暁には、彼に王座を明け渡し、王統は本来あるべき姿に戻り、兄の子孫が受け継いでゆくことになるだろう。たとえ朝廷が光宗自身が中殿を迎えた上での王子生誕を期待していたとしても、光宗自身はそう望んでいた。
分不相応な欲や権力への固執が血を呼び、血なまぐさい闘争の因(もと)となることを、誰より賢明なこの若き王は承知していた。
「緑花、この際、やはり、側室にならぬか。さすれば、二度と、こんな根も葉もない中傷でそなたを傷つけることはない。妃という立場がそなたを守ることもあろう」
「殿下、以前も申し上げたとおり、私は妃の位も何も望んではおりませぬ。ただ、こうして殿下のお側にずっといさせて頂ければ、それで十分なのでございます」
その時、緑花は既に泣き止んでいた。涙を拭いながらも微笑もうとする彼女を、光宗はいじらしいとも、可愛いとも思う。
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