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闇に咲く花~王を愛した少年~⑭
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女官になれば、家族の許にも定期的に米や金が支給される。
「なるほど、そなたが女官になりたいと望むのには深い事情があったのだな」
王は納得したように頷いた。
「緑花」
優しい声音で偽りの名を呼ばれ、誠恵は顔を上げる。
「あい判った。そなたの望みは聞き届けよう。伯父上は朝廷の実力者だ。私が頼めば、きっと、そなたを女官として後宮に入るように取り計らって下されるだろう」
「嬉しうございます。このご恩は、けして忘れません」
あどけない笑みを浮かべて言うと、王の顔が一瞬、紅くなった。
「い、いや、たいしたことではない」
誠恵の思考は目まぐるしく回転する。
左議政は油断ならぬ男だ。あまりに身分の高い人ゆえ、この屋敷の懸かり人にすぎない誠恵は初対面の挨拶をしただけで、言葉を満足に交わしたこともない。だが、あの鋭い眼は、どんな些細な嘘や謀(はかりごと)でも見抜いてしまいそうだ。
誠恵としても、一日も早く、左議政の屋敷から宮殿に移りたい。その方が事はずっと運びやすくなるだろう。あの左議政の眼の届くこの屋敷では動きづらい。
いずれにしても、焦っては駄目だ。まずは、この若い王の心を十分に掴まなくては。
誠恵は、いっそう無邪気な微笑みを浮かべ、王を見つめる。
王はまるで惚(ほう)けたように可憐な少女の笑顔を見つめていた。
その二日後、誠恵は左議政孔賢明の屋敷から宮殿に移った。
いよいよ事を始めるときが来たのだ。宮殿に移ってから、更に数日を経たその夜、誠恵はひそかに自室を抜け出した。たとえ左議政の紹介で入宮したとはいえ、下っ端女官にすぎない誠恵は朝から晩まで仕事が山のようにある。大量の洗濯物から殿舎の掃除と数え上げれば、枚挙に暇がない。
彼女が昼ではなく夜を選んだのは、他にも理由があった。まず昼は人眼につきすぎる。夜ならば、夜陰にひそかに紛れて動けば、それだけ人眼に立つ可能性は低くなるというものだ。
―国王殿下は夜、大殿(テージヨン)をひそかに抜け出すことがおありだ。
月華楼の女将香月は、そう言った。
何に想いを馳せるのか、広大な庭園の四阿から、夜空をじっと眺めているのだ、と。
誠恵は脚音を忍ばせ、南園に向かった。宮殿の庭園は、それぞれ〝北園〟、〝南園〟と呼ばれる。広大な池があるのは南園で、王のお気に入りは専ら、そちららしい。
静かな夜だった。桔梗色の夜空に、十六夜の月がぽっかりと浮かんでいる。蒼ざめた丸い月は蒼みがかった水晶を思わせた。
清(さや)かな月明かりが庭園を照らし出している。眼に映るすべてものが昼間とは異なり、幻想的に見える。草木も花も、小さな小石でさえもが月の光に濡れ、淡く発光しているかのようだった。
進んでゆく中に、大きな池が見えてくる。到底人工のものとは思えないほど巨大な池は、昼間であれば、美しい錦鯉たちがゆったりと泳ぐ優美な姿を見ることができる。
池の上に張り出した四阿では、王を初め妃たちが憩い、時折は池の鯉たちに餌を与えている場面も見かけられた。
もっとも、現国王光宗には、まだ定まった妃どころか、中(チユン)殿(ジヨン)(王妃)さえいなかった。
正確に言うと、光宗はまだ幼かった慎(シン)誠(ソン)君(グン)と呼ばれていた時代、幼くして決められた婚約者がいたのだが、不幸にも、彼女は晴れの婚姻の日を見ることなく夭折した。光宗と同年のまだ九歳の幼さであった。
寿命をまっとうしていたなら、王子妃どころか、王妃にもなれる身だったにも拘わらず、病魔は無情にも少女の生命を奪い去ったのだ。
当時のこととて、婚約者同士ではあっても、互いに行き来することはなく、まともに話したことさえなかった相手だった。庶民であればともかく、身分が高ければ高いほど、婚姻というものは家同士、親同士の結びつきの要素が高くなる。両班では、祝言を終えて、新床に入るまで夫婦が互いに顔を見たこともないというのがむしろ常識である。
ましてや、国王の結婚となれば尚更だ。それでも、光宗は早くに逝った許嫁を憐れに思い、王妃を娶ることもなく側室の一人すら置かないでいる。
独身を貫こうとする若い王を、朝廷の重臣たち皆が懸命に説得しようとしたが、毎度ながら徒労に終わるのが常だった。
光宗の言い分としては、
―予に子がおらずとも、既に世子がおる。元々、予は王位を継ぐべきはずの身ではなかったのだ。世子が予の跡を継いで新たな王となり、その子孫が代々王位を継承してゆけば良いのだ。
と、極めて淡々と語っている。
「なるほど、そなたが女官になりたいと望むのには深い事情があったのだな」
王は納得したように頷いた。
「緑花」
優しい声音で偽りの名を呼ばれ、誠恵は顔を上げる。
「あい判った。そなたの望みは聞き届けよう。伯父上は朝廷の実力者だ。私が頼めば、きっと、そなたを女官として後宮に入るように取り計らって下されるだろう」
「嬉しうございます。このご恩は、けして忘れません」
あどけない笑みを浮かべて言うと、王の顔が一瞬、紅くなった。
「い、いや、たいしたことではない」
誠恵の思考は目まぐるしく回転する。
左議政は油断ならぬ男だ。あまりに身分の高い人ゆえ、この屋敷の懸かり人にすぎない誠恵は初対面の挨拶をしただけで、言葉を満足に交わしたこともない。だが、あの鋭い眼は、どんな些細な嘘や謀(はかりごと)でも見抜いてしまいそうだ。
誠恵としても、一日も早く、左議政の屋敷から宮殿に移りたい。その方が事はずっと運びやすくなるだろう。あの左議政の眼の届くこの屋敷では動きづらい。
いずれにしても、焦っては駄目だ。まずは、この若い王の心を十分に掴まなくては。
誠恵は、いっそう無邪気な微笑みを浮かべ、王を見つめる。
王はまるで惚(ほう)けたように可憐な少女の笑顔を見つめていた。
その二日後、誠恵は左議政孔賢明の屋敷から宮殿に移った。
いよいよ事を始めるときが来たのだ。宮殿に移ってから、更に数日を経たその夜、誠恵はひそかに自室を抜け出した。たとえ左議政の紹介で入宮したとはいえ、下っ端女官にすぎない誠恵は朝から晩まで仕事が山のようにある。大量の洗濯物から殿舎の掃除と数え上げれば、枚挙に暇がない。
彼女が昼ではなく夜を選んだのは、他にも理由があった。まず昼は人眼につきすぎる。夜ならば、夜陰にひそかに紛れて動けば、それだけ人眼に立つ可能性は低くなるというものだ。
―国王殿下は夜、大殿(テージヨン)をひそかに抜け出すことがおありだ。
月華楼の女将香月は、そう言った。
何に想いを馳せるのか、広大な庭園の四阿から、夜空をじっと眺めているのだ、と。
誠恵は脚音を忍ばせ、南園に向かった。宮殿の庭園は、それぞれ〝北園〟、〝南園〟と呼ばれる。広大な池があるのは南園で、王のお気に入りは専ら、そちららしい。
静かな夜だった。桔梗色の夜空に、十六夜の月がぽっかりと浮かんでいる。蒼ざめた丸い月は蒼みがかった水晶を思わせた。
清(さや)かな月明かりが庭園を照らし出している。眼に映るすべてものが昼間とは異なり、幻想的に見える。草木も花も、小さな小石でさえもが月の光に濡れ、淡く発光しているかのようだった。
進んでゆく中に、大きな池が見えてくる。到底人工のものとは思えないほど巨大な池は、昼間であれば、美しい錦鯉たちがゆったりと泳ぐ優美な姿を見ることができる。
池の上に張り出した四阿では、王を初め妃たちが憩い、時折は池の鯉たちに餌を与えている場面も見かけられた。
もっとも、現国王光宗には、まだ定まった妃どころか、中(チユン)殿(ジヨン)(王妃)さえいなかった。
正確に言うと、光宗はまだ幼かった慎(シン)誠(ソン)君(グン)と呼ばれていた時代、幼くして決められた婚約者がいたのだが、不幸にも、彼女は晴れの婚姻の日を見ることなく夭折した。光宗と同年のまだ九歳の幼さであった。
寿命をまっとうしていたなら、王子妃どころか、王妃にもなれる身だったにも拘わらず、病魔は無情にも少女の生命を奪い去ったのだ。
当時のこととて、婚約者同士ではあっても、互いに行き来することはなく、まともに話したことさえなかった相手だった。庶民であればともかく、身分が高ければ高いほど、婚姻というものは家同士、親同士の結びつきの要素が高くなる。両班では、祝言を終えて、新床に入るまで夫婦が互いに顔を見たこともないというのがむしろ常識である。
ましてや、国王の結婚となれば尚更だ。それでも、光宗は早くに逝った許嫁を憐れに思い、王妃を娶ることもなく側室の一人すら置かないでいる。
独身を貫こうとする若い王を、朝廷の重臣たち皆が懸命に説得しようとしたが、毎度ながら徒労に終わるのが常だった。
光宗の言い分としては、
―予に子がおらずとも、既に世子がおる。元々、予は王位を継ぐべきはずの身ではなかったのだ。世子が予の跡を継いで新たな王となり、その子孫が代々王位を継承してゆけば良いのだ。
と、極めて淡々と語っている。
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☆ついに若き国王が寵姫の正体を知る! 美しき女官は実は、領議政が国王暗殺のために後宮に送り込んだ刺客の少年であった。真実を知った光宗は、緑花が男と知りながら、敢えて寝所に呼ぶがー。残酷な運命に翻弄される二人。朝鮮王朝時代、激動の中で美しく開き、一瞬で散った儚い恋のゆくえはー。ご覧頂き、ありがとうございます。大体、週に一度くらいの更新です。よろしければ、ご覧戴けますと幸いです。
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