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運命を賭ける瞬間⑥

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

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 その口調には明らかに感に堪えぬ様子が窺える。清勇は大君におもねるように応える。
「あの美貌なら、側近よりは側室としてお迎えになっては? さぞ大君さまをご満足させることでしょう」
「そなたには、あの娘の真の価値が見えぬのか。もし、こたびの計画が失敗したとすれば、私の不幸は、あのような者が側にいなかったことであろうな」
 大君はただ静かに笑っているだけで、清勇の言葉には耳を貸そうともしなかった。

 サヨンは痛いくらいの父の視線を感じ、顔を上げることもできなかった。傍らに端座したトンジュもいつになく緊張した面持ちである。
 義承大君にすべての草鞋を買い取って貰った後、サヨンは望みどおり―実際には提示した額よりも更に多く上乗せられていた―の黄金を手にすることができた。
 サヨンは約束どおり、黄金の三分の一を履き物屋の主人に渡し、更に、大君が上乗せしてくれた分までをも付けた。それだけあれば、草鞋を出してくれた他の店に支払った後、幾らかでも手許に残るはずである。
 四月の半ば、山にも遅い春がめぐってきた。山桜の薄紅色が山をほんのりと彩る季節に、サヨンは三ヶ月暮らした山を離れ、トンジュと共に都に帰ってきた。
 コ・ヨンセは盛大な溜息をついた。
「み月もの間、なしのつぶてだったそなたがいきなり帰ってきたときは、夢を見ているのではないかと思ったぞ。そなたがいなくなってからひと月、都中を探し回ったというのに、何の手がかりも掴めなかったのだからな。頼むから、この父の心臓を止めるような真似はせんでくれ」
「ごめんなさい。本当にお父さまにはご心配ばかりかけてしまいました」
 サヨンは殊勝に頭を下げる。実のところ、帰ってきたものの、父に逢って貰えるとは思えなかった。門前払いを食らわされるのが関の山だと覚悟はしていたのだ。
 トンジュと父が対面する前に、サヨンは父と二人だけで一刻ほど話していた。
「心配したのはまだ良い。親が子の心配をするのは当たり前ゆえな。さりながら他人さまに迷惑をかけるのだけはいけないぞ。そなたが愚かにもしでかしたことが、どれだけの人に影響を及ぼしたかは理解しておるのであろうな」
「申し訳ございません。大行首さま、サヨン―いえ、お嬢さまを責めないで下さい。すべては俺が仕組んだことです。嫌がるお嬢さまを無理にお屋敷から連れ出したのは俺ですから」
 トンジュは頭を額にこすりつけた。
「あなた、止めて。そんなことを言い出すなんて、一体どういうつもりなの?」
 サヨンは顔色を変えた。二人で大行首に謝ろうと話し合ってはいても、父を怒らせて二人が引き裂かれるようなことになるような言動だけは慎もうと約束していたのだ。
 最初、都に二人で帰りたいのだとサヨンが言い出した時、トンジュは特に反対はしなかった。
―このままでは、やはりいけないと思うの。都に戻ってお父さまにちゃんと私たちのことを認めて貰って、そこから改めて出発してみない?
 トンジュを愛しているからこそ、世にも認められた夫婦となりたかった。サヨンを連れ出すことで、トンジュは未来を失った。サヨンは彼に陽の当たる道を歩かせてあげたいと願ったのだ。トンジュという男は、山奥に埋もれさせてしまうには惜しい才覚を持っている。
 これは大きな賭であった。特にトンジュにとっては。大行首がトンジュを許さなければ、彼は生命を失う危険すらあった。それでも、彼は故郷に帰りたいと願う妻の心を思いやり、身の危険を覚悟でサヨンと共に都に帰ってきたのである。
 トンジュは、サヨンを連れ出す際には、戻った娘を大行首が寛容に迎えるのではないかと言ったが、あれはあくまでも、サヨンをその気にさせるためであった。
 彼自身、二人がおめおめと都に舞い戻ったからといって、何事もなく―特にトンジュは―無事に済むとは考えていなかった。
「大行首さま、俺はどうなっても構いません。使用人の身で主家のお嬢さまを攫い、み月もの間、連れ回した罪がどれほどのものかは判っております。どうかお嬢さまだけは、このまま何事もなかったように迎えて差し上げて下さいませんか? 俺は鞭打たれるなり、生命を奪われるなり、相応の処罰を受ける覚悟はできています」
 トンジュはサヨンには構わず、ヨンセを真っすぐに見つめた。
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