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蓮野に降る雪②

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

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 屋敷を出る間際のやりとりを思い出すにつけ、トンジュが相当の切れ者だと改めて思わずにはいられない。屋敷で見せていた穏やかで寡黙な若者といった印象とは全く異なる面を持っている―、それだけは事実のようであった。
 全く知らない別人といるような気がして、サヨンは知らず恐怖が背筋を這い上ってくるような想いに囚われた。不思議なもので、そう思って見ていると、先を行くトンジュの背中が見知らぬ怖い男のもののように思えてならなかった。
 いっそのこと、このまま逃げれば。
 サヨンの脳裏をそんな想いがかすめた。
 むろん、今更おめおめと屋敷に戻れるはずもないし、そのつもりはないけれど、この男とこのままずっと一緒にいるのは良くないような気がしたのだ。
 トンジュにはどこか得体の知れないところがある。静まり返った沼が淀み、底が知れないように、腹の底が全く見えない。この男の手に一度絡め取られてしまえば、沼底まで沈み込み永遠に浮き上がれないような予感さえしてくる。
 このまま逃げてしまおうと、そっと踵を返したその時。 
 すぐ後ろでトンジュの声が響いた。
「どうかしましたか?」
「あ―」
 サヨンは蒼褪めて振り返った。
 トンジュがうっすらと笑みを湛えて佇んでいる。
「一人でどこかへゆくつもりだったのですね」
 サヨンは小刻みに身を震わせた。
「このままあなたと行っても、迷惑になるだけだし、ここからは私一人で行こうと思うの。ここまで一緒に来て下さって、本当に感謝しています」
「お嬢さん、俺は確かにお屋敷を出て、自由の身になりたいと言いました。あなたの心に負担をかけないために、お嬢さんのせいじゃないともね。でも、それは、はっきり言えば、お嬢さんのためにしたことでもあったんですよ? すべてを棄てた俺に、あなたはそんなことが言えるんですか? ここからは俺一人で行けと?」
「それなら、都を出たところで別々に行動してはどうかしら」
 フとトンジュが鼻で嗤った。その整った面には人を見下したような笑いが浮かんでいる。初めて見る別人のような表情に、サヨンは衝撃を隠せない。
「屋敷を一歩出ただけで途方に暮れるような世間知らずのお嬢さまが都を出て一人になって、それからどうなるんです? 都の中でも何もできないのに、都を出て一人でやっていくだって? 笑わせる」
 あまりの酷(ひど)い言い草に、涙が溢れそうになった。ろくにトンジュという男を知りもしないでついてきたことは、あまりにも無謀すぎた。サヨンは、痛切に後悔を覚え始めた。
「行きますよ」
 トンジュがサヨンの手首を掴む。ごく何気なく握っているだけのようなのに、もの凄い力だ。
 サヨンは思わず抗議するような眼でトンジュを見たが、彼は何も言わず素知らぬ顔でサヨンの手を握りしめたまま歩いてゆく。
 それでも脚の痛みを訴える彼女を気遣ってか、これまでほどの速さではなく何とかついて歩くことはできた。
 手首に込められた力は、トンジュがサヨンの逃亡を恐れているかのようでもあった。途中でサヨンは何度か手の力を緩めてくれるように頼んでみたけれど、トンジュは取り合ってもくれなかった。
 サヨンの迷いを敏感に嗅ぎ取ったのだろう。彼女の迷いが伝わったかのように、それからのトンジュは始終むっつりと不機嫌だった。しまいには、痛めたはずの脚よりもトンジュにしっかりと握りしめられた手首の方が痛みを憶え始めたほどであった。

 トンジュは途中で、場末の酒場に立ち寄った。どうやら、その見世では常連らしい。
 トンジュが〝おばさん(アジモニ)〟と親しげに呼ぶ見世の女将は年配でいえば、四十前後に見える。
 ここでもサヨンは愕きを新たにしていた。宣(ソン)・ソンジュはコ氏の屋敷においても真面目な若者として通っていた。口数は少ないが、特に無愛想というわけでもない。むしろ、黙っていても、その穏やかで思慮深い人柄が端正な風貌に滲み出て、対する相手に好印象を与える男だった。
 人あしらいも上手く、働き者で気配り上手。しかも美男ときているから、屋敷内の若い侍女たちには絶大な人気を得ていた。
―トンジュは今時の若い者に似合わず、生真面目だねぇ。
 というのが、年配の使用人たちの彼に対する見方であったのだ。
 若いのに酒場にもゆかず、恋人どころか、浮いた話の一つもない。身持ちが堅いのは女たちには好意的に見られていたけれど、同性の使用人たちは皆、寄ると触ると、〝あいつの糞真面目なところは、おかしい〟と、トンジュが男として身体的欠陥があるのではないかという下卑た噂までが真しやかに囁かれてさえいたのだ。
 そこは、いかにも町外れの場末の酒屋といった風情が漂っていた。もちろん、サヨンは、このような見世に脚を踏み入れるのは生まれて初めてのことである。
 だが、サヨンはこの類の見世に特に嫌悪感を感じはしなかった。
「おばさん、この娘(こ)に何か食べさせてやってくれないかな」
 トンジュは気さくに中年の女将に話しかける。見たところ、サヨンの眼には女将とトンジュの関係は客と酒場の女将というよりは母と子に近いように見えた。
「あいよ、お安いご用だ」
 女将は気前よく承諾し、奥へ引っ込んだかと思うと、ほどなく湯気の立つ器を小卓に乗せて運んできた。
 二人は戸外に設(しつら)えられた客席ではなく、座敷に上がっていた。座敷といっても、ちゃんとした一戸建ての建物で、要するに離れのように独立して建てられている。
 通常、客は外の筵敷きの台に思い思いに陣取って酒食を愉しむが、少し上客になると、このような座敷に上がることもできた。もっとも、場末の酒場に通ってくるような客は大抵がその日暮らしの男たちばかりで、上客などと呼べる暮らしを営んでいる者などいはしない。
 酒場は妓房(キバン)(遊廓)とは異なるゆえ、酒の相手をする妓生(キーセン)(遊女)はいない。早い話が酒場の看板を掲げてはいるものの、酒も出すし、食事も出す大衆食堂のようなものだ。実際、この見世は、昼間などは酒を飲む客よりも昼飯を食べにきた客の方が多いくらいなのだ。
「ありがとう(カムサ)ござい(ハム)ます(ニダ)」
 女将がドンと音を立てて小卓を眼の前に置くと、サヨンは丁寧に頭を下げた。
「あらまあ、何て礼儀正しい娘だろ。ふうん、着ているものもこう言っちゃ何だけど、こんなうらぶれた酒場には不似合いだしねぇ」
 女将はサヨンをしげしげと眺めながら、品定めするように言った。
「ほら、このチマチョゴリなんて絹だよ、絹。良いねぇ、あたしもこんな上物を一生に一度で良いから着てみたいもんだ」
 心底から羨ましげに言うのに、トンジュが苦笑した。
「何を寝ぼけたことを言ってるんだよ。十五、六の小娘じゃあるまいし、おばさんがこんな派手な服を着ても猪が玉(ぎよく)の首飾りをしてるようなもんだよ」
「まっ、この子ったら。言うにことかいて、猪だって? もう少しマシなたとえはできないもんかね。口の滅法悪いところは、ちっとも変わりゃしないんだからねぇ」
 しかし、口調とは裏腹に、女将はどこか嬉しげで、むしろ、このやりとりを愉しんでいるようだ。
 二人の丁々発止の会話に眼を瞠っていると、傍らからトンジュが言った。
「こう見えても、ここの女将のサムゲタンは美味いんです。冷めない中に食べて下さい」
 サヨンは頷いた。
「いただきます」
 またしても丁重に言うと、女将が真顔になった。
「トンジュや。お前、この娘をどこから攫ってきたんだい? この娘は品も良いし、着てるものだって、あたしら庶民には手の届かない上物ばかりだ。お前のその丁寧な口の利き方からして、まさか、この娘―」
 その不安げな表情から、女将が心底からトンジュの身を案じているのが伝わってくる。
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