97 / 103
柘榴の月 第三話㉕
石榴の月~愛され求められ奪われて~
しおりを挟む
そのわずか後、源治は、お民と松之助が待っているはずの我が家で茫然と立ち尽くしていた。
当然ながら、狭い四畳半には恋女房と我が子の姿はなく、もぬけの殻である。灯りも点っておらぬ我が家の前に立ったときから、源治は何故か胸騒ぎを感じたのだ。
寝静まっているには早すぎる時間だし、眠っているにしては人の気配がなさすぎた。
案の定、腰高障子を開けると、家の中には誰もおらず、森閑とした闇がひろがっているばかりだった。
とりあえず行灯に火を入れると、片隅の小机に小さな紙片が残されていた。
たどたとしい平仮名が並んでいたが、何とか源治にも読むことはできた。ざっと眼を通した源治の貌がさっと蒼褪める。
書き置きには、松之助が侍らしい男に昼間、連れ去られたこと、自分はこれから松之助を取り戻しに石澤邸に乗り込むつもりだと走り書きされている。
詳しいことは、花ふくの岩次にすべて話してあるから、花ふくへ行って欲しいとも書いてあった。
しかし、これだけで十分だ。
お民の残したこの短い文面だけで、源治はすべてを悟った。
龍之助を失った石澤嘉門は今度は、残された松之助にまで魔手を伸ばそうとしたのだ!
源治は、松之助を攫わせた張本人が嘉門ではなく、その母祥月院であることを知らない。
お民が単身、石澤の屋敷に乗り込んだと知り、源治は慄然とした。
「―馬鹿野郎」
呟きとも取れぬ独り言が洩れる。
お前はまた、俺に何も言わねえで、一人で行っちまうのか?
嘉門はいまだにお民に惚れている。同じ男だから、源治にも判るのだ。あの男は今でもお民への恋情を棄ててはいない。
そんな男の許にたった一人で乗り込んでゆくなんて、あまりにも無謀すぎる。松之助のことはともかくとして、嘉門が飛び込んできたお民をみすみす屋敷から出すだろうか。
お民の残した走り書きを握りしめ、源治は紙片の置いてあった小机に安置された位牌をそっと手に取った。
〝龍之助童子〟と書かれた小さな位牌を額に押し当てた。龍之助の遺髪はお民がいつも懐に収め、肌身離さず持っている。
「龍、母ちゃんと松を守ってやってくれ」
本音を言えば、今すぐにでもお民の後を追い、石澤嘉門の屋敷に乗り込んでゆきたい。
だが、それは、けして、お民の望むことではないだろう。
あの女は、そういう女だ。
たとえ源治がお民と共に嘉門の許に乗り込んでいっても、龍之助を取り戻しにいったときのように滅多討ちにされ、半殺しの目に遭うのが関の山。下手をすれば、今度こそ間違いなく生命を奪われることになる。
つまり、今、源治が激情に駆られて飛び出していっても、何の意味もないどころか、かえってお民を哀しませることになるだけだ。
源治が死ねば、お民は泣き、哀しむ。
今の源治には祈りながら、待つしかできない。
お民の、松之助の無事を願いながら。
源治は何もできぬ我が身を口惜しく思いながら、拳を握りしめた。
当然ながら、狭い四畳半には恋女房と我が子の姿はなく、もぬけの殻である。灯りも点っておらぬ我が家の前に立ったときから、源治は何故か胸騒ぎを感じたのだ。
寝静まっているには早すぎる時間だし、眠っているにしては人の気配がなさすぎた。
案の定、腰高障子を開けると、家の中には誰もおらず、森閑とした闇がひろがっているばかりだった。
とりあえず行灯に火を入れると、片隅の小机に小さな紙片が残されていた。
たどたとしい平仮名が並んでいたが、何とか源治にも読むことはできた。ざっと眼を通した源治の貌がさっと蒼褪める。
書き置きには、松之助が侍らしい男に昼間、連れ去られたこと、自分はこれから松之助を取り戻しに石澤邸に乗り込むつもりだと走り書きされている。
詳しいことは、花ふくの岩次にすべて話してあるから、花ふくへ行って欲しいとも書いてあった。
しかし、これだけで十分だ。
お民の残したこの短い文面だけで、源治はすべてを悟った。
龍之助を失った石澤嘉門は今度は、残された松之助にまで魔手を伸ばそうとしたのだ!
源治は、松之助を攫わせた張本人が嘉門ではなく、その母祥月院であることを知らない。
お民が単身、石澤の屋敷に乗り込んだと知り、源治は慄然とした。
「―馬鹿野郎」
呟きとも取れぬ独り言が洩れる。
お前はまた、俺に何も言わねえで、一人で行っちまうのか?
嘉門はいまだにお民に惚れている。同じ男だから、源治にも判るのだ。あの男は今でもお民への恋情を棄ててはいない。
そんな男の許にたった一人で乗り込んでゆくなんて、あまりにも無謀すぎる。松之助のことはともかくとして、嘉門が飛び込んできたお民をみすみす屋敷から出すだろうか。
お民の残した走り書きを握りしめ、源治は紙片の置いてあった小机に安置された位牌をそっと手に取った。
〝龍之助童子〟と書かれた小さな位牌を額に押し当てた。龍之助の遺髪はお民がいつも懐に収め、肌身離さず持っている。
「龍、母ちゃんと松を守ってやってくれ」
本音を言えば、今すぐにでもお民の後を追い、石澤嘉門の屋敷に乗り込んでゆきたい。
だが、それは、けして、お民の望むことではないだろう。
あの女は、そういう女だ。
たとえ源治がお民と共に嘉門の許に乗り込んでいっても、龍之助を取り戻しにいったときのように滅多討ちにされ、半殺しの目に遭うのが関の山。下手をすれば、今度こそ間違いなく生命を奪われることになる。
つまり、今、源治が激情に駆られて飛び出していっても、何の意味もないどころか、かえってお民を哀しませることになるだけだ。
源治が死ねば、お民は泣き、哀しむ。
今の源治には祈りながら、待つしかできない。
お民の、松之助の無事を願いながら。
源治は何もできぬ我が身を口惜しく思いながら、拳を握りしめた。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
仏の顔
akira
歴史・時代
江戸時代
宿場町の廓で売れっ子芸者だったある女のお話
唄よし三味よし踊りよし、オマケに器量もよしと人気は当然だったが、ある旦那に身受けされ店を出る
幸せに暮らしていたが数年ももたず親ほど年の離れた亭主は他界、忽然と姿を消していたその女はある日ふらっと帰ってくる……
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる