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石榴の月 第二話⑧
石榴の月~愛され求められ奪われて~
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その言葉に、お民は固まった。まるで脳を何かで打たれたような衝撃が走った。
―お前さんは、私をそんな女だと、お前さのいないところで何をしてるか判らないよな、ふしだらな女だと思ってたんですね。 あんまりだと思った。確かに、自分は石嘉門の側妾になった。でも、けして自分でんだことではない。徳平店を守るために、こに住む人たちのために、人柱になったよなものではないか。なのに、源治は、お民心を少しも判ってはいない。
初めて嘉門に手込めも当然に抱かれた夜どれほど怖かったか。夜毎、恥ずかしさと辱に耐えながらも懸命に辛抱したのは、源の許に帰ってきたいと願ったからではなか。
これでは、自分があまりに惨めだ。結局お民はその喧嘩以来、源治とは口をきいてない。その一膳飯屋には、とりあえずは断しかなかった。昨日、亭主に相談してから事をすると言って帰ったのだ。今は、そのに行った帰り道である。そろそろ六十に手届こうかという主人は落胆を滲ませた表で、
「お前さんのような人が来てくれたら、うとしても助かるなぁと家内とも話してたんがね」
と、残念そうに言った。
折角の良い奉公先ではあったが、致し方い。源治の機嫌を損ねたまま、あの店で働ことはできない。それでなくとも、お民がかと理由をつけて、夜の源治の求めを拒みけているため、源治の機嫌はすごぶる悪い。 これ以上、良人との仲が険悪になるのだは避けたかった。
お民は縹やの店先でしばし脚を止めた。 店先には様々な簪が並んでいる。眼にもやかな色とりどりの簪や、櫛、笄。その中一つに、お民は眼を奪われた。
黒い小さな玉が一つだけついた素朴なもだが、その中に精緻な桜が幾つか丹念に描れている。玉には細い銀鎖のようなものがいていて、鎖の先に蝶を象った飾りがついいる。蝶の羽根の部分には透明に輝く石がめ込まれていた。
手に取って陽にかざすと、陽光を受けてラキラと眩しく光り輝く。しかも、角度をしずつ変える度に、飾りの蝶にはめ込まれ石が微妙に色合いを変えてゆく。ちょっとた目には透明に見える石は、実はほのかに色がかっているようだった。
光の当たり方によっては石榴のように深色、更には桜のように淡い色と変幻自在にを変えるその様は、まるで手妻を見ているうだ。
お民がその美しくも儚い光の煌めきに見っていた時、唐突に背後から声をかけられた。「何か欲しいものがあれば、買ってやろうか」 この声は―。
お民はまるで地獄の底から甦ってきた死を見たかのように凍りついた。
聞き憶えのあるどころか、耳に馴染んだは、紛れもなく石澤嘉門のものだ。
振り向いては駄目、絶対に振り向いてはけない。
お民は自分に言い聞かせた。
何故、嘉門が突如としてこのような場所現れたのかは判らない。が、自分にとってはけして好もしい状況ではないことは確かだ。「そんなにその簪が気に入ったのであればその品でも良いぞ」
いつしか嘉門が傍らに来て、懐から銭入を取り出すのがかいま見えた。
「止めて下さい! そんなもの、私は要りせん」
お民は悲鳴のような声で叫んだ。
そのただならぬ様子に、お民を取り巻いいた他の客―若い娘たちが一斉にお民をる。
あまりの恥ずかしさに、お民は居たたまなくなって、その場から逃れるように足早歩き出した。その後から、嘉門がついてくる。「そなたがどうしているのかとずっと気にっておってな。様子を見にきたのだが、そ顔ではどうやら、あまり幸せではないらしい」 嘉門が悪魔のように魅惑的な声で囁く。 人を魅了するような深い声は変わっていい。
「どうだ、もう一度、俺に仕える気はないか」 予期せぬ誘いに、お民の歩みが止まった。 後ろを振り返り、キッとして嘉門を見据る。
「私はもう二度と、あなたさまのお側に上るつもりはございませぬ。あなたさまと私ご縁も既に切れたものと思うておりますば、どうかもう今後は私の前にはお姿をおせにならないで下さいませ」
嘉門は怒ったようでもなく、心底呆れたうに鼻を鳴らした。
相当量の酒を呑んでいるのか、嘉門から酒の匂いが漂ってきた。嘉門が酒豪であるとを、長らく側にいたお民は知っている。 嘉門という男は、けして酒に酔うことはい。むしろ、呑めば呑むほど、醒めてゆくうな訳の判らなさを持っていた。その飲みぷりを見ていると、酒を呑むことを愉しんいるというよりは、何かを忘れたくて盃をねていく中に、意識が冴え、むしろ余計に実を意識してしまう―そんな感じだ。
―お前さんは、私をそんな女だと、お前さのいないところで何をしてるか判らないよな、ふしだらな女だと思ってたんですね。 あんまりだと思った。確かに、自分は石嘉門の側妾になった。でも、けして自分でんだことではない。徳平店を守るために、こに住む人たちのために、人柱になったよなものではないか。なのに、源治は、お民心を少しも判ってはいない。
初めて嘉門に手込めも当然に抱かれた夜どれほど怖かったか。夜毎、恥ずかしさと辱に耐えながらも懸命に辛抱したのは、源の許に帰ってきたいと願ったからではなか。
これでは、自分があまりに惨めだ。結局お民はその喧嘩以来、源治とは口をきいてない。その一膳飯屋には、とりあえずは断しかなかった。昨日、亭主に相談してから事をすると言って帰ったのだ。今は、そのに行った帰り道である。そろそろ六十に手届こうかという主人は落胆を滲ませた表で、
「お前さんのような人が来てくれたら、うとしても助かるなぁと家内とも話してたんがね」
と、残念そうに言った。
折角の良い奉公先ではあったが、致し方い。源治の機嫌を損ねたまま、あの店で働ことはできない。それでなくとも、お民がかと理由をつけて、夜の源治の求めを拒みけているため、源治の機嫌はすごぶる悪い。 これ以上、良人との仲が険悪になるのだは避けたかった。
お民は縹やの店先でしばし脚を止めた。 店先には様々な簪が並んでいる。眼にもやかな色とりどりの簪や、櫛、笄。その中一つに、お民は眼を奪われた。
黒い小さな玉が一つだけついた素朴なもだが、その中に精緻な桜が幾つか丹念に描れている。玉には細い銀鎖のようなものがいていて、鎖の先に蝶を象った飾りがついいる。蝶の羽根の部分には透明に輝く石がめ込まれていた。
手に取って陽にかざすと、陽光を受けてラキラと眩しく光り輝く。しかも、角度をしずつ変える度に、飾りの蝶にはめ込まれ石が微妙に色合いを変えてゆく。ちょっとた目には透明に見える石は、実はほのかに色がかっているようだった。
光の当たり方によっては石榴のように深色、更には桜のように淡い色と変幻自在にを変えるその様は、まるで手妻を見ているうだ。
お民がその美しくも儚い光の煌めきに見っていた時、唐突に背後から声をかけられた。「何か欲しいものがあれば、買ってやろうか」 この声は―。
お民はまるで地獄の底から甦ってきた死を見たかのように凍りついた。
聞き憶えのあるどころか、耳に馴染んだは、紛れもなく石澤嘉門のものだ。
振り向いては駄目、絶対に振り向いてはけない。
お民は自分に言い聞かせた。
何故、嘉門が突如としてこのような場所現れたのかは判らない。が、自分にとってはけして好もしい状況ではないことは確かだ。「そんなにその簪が気に入ったのであればその品でも良いぞ」
いつしか嘉門が傍らに来て、懐から銭入を取り出すのがかいま見えた。
「止めて下さい! そんなもの、私は要りせん」
お民は悲鳴のような声で叫んだ。
そのただならぬ様子に、お民を取り巻いいた他の客―若い娘たちが一斉にお民をる。
あまりの恥ずかしさに、お民は居たたまなくなって、その場から逃れるように足早歩き出した。その後から、嘉門がついてくる。「そなたがどうしているのかとずっと気にっておってな。様子を見にきたのだが、そ顔ではどうやら、あまり幸せではないらしい」 嘉門が悪魔のように魅惑的な声で囁く。 人を魅了するような深い声は変わっていい。
「どうだ、もう一度、俺に仕える気はないか」 予期せぬ誘いに、お民の歩みが止まった。 後ろを振り返り、キッとして嘉門を見据る。
「私はもう二度と、あなたさまのお側に上るつもりはございませぬ。あなたさまと私ご縁も既に切れたものと思うておりますば、どうかもう今後は私の前にはお姿をおせにならないで下さいませ」
嘉門は怒ったようでもなく、心底呆れたうに鼻を鳴らした。
相当量の酒を呑んでいるのか、嘉門から酒の匂いが漂ってきた。嘉門が酒豪であるとを、長らく側にいたお民は知っている。 嘉門という男は、けして酒に酔うことはい。むしろ、呑めば呑むほど、醒めてゆくうな訳の判らなさを持っていた。その飲みぷりを見ていると、酒を呑むことを愉しんいるというよりは、何かを忘れたくて盃をねていく中に、意識が冴え、むしろ余計に実を意識してしまう―そんな感じだ。
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