チキンピラフ

片山春樹

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切符は夢の世界に行くために

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キョロキョロとビルを見上げながら周りの景色を眺めていると。
「駅まで歩いて10分くらい。お腹すいていないか? なにか食べる? 喉乾いてない? 何か飲む?」
と立ち止まり振り向いて、私に聞いてくれる春樹さん。そんな気遣いがなんとなく嬉しいような恥ずかしいような、顔がほころぶような、そんな気分だけど。お腹はすいていないし、のども乾いていないから。
「ううん、大丈夫です」
とはにかみながらつぶやくと、「はーい」、って顔して歩き始める春樹さん、その背中を見ながら、目についたのはぶらぶらしてる手、10分ほど歩くのなら。
「ねぇ、春樹さん」
と早足で追いついて。
「なに」という返事に。ちょっとだけ恥ずかしい気持ちを大きな期待で抑え込みながら。
「手・・つないでもいいですか?」
もじもじと伝えると。
「て?」と立ち止まる春樹さん。
「て」と下から目線でニコニコ顔をすると。鼻でくすくす笑いながら。
「はい、どうぞ、右手、左手」
と後ろを向いて、ヒヨコみたいに手をパタパタさせている。だから、私の右手を春樹さん左手に伸ばしたけど。指先が触れると、やっぱり恥ずかしいような照れくさいような。だから。ちょこんと握ったのは。
「それは、小指でしょ」
「いいの・・」
そして歩き始める早朝の並木歩道。木の上ではスズメが騒いでいて、私たちを追い越してゆく人たちがどんどん早足で歩いていく。
「そろそろ会社に行く人たちで混み始める時間かな、水族館は方向逆だからたぶんそんなに混んでいないと思うけど」
という春樹さんの声を上の空で聞きながら。二人並んでゆっくり歩くけど、歩調も合わなければ、手のつなぎ方がよくわからなくて、ぎくしゃくする手と足取り、いろいろな握り方を試している手。合わせようとすればするほど合わない歩調。なかなか落ち着かないから。もぞもぞし続けていると。私の人差し指が絡んだ春樹さんの小指。春樹さんはぎゅっと握って。一瞬停止、連結完了せーのおいっちにおいっちに。そんな感じで私に会わせ始めてくれた。手の振りも足取りも、ピッタリそろうと、なんとなく、ウフフ・・と笑ってしまいそうな気持ちになって、ちらっと顔をあげると。
「トイレとかも大丈夫? 何かあったらすぐに言ってよ」
とまた、どうでもいいことを聞いて。
「うん」とうなずく私に笑顔でうなずいた春樹さんは私を引っ張るように歩く速度を上げた。だから、「うんもぉー」と思いながらグイっと連結している指を引っ張る。振り向く春樹さんに、もっとゆっくり歩いてください、せっかくピッタリ揃い始めたのに、男の子と手をつなぐのも初めてなのに、もっとこう、手をつないている実感を噛みしめたいのに。そんなことをぶつぶつと思っていると。
「どうしたの?」という間のぬけた顔。
「どうもしません」とぼやく。これって、なんとなくデートのイメージじゃないな・・そんなことを思い始めた。そんな気持ちを引きずりながら、しばらく歩くと、駅が見えてきて、もっと人が集まり、だれもかれもが走っているような速さで歩いている。まるで私たちが止まっているような感じ。

そして、駅の窓口で切符を買って私に渡してくれた一枚。それは、電車に乗るための切符ではなくて。私と春樹さんだけが夢の国に行くために手にした切符のような錯覚。切符を差し込んで、改札口を通り過ぎて、切符を取ってポーチに仕舞うと、また小走りして春樹さんの小指と連結、電車を待つ間、春樹さんの左手の小指をむにゅむにゅと弄びながら、ちらちらと見上げて、なんとなくウキウキしている感じに、やっぱりデートってこうだよね、と思う。でも、到着した電車の中・・・・
「あららら、ちょっと混んでるね」
と春樹さんは言ったけど。ちょっとどころじゃない混み具合で、列の後ろを振り返ると、これに乗るしかないプレッシャー。
「離れないように」
と春樹さんは私を包むようにガードしてくれているけど。無理やり押し込まれるように乗り込んだ車内。生まれて初めて経験するようなギューギューの通勤ラッシュの電車。もみくちゃになりながら密着している春樹さんを見上げると。
「5つ目で乗り換えるから我慢して」
と言うけど、電車が揺れるたびにむぎゅーっと押しつぶされるようで、春樹さんの服をぎゅっと掴んでいても、前後左右からギューギューと押しつぶされて。こんなに身動き取れない中どうしていいかわからないような、何度も春樹さんの顔を見上げても、「我慢して」と目で訴えているだけだし。これって弥生が予言した「すし詰めのラッシュとか」、そんなことを思い出したけど。でも、「これも、デートなんですよね」と、春樹さんの服の裾をぎゅっと掴んで、もう一度顔を見上げると。
「もう少しだから・・」
と返事。これが、弥生が言っていた「オトコにそういう計画立てさせると・・」こんな風になる現実なのかな。そして、もみくちゃの中、息もできなくなって意識が遠くなり始めた時。
「さ、降りるよ」
と春樹さんは私の肩を掴んで、力ずくで、すし詰めの車内から引きずり出してくれたようだ。外の空気を吸いながら、もうダメかも・・もうムリかも・・もう歩けない・・立ち上がれない。吐きそう・・そんな息づかいを気にもせずに。
「大丈夫だった? 忘れ物はない、カバンとか、切符とか大丈夫」
と春樹さんは、ぐったりとベンチに座った私に聞くけど。ちょっと大丈夫じゃ無い感じ。持っているものを確かめて。とりあえず大丈夫だと思う。
「次の電車まで15分くらいかな、何か食べる? 飲み物は?」
春樹さんはしつこいくらいにそう聞くけど。食べる気もしない、飲み物は欲しい。でも。
「コーヒー紅茶、お茶にする、水がいい?」
としつこいくらいの気づかいに。
「お茶でいいです」
と力なくつぶやいて、売店に向かう春樹さんを眼で追うと、息が整い始めて、冷静な気持ちが戻り始めて、なんとなく感じること。エスコート、召し使い、なんでも言うこと聞いてあげる、そう言っていたけど、あんなぎゅうぎゅうの電車の中ではエスコートも召し使いも密着して抱き合っていても気休め以外何物でもないような、それに、私は男の子にそんなことされたことがないから、どういえばいいのかもよくわからないような。私は、召使に指さして「おい、お茶を買ってきなさい、よいな」なんて言えるわけないし。そんなことをぶつぶつと思っていると。
「はい、お待たせ、次は通勤列車じゃないからきっと大丈夫」
どうしてこの人はあんなぎゅうぎゅうの電車から降りてすぐなのにこの笑顔なの? そう思いながら受け取ったのは「おーいお茶」のペットボトル、何か通じたのかなと、くすっと思い出し笑いしてから、すぐに開けてごくごく飲むと、なんとなく元気が戻ってくる感じ、そして、気になったのはお弁当の文字の袋、をじーっと見ると。
「時間あるから、あとで二人でツツこうか、焼き肉弁当、二つだと多いと思って」
と言う春樹さん。二人でツツこうか・・それって。と空想すること。
「うん」
とうなずきながら、広がり始める二人で一つのお弁当を食べるシーン。
「はい、あーんして」
「あーん」
「おいしい?」
「うん」
そんな空想を違和感なくしているしてる私、デートってやっぱりそういうことの連続じゃなきゃ。と顔には出さないようにニヤニヤと笑ってみた。

しばらく待って、次に来た列車は、とりあえず、座れる席があって。
「窓の方に行く?」
と先に座らせてくれる春樹さん。これがエスコートかな、とも思ったりして。
「じゃ、早速、お弁当食べようか、朝食べてきたの?」
とガサゴソと蓋を開けて。「ううん」と言いながら手を拭いて、お箸を手渡されて。
「はいどうぞ」
そして、さっきから、どうしてもしてみたかったことを実行してみる。お箸で、お肉をつまんで。
「はい、あーんして」
「えぇー、ちょっと・・自分で食べれるし」
「もぉぉぉ、ほら、アーンしなさい、今日は私の召し使いでしょ」
「はいはい、もぉ、あーん」
とする春樹さんに食べさせてあげて。もぐもぐしている春樹さんに。
「おいしい」と聞くと。
「うん」
本当にそんなことをしてみると、嬉しさと恥ずかしさと可笑しさがエンドレスでぐるぐるし始めて、お腹がひくひくと痙攣して。
「くくくくくく」って笑ってしまわずにはいられないこの気持ち。
「何がそんなにおかしいの?」
「だって・・・」
なんか、一日中思い出して笑ってしまいそうな気がする。そして笑いが少し治まったとき。
「はい、あーんして」と春樹さんもするけど。
「いいよ、私は」恥ずかしいでしょ、周りに人もいるし。
「アーンしなさい」
「いいってば・・」
笑いながら拒んでいるのに。怖い顔する春樹さんは、唇を尖らせ始めて。しつこく。
「あーんして」と言うから。
「はい、わかりました。あーん」と仕方なく。
そして一口。
「おいしい」と聞く春樹さん。
「うん」とうなずく私。
じーっと私がもぐもぐしているところを見つめている春樹さんは。
「別におかしくもなにもないけど」
と白けた顔で言う。でも。もう一度。
「私は、楽しいの。はい、あーんして」
「あーん」
と春樹さんに食べさせてあげてから。もう一度。
「おいしい」と聞くと。
「うん」と答えて。この、可愛い子犬が尻尾を振り振りさせながら、もっとちょうだい、もっとちょうだい、と ご飯をねだっているような錯覚を感じて、また腹筋をよじらせるから。
「くくくくくく」って笑ってしまって。あーこれって本当にデートしてるって感じ。でも、声を殺して笑っていると。ムスッとしている春樹さんは。
「もういいよ、自分で食べるから」と言うから。
「はいはい」と返事する私。そして。
「アスパラ、食べていい?」と私に聞く春樹さん。
「うん、じゃ私は、昆布巻き欲しい」と春樹さんに聞く私。
「はいどうぞ」
分け合いっこもくすぐったくて心地いい感じ。そして、昆布巻きを口にくわえて。ついしてみたくなったこと。
「半分食べますか」って昆布巻きをくわえた唇を差し出したら。
「もぉ、美樹ちゃんどうしたの、飛ばしすぎでしょ」と春樹さんはお箸で昆布巻きを私の口に押し込んだ。どうしたのって、いいじゃない二人きりだし、飛ばし過ぎッて、まぁ、そうかなと思ったけど。
「もぉ」と拗ねたふりもしてみる。
もぐもぐしながら、こんな気分で食べるおいしい焼き肉弁当。生まれて初めてのデート、列車の席に座って、大好きな男の子とお弁当をつついている。さっきの「あーん」を何度も回想して、おなかをひくひくさせている私。そして、食べ終わった箱をかたずけた春樹さんに次ぎにしてみたいことは。
「もたれていいですか・・」
と、それは、うつむいて上目遣いで言ってみた、恥ずかしいから。でも、二人きりのせいかな、今は恥ずかしくても口にできてしまう、そして。
「ハイどうぞ」と姿勢を変えた春樹さん。両手を広げるから。
「違います、肩でいいんです」
そうつぶやいて、
「肩・・って・・こう?」
と姿勢を戻す春樹さんに、そのまま、そっともたれて。肩に頭をのせてみる。
「一度してみたかったの・・こういうのも」
と言ってみる。すると。私の前髪を指先ですいた春樹さん。その仕草がむちゃくちゃ嬉し恥ずかしくて、目を合わせて、うっとりとし始めた気分に浸ろうとした瞬間。
「女の子はみんな同じことをするんだな」
と言った。女の子・・みんな・・女の子って知美さんの事? みんなってそれも知美さんの事ですか? そんな想像。だからムッとした気分にスイッチが切り替わって。もたれるのをやめて、少し突き放す。
「ナニ? どうしたの?」
と、その間抜けた顔が、さらに気持ちを逆撫でするから。
「春樹さんに言いたいことがあります」
と鼻息までもが荒くなる。
「ナニ?」その間抜け顔はやめてよ、と思いながら。私は。
「今日は、知美さんの事は話さないでください」
と低い声で言った。しばらくの沈黙が気まずい雰囲気の雲をもくもくと湧き立たせたけど。
「はーい・・」とイヤイヤっぽく返事した春樹さん。やっぱり、女の子はみんなって知美さんのことだったんでしょ。と思ってしまってぶすーっと膨らんでいると。一呼吸おいた春樹さん。
「美樹ちゃんに言いたいことがあります」
って私の真似をするから。
「ナニよ?」と膨らんだ顔のまま返事すると。
「知美さんのことを話題にして怖い顔するのはやめてください」というから。
「別に私は知美さんを話題にして怖い顔なんてしていません」と言い返すと。
「してるじゃない」
「してません」
「いましてるでしょ」
「してませんよ」
「絶対してる」
「絶対してない」
「してる」
「してません」
「ほら、怖い顔」
しつこい、と思いながら。
「春樹さんがさせてるんでしょ」
ぷっと膨らんでいると、
「また俺のせいにする。ぷにぷに、フグみたい。ハリセンボン」
と私のほっぺを左右から摘まんで。じぃぃっと私を見つめて。
「ほら・・笑ってください」
と、ほっぺをクニクニと弄びながら。
「美樹ちゃんをデートに誘いましたよ」
と意味不明な一言。そして。
「知美には内緒で」
と、なにか意味がありそうな顔で言ってる。そして。内緒・・はいけないようなと思った時、春樹さんはほっぺを摘まんだままクニクニするのをやめて。ため息を一つ。そして。
「昨日まで、シタゴコロがむずむずしていたけど」
とつぶやきながら、わたしのほっぺを摘まんでいた手が離れる。私は。
「けど・・・? ナニよ」とまだふてくされたまま、じーっと春樹さんを睨むと。春樹さんは爪の背で私のほっぺを撫でながら。
「・・美樹ちゃんって、こんなにかわいい顔してたっけ」とため息交じりの言葉は。
こんなにかわいい顔・・の部分がドキんっ。こんなにかわいい顔、こんなにかわいい顔って山彦のように頭の中で反響して。それってどういう意味ですか。と思うこと、急に言葉にできなくなって、いきなり変な部分のスイッチがいくつも入ったような。耳が突然ジンジンし始めたような。私の顔をじーっと見つめたまま、大きく息を吸って、ふーっと吐き出している春樹さん。
「・・・・・」と何かを言おうとして、また大きく息を吸って吐いてから。力の抜けた笑顔で。
「・・到着するまで1時間半くらいあるから、少し眠れば」
と急に話題を変えた。ナニ今の「こんなにかわいい顔してたっけ」って、どんな意味があるの、その後なんて言おうとしたの? と何度も繰り返しながら考えていると。
「美樹ちゃん、もたれていいですか」と春樹さんは、私にそっともたれて。
「綺麗な髪・・」
と言いながら、鼻先で髪を・・。そして。
「美樹ちゃんの髪って・・いい匂いがするし」
なんて言う。ナニこのドキドキ感。久しぶりに息が逆流し始めたようなこの感じ。どう答えたらいいんだろうと考え込んでしまうから、しばらく何も言えないでいると。春樹さんは、こんなにドキドキしている私なんてお構いなしで、大きなあくびをしてすぐ、本当に寝息を立て始めて、肩に体重が重く乗って。一呼吸するたびに、じわりじわりと重くなり始めて、だから。
「もぉ・・」と春樹さんの重い体を押し返してしまうのは、急に恥ずかしくなったから? もう少しなにかこう今の私の気持ちをフォローするようななにかできないの? そんな気持ちのせい?
「・・・ナニ」とぼやく春樹さんの顔に。
「重いでしょ」と言ってみた。でも、春樹さん。反対側のひじ掛けに頬杖ついてまた眠り始めてしまう。何ですか、さっきの一言に ぐっ と来たのに、この態度。
そんなフテクサレ感のまま、仕方なしにちょこんともたれて、目を閉じてみると。そういえば、昨日はほとんど眠っていないし、電車の揺れも心地いい。もう一度、昨日まではシタゴコロがむずむずしていたけど・・・美樹ちゃんってこんなにかわいい顔してたっけ・・・いい匂いがするし・・・と繰り返すと、ドキんドキんと跳ねているような心臓。でも、もう一度目を開けて、春樹さんの間抜けた寝顔を見ていると、なんだかドキドキしていることも馬鹿らしくなるような・・まぁ、いっか。「はい、あーんして」の部分からもう一度思い出して、くくくくっと笑う。「美樹ちゃんをデートに誘いましたよ、知美には内緒で」どんな意味だったんだろ。「こんなにかわいい顔してたっけ」そんなこと、知り合って以来初めて言ってくれたような気がする。何度も回想すると、なんとなく生まれて初めて耳にする男の子からの優しい響きのようにも思えて、「私の顔、可愛いですか? 髪、綺麗ですか?」と小さくつぶやいてみると、寝息でうなずいているようにも思える春樹さん。上下している胸、いつかこんなシーンがあったことを思い出してみる、私の前で無防備な寝顔をさらす春樹さん。見ていると、なにも考えられなくなる幸せそうなこの寝顔は、ついこの間見たような、前世の記憶のような。上下する胸に合わせて呼吸をシンクロさせてみると、意識が夢の世界に引きずり込まれるように、ふぅーっと落ちてゆく。寂しがる腕がもぞもぞと、いつも抱いている枕を探すように春樹さんの腕を抱くのか、いつも春樹さんを抱く夢を見ながら枕を抱きしめているのか・・今はどっちなんだろう・・。どっちでもいいか・・なんだか、逆らえない眠気が押し寄せてきて、この眠気に身を委ねると本当に心地いい感じ。


「そろそろ起きてください」
と遠くから聞こえたような声に気付いて。なんだろ、今、私、ものすごく深いところにいるような気がしている、どこにいるんだろ・・。
「美樹、ほら、もうすぐ着くから起きてください」
今度は、少し近いところから聞こえたような声。美樹って私を呼んだの? 誰の声? 反応できない、というのか、その声に反応しているつもりなのに、体のどこも動いてくれない。スイッチが全部OFFになっているような、何も感じないような、何もかもが真っ白な世界に体が浮かんでいるような、こんなに明るくて真っ白なのに何も見えない世界にいる私、体を動かしているつもりなのにどこも動かないような。何かを感じているのに何も感じないような。なんだろ、この感覚。
「ほら、もぉー、起きなさいって」
「はいはい、起きますよ」
と言っているつもりなのに、声になっていないような。起きるってどうすること?と思っている。
「美樹・・ほら・・起きて・・おーきーて」
と体を揺すられて、やっと目が開いたけど・・体はまだ動かなくて。眼だけを動かしてみると。上の方に春樹さんの顔。しっかり抱いていたのはいつもの枕じゃなくて、春樹さんの腕・・。
「ほら、おりますよ」
と言われて、まだ、状況が分からない私。
「まったく・・もう」
と春樹さんは、私が抱いている腕を腰に回して、抱きかかえたまま立ち上がり、私を荷物のように抱えて歩き始めた。
「ちょ・・ちょ・・ちょっとまってください」
と、じたばたしてるつもりだけど、体は動かないから、お構いなしに抱えられたまま電車から降りると、
「ほら、起きた? 歩ける? 大丈夫?」
と私を支えたまま聞く春樹さん。まだ、眠っている感じがするけど、キョロキョロ周りを見ると、電車が走り去ってゆく駅のホームは誰もかれもが男女のカップルで。春樹さんを見上げると。
「美樹ちゃん、眠りすぎ、まったくもぉ」
と笑っている。そこで、ようやく、目が覚めたような、そういえば春樹さんとデートで水族館に行くところだったんだと意識が戻ってきたような。
「はい、背伸びして、んーって」
と言われるままに、一緒に んーっ と背伸びしたら、大きなあくびがつられて出てきて、涙もちょちょぎれる。
「はい、次はシャトルバスに乗りますよ」
という 春樹さんは、私の手を取って歩き始めた。涙を人差し指で拭き取りながら、手を引かれるままに歩き出すと、一歩一歩体が動き始めて、なんだろう、ものすごく深い眠りだったような気がする。もう一度、おおきなあくびをして、ストレッチ。そんな私を見ながらニコニコしている春樹さん。駅を出るとすぐにバス停があって、大きなシャチの看板がある。誰もかれもがアベックで、その列に並んで立ち止まると。
「すっきりしましたか」と聞くから
「はい・・なんか、すっごく眠れた」と思うままに答えて。もう一度 んーっ とあくびしながら手足を伸ばしてみた。そんな私を見つめたままの春樹さんにふと思い出したこと。知美さんが言ってた、「あの子の膝の上って心地よくて、あんなに深い眠り」ってこれの事かな? そんなことを思い出したせいか、もう一つ思いついたことは・・。
「ねぇ春樹さん」
「ん?」
「ここって、知美さんと一緒に来た水族館ですか?」
そう聞きながら、ものすごい不安な気持ちが湧き上がってくる。
「知美さんの話はしないんじゃなかった?」
「そう言いましたけど・・・ただ、聞いただけでしょ」
別に答えたくないなら答えなくてもいいですけど、と思うけど。春樹さん、はいそうですよって答えたら、私どう反応すればいいのだろう。って、なんでそんなことを急に思いついているのだろうとも思っていると。
「やっぱり気になるの? 知美と行ったのは、ここじゃなくてもっと近いところ。ここは、ちょっと遠いしね、機会があれば来てみたいとずっと思っていたんだけど、だからここは初めて、知美とはあまりデートとかしないし、こんなところに来るのも3年ぶりくらいかも」
と話し始めた春樹さん・・。そっか、ここじゃないんだ、という安心感と。
「知美さんとは、デートしないんですか?」という疑問。何年も付き合っているのに?
「え・・うん、お互い、働いてばかりだからね。休みも合わないし、だから、デートってどうするのかよくわからないから、ぎこちないところは許してください」
という春樹さん。私だって初めてですよ、と思いながら。やってきたシャチの絵柄のバスに乗り込んで席に座り、窓の外を見ると、私の心の奥底の無意識がなぜか探そうとしているのは。
「隣にあったホテル・・あそこは高かった・・」と春樹さんが言っていた高級ホテル。のような建物は見つからないのだけど。
「ほら、見えてきたでしょ、あそこが水族館」
と窓の外を指さす方向に大きな看板。のずっと向こうに見えたHOTELの文字のほうが、私にはネオンでハイライトされているような気がしたりして。
「暗くなると運転危ないでしょ」とは、知美さんが春樹さんをホテルに引きずり込んだ言葉。私の場合は、暗くなっても電車に乗れば帰れるし・・。なんて言って引きずり込めばいいのだろう、そんなことを考えている自分は私ではないような気もするし。チラッと春樹さんの無防備な笑顔を見つめて目が合うと、急に恥ずかしくなって、今私が考えていることテレパシーになって、この人に伝わっていませんように、そんな思いもする。
「さ、到着したよ、お疲れ様、おりますよ」
とバスが止まって、みんながきゃいきゃいと楽しそうに下りてゆくのを見ながら。春樹さんは私の手を引いて、バスを降りると、夏の日差しがジリジリしていてむちゃくちゃ眩しい。
バスを降りたほかの人たちはシャチのモニュメントの前で記念撮影を始めて、誰もかれもがものすごく楽しそうで、ものすごく幸せそうで。私とはなんとなく違うような雰囲気、やっぱり、それは、私はまだこの人と結ばれていないから? あの人たちは、みんな結ばれている恋人同士なのかな? そんなことばかり考えてしまっていると。
「写真撮る?」
と春樹さんが聞く。その向こう。彼女の肩を抱く彼氏と幸せそうにくっついて自撮り棒で写真を撮っているカップル。
「自撮り棒持ってないから・・」
と春樹さんはスマホを掲げて、
「どう撮ればいいんだろ」
とつぶやいて、掲げたスマホの画面に映っている私と春樹さん。その画面を見ると、なんとなく私ではない私が画面の中にいるような感じ。その私じゃない私が、画面の中からもっとくっつきなさいよ、と私をけしかけてる気がして、少しかがんでいる春樹さんの顔に私の顔を寄せてゆくと、ほっぺがくっついた。
「はやく写してください」と恥ずかしい気持ちでつぶやいて。ぱしゃん、と写真が撮れた音。
そして、隣で写真を写しているカップルは、カノジョがカレシのほっぺにチューしたままカメラ目線で。だから、そんなシーンにつられた私じゃない私も。春樹さんのほっぺにちゅーしたままカメラを見つめて。なんでこんなに大胆なんだろう、今日の私・・という気もしてる。
「ちょ・・ちょっと」と春樹さんはぼやくけど。離れようとする春樹さんの首に手をまわして、ぎゅっと抱き寄せて。
「はやく写してください」という。ぱしゃんと写真が撮れた音に、スマホを奪って、写真の出来栄えを見てみると。画面いっぱいの二つの顔。ひょっとこみたいにチューしている私と、春樹さんの変な顔。無茶苦茶おかしく思えたから、くくくくくって、おなかをよじらせながら笑ってしまって。でも、笑っているのは私じゃない私。私である私は・・
「もぉ・・今日は朝から、いつもの美樹ちゃんじゃないし・・」
と恥ずかしそうな春樹さんの笑顔に。
「いいじゃないですか・・二人っきりなんだし・・」知美さんが見ているわけじゃないし。
とはにかみながら言ったり思ったりしているけど、いつもの私はこんな時どんなことを言うのだろう。いつもの私のことが思い出せない、とも思っている。
「じゃ、行きましょうか」と春樹さんに手を引かれて、チケットを買って、ゲートをくぐって実感し始めたこと。確かにいつもの私ではない今の私。本当に春樹さんと手をつないで水族館に来てる。大好きな男の人と二人きりでデートしている。何度もあこがれたような、デパートとかでもたまに見かける手をつないで歩く恋人たちと同じように、私はカレシと手をつないで歩いている。まだカレシではないか・・と思い直して、好きな人と手をつないで歩いている。でも、これって本当に現実なのかなという 思いがするから。
「春樹さん・・」とつぶやいて。
「んっ?」って返事に。
「夢じゃないですよね・・」と聞いてみたら。
「たぶん・・俺もあまり自信ないけど・・」と恥ずかしそうに笑ってる。
私もあまり自信ないかも・・と春樹さんの横顔を見上げると。春樹さんは軽く握っていた私の3本の指から手を放してすぐに、手の平からするっと指の間に指を這わせて、ぎゅっと力を込めて握った。そして、親指をもそもそさせて、私の親指を撫でて・・。
「美樹ちゃんと手をつないでデートしてるなんて、本当に現実なのかな?」と言う春樹さん。もそもそし返してみる親指が上になったり下になったりしていることに、もしかすると、このまま、今日、この人と、この親指のように、上になったり下になったりしながら結ばれる運命なのかもしれない。という思いがよぎる。でも・・ありえないよね・・と心の中で呟いた声が何かにかき消されて、イチャイチャしている親指に感じる実感、今日結ばれる運命が・・ありえるんだ・・その思いが強くなって、本当にその気になってゆくことが怖く感じるから、イチャイチャし続ける手をほどいたけど。解いた途端に、運命の糸が切り離されてしまう怖さをもっと大きく感じるから、振り向いてくれた春樹さんの腕に運命の綱を手繰り寄せるように絡みつく。もし、本当に結ばれる運命の日が今日なら。無条件に受け入れよう。本当に、いつもの私じゃない私が、そんな決意を固くしている実感がし始めた。今日、私はこの人と結ばれる・・・。こころの準備はもうすでにOK。ねぇ私はいつでもいいよ、ってなんか恥ずかしいこと考えているのかな私、そんな気持ちの上目遣いで春樹さんを見上げたけど。
「シャチのショーはお昼過ぎからだね、先にイルカ見に行こうか」
ってシャチにこだわっている感じ、私が今、心の奥で大変な決意しているなんて、この人は少しも感じ取っていないね、と思うそのセリフ。
「こっちはペンギンだって、アザラシの方がいいかな・・迷っちゃうね」
って、すごく真剣に、館内マップを眺めている春樹さん。いつもいつも、変な期待に胸膨らませると、必ずこんな幻滅が押し寄せてくるような・・。
「端から順番に見ればいいでしょ」ってまた鼻息が荒くなっている私。
なんだか、腕にしがみついているのも馬鹿らしくなってきたような・・疲れてきたような。
「じゃ、熱帯魚から行っていい?」
「お好きにどうぞ・・」
と言ってから、解いた手にも気づいていないような、私に目もくれないような、そんな仕草で水槽の中の魚に目を輝かせ始めた春樹さん。
「魚って水の中で、重さをどう感じるんだろう?」
と私に聞いたけど。知りませんよ、そんなこと。私も、さっきまで真剣に決意していたことが何だったのか、思い出せなくなっているような気がし始めた。
「宇宙って上とか下とかないんだけど、とりあえず水の中には上下があるんだよね・・」
これは、いつもの春樹さん・・本を読んでいるときの、あの真剣なまなざし、私にはわからないことを大真面目に考え込んでいるから。
「そうですね・・」
とだけ、返事しておこう。私には、なんだかよくわからない質問だし。


そして、一通りの展示を見回って、可愛いイルカと一緒に撮った写真。その後イルカのショーに感動して。アシカと一緒に写した写真はアッカンベーをしているアシカ。セイウチのひげってまるで割りばしが刺さっているような、牙があんなに長いのに、と思っていたら。ぴゅーっと水をかけるセイウチのショーを楽しく見た後、春樹さんがこだわっていたシャチのショーの時間がやってきた。なんとなく想像はしていたけど、近くで見るシャチがこんなに大きいとは思ってもいなかった。水槽越しに泳いでいるシャチにこっちに来ないかなと念力を送ると。ゆっくりと近づく背びれ。
「ほらほら、そこに立って、ハイ写すよ」
と春樹さんに写してもらった写真、私の後ろに写るシャチは背びれが私の背よりも遥かに大きくて、なんだかもう一枚・・と近づくのが怖い圧倒的な大きさ。そんなシャチとガラス越しに目が合ったような、ニヤッと私を見て笑ったような。なんだかイヤに予感がしたような。そして、観客席に座ると。
「ここは、ずぶ濡れになる席です、ご了承ください」
と書かれている。
「ずぶ濡れって・・」
「シャチがお客さんに水をかけるショーだから」と春樹さんはあっけなく言う。
「水をかけるって」シャワーみたいな?
「動画で見なかった・・メールで送ったでしょ」
「見ましたけど」シャチが飛び跳ねて、ぎゃーぎゃーと音声が流れていて事思い出しても、あまり実感がないような。
「ポンチョ買っておこうか・・・まぁ気休めだけど、バケツでばしゃーんと水をかけられるのを楽しむショーだと思えばいいよ」
ってゼスチャーするけど。想像が難しいような。ビニール袋の継接ぎのようなものをとりあえずかぶったけど・・。
「さぁ、始まりますよ・・」
と春樹さんか言った矢先。
「皆様ご来場ありがとうございます、ほんの挨拶代わりに、これでもくらえー」
と大きなアナウンスに えっ と思うと同時に、さっき一緒に写真に写ったあの大きなシャチが水の中からものすごい勢いで空中高く飛び跳ねて。何だかスローモーションを見ているような、あんなに大きな生き物があんなに高く空に飛び上がるなんて、と言葉をなくしたまま唖然と見とれていたら。どっしゃーんというかざっぱーんというか、大きな船が水に飛び降りたように、水しぶきの塊が ずわぁーっ というか、どわーっていうか。
「ぎゃーっ」と声をあげる間もなく、ナイアガラの滝のような水しぶきの塊が落ちてきて、一瞬でずぶ濡れになった私たち。隣で、滝の中から、だははははって笑っている春樹さん。そして。
「ぎゃーぎゃーぎゃー」と阿鼻叫喚の修羅場のようになっている観客席のお客さんは誰もかれもが、満面の笑顔で喜んでいるようで。顔から浴びた水がシャツの中を伝ってパンツまで入ってきたけど。
「もう一丁」
と言う春樹さんが、ビニールを私の頭にかぶせて。もういちど、どしゃーんと水の塊が落ちてくる。そして、本当にずぶ濡れになった春樹さんの顔を見て、笑ってしまうのは、こんな体験したことがない爽快なシーン。暑い日差しに火照った体にちょうどいいような水しぶき。何度もシャチがジャンプするたびに、悲鳴に包まれる観客席。シャチもなんだか楽しんでいるように回転しながら水しぶきをあげにあげて。水の塊が落ちてくるたびに春樹さんにしがみついて。まるで滝の中で会話しているように。
「どうですか」と聞く春樹さんに
「むちゃくちゃ楽しい」と笑いながら答える。
二人で、これ以上笑ったことがないくらいに笑って、こんなにずぶ濡れになったことがないくらいすぶ濡れになって、これ以上感動したことがないくらいにシャチのショーに感動して、これ以上叫んだことがないくらいに、ぎゃーぎゃー と叫んで。これ以上の演出なんてないだろうなと思う、本当にすぶ濡れになった初めてのデートのハプニング。ショーが終わった後、これでもかというほどにびちゃびちゃになったけど。
「暑いし、濡れてる方が気持ちいいでしょ」
と春樹さんの一言。確かに、服も髪もずぶ濡れだけど、それが、なんだか気持ちよくて。
「何か食べる? お腹すいたでしょ」
と手を引き席を立つ春樹さんについて歩きながら。ふと目が合うさっきのシャチ。だから、
「写真撮りたいです」
と春樹さんの手を引いて。もう一度、この ずぶ濡れ の顔、シャチと一緒に写真を撮ろうと水槽に近づいて。春樹さんが掲げたスマホの画面にシャチが映り込むのを待ちながら。お互いでくすくす笑ってみた。そして、ちょうどシャチが近づいて。
「はい、チーズ」と写した一枚。
「もう一枚いくよー」
と言った瞬間に、別のシャチがジャンプして。また頭から滝のような水をかぶった私たち。何だか、ゲラゲラと笑ってしまう、こんなハプニング。水槽の中のシャチに手を振って、お別れの挨拶をして。手をつないで会場を出ることにした。
「なんだかすごいの撮れちゃったかも」
と春樹さんが見せてくれた写真は、ずぶ濡れなのに、ものすごい笑顔の私たちと、頭の上で止まっている水しぶきの塊。二人で見合って。
「ぷぷー」って笑う。

その後、また二人でピザを分け合って食べて、かき氷を食べながら、濡れた服を乾かすつもりで、いろいろな展示を見て回り、小さな乗り物に子供たちと一緒に乗ったりして。ぶらぶらと歩きまわることがこんなに楽しい初めてのデート。時間が過ぎてゆくことなんて微塵も感じないこのウキウキしてる感じ。そして、しばらくしてまだ湿っぽいけど、乾き始めた服をパタパタと仰いでいると。
「乾いた? そろそろ帰る?」
と突然、提案する春樹さん。その一言で、時間がこんなに過ぎていたことを思い知らされて、また急にフテクサレな気分が湧き上がってくる。だから。
「もう少しいいでしょ」というわがまま。
「でも、明るいうちに出発しないと、家に帰るの遅くなるから、お母さんに心配とかさせたくないし」
お母さんが心配するのか・・。それは、私への優しい気遣いだと思うけど。
「はーい・・」
とフテクサレた返事をして。そうだ・・と思いついたこと。
「お土産見てからでもいいですか?」
「お土産?」
「お店の人たちとか、友達とか」やっぱりなにか買っていきたい。でも。
「まぁ・・」と視線をずらす春樹さん。
何ですかその まぁ って返事。と思うこと。
「友達と行ったてことにすればいいんでしょ」
というセリフで表現するけど。みんなの前で「デートに誘ってください」って言い放ったあの時の事も思い浮かんで。
「ボールペンとかだったら大丈夫ですよ・・」と言いながら。
私は、何かこう、あなたとデートしたっていう証が欲しいだけです。という思いもある。
「はいはい・・」
と返事する春樹さん。そして、手を引いて、グッズ&ショップの建物に入ってゆく。そこで、またぶらぶらと、いろいろな品物を見て回りながら。大きなぬいぐるみ、小さなキーホルダー。そして、冷静に回りを見渡しながら気づいたこと。女の子たちがあれこれと品定めしている少し後ろで、男の子たちが興味なさそうに作り笑いしているこの構図。だから、チラッと春樹さんに振り返ると。ほかの人たちと同じように、興味なさそうな顔が、私に気付いて愛想笑いしてる。
「なにかいいものあった?」
と聞いてくれるけど。これと言っていいものなんてないかな、という感じ。
「キーホルダーでいいんじゃない?」
と、シャチのキーホルダーを選ぶ春樹さんだけど。それは、私のセンスではないような。ため息吐いて春樹さんから視線を背けたその時、キラッと私の目に、少し離れたところから届いた緑色の光。
「なに・・今の光?」そうつぶやいて、光線の元を探しに向かったら、そこにあったのは。
「イルカの指輪・・・ドルフィンリングっていうのか・・」
つぶやいて、誕生石、5月はエメラルド。私の指に合うサイズって・・とほとんど意識がないまま、選んだ一つは、まるで私の薬指のために作られたような、指に吸い込まれるかのようにピッタリとはまり込んで、そのまま空にかざすと、緑色の宝石がキラキラとすっごく綺麗に輝いて、イルカの造形に天井の照明が反射すると、まるで生きて動き出すような錯覚。
「きれい・・・かわいい・・・」
とつぶやきながら、指から外してタグの値札をチラッとみると。
「・・・・・・・・・・」いくら何でも、これは、わがまますぎるかな・・と思う値段。を自覚しながら、ようやく私に追いついてきた春樹さんにチラッと視線を向けてみた・・。顔に「これ買って、これ欲しい」と書いていそうかな・・と思いながら。私が手にしてる指輪に視線を向けた春樹さんは。
「・・・・指輪ですか」と背に縦じまを降ろしながら言った。
「指輪ですね・・」と返事して。そういえば聞いたことないかなと思う。
「春樹さんの誕生日はいつですか?」
「1月・・誕生石はガーネットだったかな・・ピンクっぽい石だったと思うけど」
「これですね・・」とオソルオソル。一つを選んで、
「サイズはどうですか・・」と無防備なままの春樹さんの左手の薬指にはめてみると、この指輪も、まるで春樹さんの指のために作られたように、吸い込まれるようにはまり込んで。
「ピッタリ・・」と思わずつぶやいてしまった・
「ぴったり・・」と復唱した春樹さん。そぉっと指から抜いて・・。さっき私がはめた指輪と一緒に、たまたまそこにある、専用の台に並べてみる。専用の台・・つまり、結婚式の時のあの儀式のための台がこれなんだね、と初めて目にするものだけど。二つ並んだイルカの指輪はまるで、何かのドラマで見たような、千年の時を超えて今一つになる・・その瞬間に宝石からあふれ出す光の帯が私たち二人を永遠に結び付けるかのようにまとわりついて・・なんだかそんな錯覚のような幻のようなものが見える気がしたまま、春樹さんの顔をチラッと見上げると。
「そういう目で見ないで・・」と春樹さんが力のない小さな声で言った。
「そういう目ってどういう目ですか?」と低い声で受け答える私。
「だから・・・だめ・・・指輪は・・・ちょっと・・・」と後ずさり始める春樹さんを。
「春樹さんにお願いがあります」と言いながら、わざとらしい作り笑顔で手を掴んで。
「僕にはありませんよ」と今にも逃げだしそうな春樹さんを引き寄せて。
「私にはあるんです」と荒い声で言いながら、ニヤッとしてしまうこと。
「また・・そんな怖い顔する・・」
と怯えるような春樹さんがかわいく見えて、つい、よく考えもしないで言い放つ一言は。
「プロポーズしてください」それは、別に買ってくださいなんて言いませんよ、という意味もあるし。こんなに高いもの・・買ってくださいなんて・・。だから、そう思っているのに。
「えぇぇぇー・・ぷ・プロポーズって・・なに」って何ですか。どうしていつもわかってくれないのよ。
「だから・・嘘でも冗談でもいいですから、この指輪で私にプロポーズしてください」
「って、そういうことって、嘘とか冗談ですることじゃないでしょ」
「嘘でも、冗談でもいいんです。今日・・生まれて初めてのデートだから、そんな、最高の思い出が欲しいんです」
と、これは、この指輪を見て思いついた、本当に正直な気持ち。嘘でも、冗談でも、叶わない夢だとしても、春樹さんに言われたいと思うこと。今まで何回か言ってくれたでしょ「好きだ」とか、まだ一度も言われてないけど「愛してる」とか、指輪を左手の薬指にはめながらそんな言葉で、ほんの少しでも、そんな気持ちがあるなら、私に伝えてほしいと、今は、目から出ていると実感する光線を浴びせながら願ってみた。
「・・・どうしよ・・・」とつぶやいた春樹さんは、専用の台の小さい方、緑色の宝石のついた指輪にそぉっと手を伸ばして。ふうぅぅっと一息。
ごくり・・と唾を飲み込んでしまいながら心臓がどきんどきんと大太鼓のように弾み始める私。嘘でも冗談でもいいって、勢いで言ってしまったことだけど、いざ、本当に何かをしようとする春樹さんの仕草が、私をものすごい緊張感の中に放り込んたようだ。
「それじゃ・・少しは本当の事もあるけど、ほとんどは嘘と冗談だからな・・」
と念を押すようなことを言う春樹さんに。
「・・はい・・それでもいいです」とうなずいた私。
そして、春樹さんは緑色の宝石のついた指輪を指先でつまんで。胸元でお祈りするかのように目を閉じて。ゆっくりと膝まづぃて、そぉっと顔をあげて、胸元の指輪を摘まんだ手を私に差し出しながら。大きく息を吸い込んで。一度はいてから、もう一度息を吸い込んで・・。
「僕の好きな美樹・・約束できることなんて何もないけど・・僕のお嫁さんになってくれませんか」
なんて予想もしていなかったそんなセリフには、嘘や冗談なんてどこにもない気がして。私の膝が本当に震え始めて、どうしていいかわからなくなったような・・その時。
「ほら・・答えてあげなさいよ・・受け取って、私のお婿さんにしてあげますって・・言ってあげなさい」と耳元に囁いたのはお土産屋さんのおばさん・・。だから・・春樹さんが手を添えて差し出す指輪に、私の震えている左手の薬指を差し込んで、その手で春樹さんの左手を掴み、専用台のピンク色の宝石のついた指輪を春樹さんの薬指にはめ込みながら。
「はい・・春樹さんを私のお婿さんにしてあげます・・私を幸せにしてください、それだけは約束してください」
と、精いっぱいのアドリブを交えてつぶやいたら。くすくすとはにかみながら立ち上がる春樹さん。
「これでいいか・・」と苦笑いな顔で私に言うから。
「これでいいです」と答えたその瞬間。
「コングラッチレィション」って大きな声と拍手が響いて。振り向くとスマホで私たちを撮影しながら拍手を送ってくれる団体の外人さんと。同じようにスマホを向ける人があちこちに・・・。
「えぇぇぇぇぇ」とぼうぜんとする春樹さんに。大勢の拍手がなんだか無茶苦茶恥ずかしいけど嬉しく思っている私。
「ほら、みんなキスするところ待ち構えているてしょ」
というのはさっきの売店のおばさん。そして、本当に撮影を続ける人たちが結構いて。だから。
「はい・・どうぞ・・」と唇を差し出して背伸びした私に、春樹さんは。
「式の日までお預けですよ」と言いながら、また、おでこにチュッとして。やっぱりと思うと、拍手の音も小さくなって、「おめでとー」と言ってくれながら撮影してた人たちも解散し始める。
「おーきゅーとがーる、こんぐらっちれいしょん、うぃーうぃっしゅゆー」ってさっきの外人さんたちも横目でにやにやしながら通り過ぎて。
「はー・・やれやれ」とぼやく春樹さんを。
「いいじゃないですか」となだめると。春樹さんは私をチラッと見つめて。
「これって・・おいくらですか・・」
と店のおばさんに聞いている。だから。
「あ・・別に買ってほしいなんて・・・」言ってないでしょ・・と言おうとしたけど。
「一生の思い出になりそうだから・・・ここで外して帰ると、なんか後悔しそうだし」
と言ってる。そして、おばさんの電卓を見て・・うーわ・・という顔の春樹さん。
「とりあえず・・カードで」
「はーい・・そんな顔しないの、お幸せに、結構安上がりじゃない、ダイヤモンドはもう一つ二つゼロが付くんだから」
と言いながらタグを切り取ってくれるお店のおばさん。
「まぁ・・そうですけどね・・」
少し離れたところから聞こえるその会話と、さっき見た指輪のタグに書かれた値段・・。ごめんなさいといいたいけど・・左手の親指がくねくねといじくっている薬指の指輪の実感に。やったーというか、チョー嬉しいというか、そんな気持ちがごめんなさいという言葉を押しのけてしまっている。そして、手をかざしてみると、本当にかわいくて綺麗な指輪。えーどうしよう・・と顔がほころんで・・。だけど。
「さっきも言ったけど、僕のお嫁さんにって・・少しは本当の気持ちがあるかもしれないけど、ほとんどは冗談と嘘だからな・・」とぼやく春樹さん。
「はぁい・・・」と返事して、少し本当の気持ちがあるだけでもいいんです。可能性があるってことだから。と思ってみる。それに、少しの本当の気持ちは春樹さんが思っているより多いと思う気がする。冗談と嘘だからなって、恥ずかしさを誤魔化しているだけだ。と自分勝手に想像することに変な確信もあるし。それに。
「それじゃ、帰りますか・・」
「はーい」
とりあえず、しばらくの間は、普段の十倍くらい素直になって、おとなしくしていようと思ってみた。つまり、それは、いつもの私に戻りましょうという意味かな。「プロポーズしてください」だなんて・・言ってみるもんだな、とも思う。なんだか本当に心の底から恥ずかしくて嬉しい気持ちがわきあがってくる実感。それは、指輪をげっとしたことではなくて・・少しは本当に私の事好きなんだね・・ってことが確かめられたから。そう・・左手の親指がくねくねといじくる薬指の指輪。そして、春樹さんの左手に連結している右手の指が感じている春樹さんの薬指の指輪。両方をむにゅむにゅといじくり続けると、さっきの言葉が繰り返される。
「少しは本当の事だけど・・僕の好きな美樹・・僕のお嫁さんになってくれませんか・・」少しは本当に私の事好きなんですね・・これが証拠の品ですよ。少しは本当に約束しましたよ。
「私を幸せにしてください、それだけは約束してください」あんなこと、よく言えたね私。誉めてあげる・・。知美さんのセリフだったかな これ・・と思い出して。知美さんと出会っていなければ、私はこんなこと絶対に言えなかっただろうな、という実感がしている。「プロポーズしてください」って、今振り返ってみると、なんておバカなことを言い放ったの私。とも思えて、くすくすと笑ってしまう、一緒に歩く春樹さんの横顔を見上げて、「少しは本当に私の事好きなんですね」 そんなことを思ってみた。そして。「私は、ものすごくたくさん本当に春樹さんの事が好きです」言ってしまいたいけど・・。
「もぉ・・ごそごそすると、くすぐったいでしょ・・」
と、春樹さんは指輪をむにゅむにゅ触っている私の指をぎゅっと握るから、また変な幻滅を感じて言えなくなったんだ。
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