チキンピラフ

片山春樹

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失恋って、こんな気持ちになることなんだね

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 アルバイトが終わったその日のアフター6。いつものたまり場の喫茶店で、いつものお姉さま達が、カップル誕生パーティーを開いてくれた。カップルだなんて言われても・・・という気分のまま、春樹さんの横顔に感じた影が、まだ不安を引きずっていたけど。とりあえず、うれしかった。でも・・恥ずかしかった。そこには春樹さんはいないけど。・・本当に、彼は謎だ・・確か、朝9時にはもう働いていた気がする。そして・・まだ働いてる。そう・・今・・かなり近くに感じ始めた彼の実態を、ものすごく知りたい気分がしてる私。それに・・あの影。でも、・・そんな事は、今は、どうでもいいことにしよう。年上のお姉さま達のおごりだし。アイスクリームにケーキにトロピカルなフルーツ。とにかくここぞとばかりに食えるだけ食うぞ。と言う表現がぴったりなパーティー。本当に、ここをバイトに選んでものすごくよかったと感激してしまう。始めてできた、年上の優しいいたずらな友達。始めて知り合えた年上の異性。そして・・恋人。彼がつぶやいた瞬間を思い出すだけで、ジィィンってしちゃう。
「俺も、美樹ちゃんの事、好き・・」で区切ってから「・・だよ。だって」
と、男声でふざけるみんなが順番に、おしぼりを丸めたマイクを手にする。
「好きだ」
低い声で、じとぉっとた視線で、変わる変わる春樹さんのまねをしてる。そのたびに、ほっぺが赤くなってる事がわかるほどにのぼせ上がっていた。
「美樹、おめでとぉ。よかったね」
「でも、男の子が女の子に好きだって言ってるシーン初めて見たかも」
「あんた言われたことないの?」
「あるけどさー」
「あー、そのあるけどさーってなさそーに聞こえる」
「そういうあんたはどうなのよ・・」
「あんな風に言われたことないなぁ・・」
「なんだか、いいなー美樹は」
「ねぇ、春樹が、美樹に、好きだ・・って言うだなんて信じられないね」
「ほーんと」
もう、だれが何を話しているかなんてわからないし。
「結婚式、招待してよ」は、美里さん。
「子供は何人作る気なの」も。そして。
「つけずにやっちゃだめだからね」と優子さん
「くくく・・今日はやめましょ、その話」と奈菜江さん
「ちゃんと、つけるのよ・・」もう一度、優子さん
「本当に、あの人がつけずにやりたがったら蹴っ飛ばしなさいよ」は美里さんだ
「そーそー・・好きだなんて言われた後だからって、気を抜いたら駄目だからね」
と、からかってるのか、本気なのか、どう返事していいかわからない会話がずっと続いて。ただ、うんうん・・ううんううん・・と首を縦か横に振るだけの私。そんな きゃい きゃい と言っているうちに1時間ほど過ぎて。甘いもの全部食べつくして、やっと解放されたのは、7時半ころ。
「ばいばいまたね、がんばってね」と優子さん。
「それじゃ、期末テスト、しっかりしてね、美樹が帰ってくること、信じてるからね」と奈菜江さん。
「うん・・絶対、帰ってきます」と私。
「じゃ、頑張って、テストも。春樹さんとのことも」
「はい」
と、みんなと代わる代わるグータッチして手を振ったとき、うれしすぎて顔がゆがみきっていた。

その夜・・例のハウツー本・・かなり真剣に読んでしまった・・「好きだ」と言われた後の返答集。
「私もよ・・・。ホントっ? うれしい・・だけど・・一番効果的なのがこれ。抱きつく時は、胸を押しつける事。脚を巻き付けるように絡ませる事。腕の力だけでかわいく胸に顔を埋めて抱きつく事はタブー?」
どうしてだろう・・・。
「ほっぺを押しつけると、キスへのタイミングを逃してしまう? 胸を押しつけるように、顔をあげたまま抱きつけば、スムーズにキスへと進行できるはず? キスから先へは神様が導いてくれる?」
本当だろうか? 朗読しながら、枕で練習までしてしまった・・・。キスってこんな感じかな? ちゅっ・・いつか本当のあの人と、ちゅって、しちゃうのかなと思うと、かなり真剣に・・・なってしまって。

 学校に行くと、どことなく、友達の視線が気になってしまう。春樹さんに・・好きだ・・なんて言われてしまったこと。むちゃくちゃ隠していたいのに・・ものすごく自慢したい気分。誰か聞いてくれないかなぁ・・と、思うのに・・絶対そんなこと聞かないでよ・・と、思っている。でも・・・。
「どしたの美樹? ぼぉっとしちゃって、なにか考え事?」
「えっ・・うん・・」
と、返事して、彼に好きだって言われちゃったの。と、思った瞬間目が合った、となりの娘。
「バイトはどんな具合? よく続くよねぇ、あそこって仕事きついんでしょ。時給も少ないってゆうしぃ」
といわれても、「まぁ、・・ね」という返事もなんだか、顔がにやけてしまって。
「なにそのにやけた顔、あ~っ!!・・すてきな出逢いがあったんだ?」
「えっ・・うん・・まぁ、・・ね」
と、返事して、そうなのよ出逢ってしまったの、と、思った瞬間目が合った、オオゲサに驚く前に座る娘。
「うそっ・・ホントにあったの、出逢いが?」
と、後ろから、衿をつかまれて。・・しまった・・。のろけすぎて、心の扉がだらしなく開いていた。と、思った瞬間目があった後ろの娘。
「えぇぇ。ホントに、彼氏・・できちゃったの? 美樹にぃ~? うっそぉ~信じられない」
と、信じられないくらいにハヤトチリな斜め前の娘。まだ・・・そんなじゃない・・ただ、好きだって・・言われただけ・・と、言い出すタイミングはどこかへ消えてしまったようだ。らんらんな視線が身をすくませる。だから・・
「・・えっ・・うん・・でも・・」
としか言えなくなってしまった。けど・・それ以上はなにも白状したくないし・・。心の扉、慌ててバタンと閉めたけど・・。そんな話は、私にお構いなしでどんどん膨らんでゆくし。
「どんな人なの? 優しい人? かっこいい人? すてきな人? 頭いいの? 大学生? おない年? 年下? 男? 女? 日本人? どこの国の人? 地球人? どこの星から来てる人? M何星雲? 背は高い? 逞しい? 歌上手? 料理とか作ってくれるの? もうしちゃったの? どこまで進んだの? 優しくしてくれた? どうだった? 痛くなかった? 感じた? 気持ちよかったの?」
「えぇぇ~なになに、どしたの?」
「あのねぇ~・・・」
「うそっ・・美樹に?」
「どんな彼氏なの?」そして、エンドレスな質問の嵐。どこまで勝手に膨らんでゆくのよ・・。
なんでみんな、ぞろぞろ集まってくんのよ・・ったく。そんなじゃない・・でも。きょろきょろして、うれしいような・・恥ずかしいような・・そんな気持ちもする。でも。みんなの興味津々な目付き・・。まだ増え続けてる質問、すべてを白状し尽くすまで、絶対に解放してくれそうにない友達達。その顔が鬼に見えてしまった。それに、すべての質問におどおどと無意識にうなずいていた私。学校が終わっても質問攻めをやめてくれない友達。喫茶店に私を無理矢理ひきずって・・拉致されてしまった。でも、その場を離れる事がどうしてもできなかった理由。友達が勝手に想像してる春樹さん。彼が宇宙人ではない事をどうしても信じてくれなかったから。私の説明が下手だったから、かもしれないけど。彼の事を話すなんて私にはとてもできやしないし。友達達の勝手な想像をとにかく、「そんな人じゃない」と、すべて否定したくて、その場を離れられなくなっていたんだと思う。店の外が暗くなってることに気づいて、時間を確かめようと鞄の中の携帯電話・・のぞいた瞬間・・ぎょっとした。どうしよ・・スイッチをいれること忘れていた・・それに、今ここで携帯電話を出したら、何が起こるかわからない気がする。ちらっと向こうの時計を見た瞬間、血の気が失せた。家に帰るのがものすごく恐くなった。まだ・・お母さんを説得できてない。それに、待ち合わせた運命の時間、それは、1時間も前に過ぎてしまってる。春樹さん・・本当に家に来たのだろうか。お母さんに無下に追い払われたりしたら・・。急にものすごく不安になってしまった。だから・・。
「わたし・・用があるから」
と、意を決して席をたったけど。みんなの大合唱。
「用って、これからえっちなデートぉ~。いいなぁ。らぶらぶぅ~。してもいいのよ朝帰りぃ~。美樹ぃ~ん・・なぁ~いいだろうぉ。あぁん、優しくしてぇ~ん」
「ちがうぅ~。そんなじゃないぃ~」
結局、家におそるおそる帰り付けたのは、・・・信じられないけど・・必死で自転車こいだのに・・7時半を少しすぎた頃。なんでこんな時間になっちゃったの? 絶対に携帯電話の時計が進んでいるのだと信じたのに・・はぁはぁと息を切らせながら見つめたガレージには、台所の光をなめらかな曲線に帯びた、あの、大きな真っ黒のオートバイが止まっていた。HARUKI・KATATAMA。そのアルファベットが台所の明かりに照らさせて、はっきり見えたから・・ごくっと・・息が止まって、立ちすくんでしまった・・。その時。
「ぎゃはははは、やっだぁ~ハルキさん。そうなのぉ~。バシバシドンドン」
と、お母さんのいつもの大きな笑い声。いつものテーブルをたたく音。台所の明かりがいつもよりずっと明るく見えて。そぉっと玄関をあけたら、いつもより一足、靴が多い。それも・・大きな汚いブーツ。ぎょっ!! これって・・春樹さんのブーツ・・だ・・でも・・春樹さん・・本当にここにいるの? 心の中で、そうつぶやいた瞬間。台所のドアがゆっくりあいた。笑ってるお父さんがノブに手をかけたまま、私をにやにやと見ていた。
「よっ、美樹。なにやってたんだよ。カレシが待ちくたびれてるぞ。カレシが。うちの娘に手ぇ出したカレシがー」
「お父さん、人聞き悪いでしょそんな言い方。せめて、うちの娘が唾つけたくらいにしてよ」
って言うお母さんも・・・。頭の中が真っ白になった・・いったい・・何事? なの?
「美樹。お帰り、なにしてたの? 春樹さん、待ちくたびれて、ゲキドしてるよ、どうなってもお母さんはしらないけど」
異次元に迷い込んだかと思った。そぉっと奥を覗いたら。春樹さんが本当にいた。お父さんと一緒、ビールを片手に・・・真っ赤な顔。それに、絶対怒ってる。赤い顔が・・むすっとしてる。そんな顔が。
「なにしてたんだよ、夜遊びか」
と身がすくみそうな声を出した。そして、お母さんの声は・・はっきり聞き取れなかった。
「ったく。春樹さんも大事な人を待たせているんだから。あんたも約束した時間くらいは守りなさいよ」
「・・えっ?・・」
「今から勉強するか? 今日は11時には帰らなきゃならないんだけど」
「・・えっ?・・」
「ささっ、お勉強、お勉強。お菓子とお茶は用意してませんけど、後で持って行きますからねぇ、春樹さん」
「・・えっ?・・」
「美樹、しっかり教えてもらうんだぞ!」
「・・えっ・・?」
春樹さんと私、お母さんに背中を押されるまま階段を上がって、私の部屋に入った。全然わからない、いったい何が起こってるの? にやにやしてるお母さんが、
「それじゃ、ごゆっくり」と言った。
「・・えっ・・?」と思ったら。
ぱたんとあっけなく閉まったドア。突然真っ暗になって。その瞬間、振り返ったら・・春樹さんの胸に・・顔がごつんと当たって、ぎょっと、我に帰った。はっと顔をあげると、月明かりが差し込む私の部屋の中、二人っきりになってしまった私と春樹さん、嗅いだこともない男の人の匂いが微かにする。お酒の匂い? それに、春樹さん、いつもと違う恐そうな顔してる。私は、息を大きく吸い込んだまま、呼吸と心臓、いっぺんに止めてしまった。背筋がビシッと伸びた。ビタンと壁に張り付いてしまった。おろおろと後ずさって・・「きゃん」と・・ベットにつまずいて、ばふっと仰向けに倒れ込んでしまった。見ると春樹さんは、月明かりに照らされた長身が、そびえ立つような威圧的なシルエット。それに、まだ恐い顔で私を見つめてる。気がする。そして、ごそごそ・・と、上着をぬいでる??・・・・これって絶対・・あのシーン。いつか、おふざけで見たアダルトビデオ、こんなシーンがあった気がする。暗闇の中ベットに縛られた女の子。その前で服を脱ぐいやらしそうな男の人・・。例の恥ずかしい、恋のハウツー本にも・・このシーンの写真があった。ゆったりと服を脱ぐ彼をせかせてはいけない。震えてることをアピールしながら待ってみよう、演技でもいいから・・と、写真の下に書いてた気がする。だから、えっちな予感が頭の中で「あぁん」「あぁん」って音をたて始めた。ぎょっ!・・・私一体何を想像してんのよ・・。自分のしてる想像が恐くなって、体中が、じたばた震えてしまった。必死で足をじたばた漕ぐけど、どこにも引っかかる所がなくて。逃げることができないし。絶対駄目・・絶対イヤ。こんなのあんまり唐突すぎる。心の準備くらいはさせてくれるよね。春樹さん、絶対優しくしてくれるよね。あの時のビデオみたいな乱暴なんて絶対いやだ。服を乱暴にやぶられるなんて・・手足を無理矢理縛られるなんて、鞭でお尻を叩かれるなんて絶対イヤ・・。例の本も私しっかり覚えた訳じゃないんだし。どうしていいかなんて全然わからないのに・・でも・・本当にしてしまうなら、もっとロマンチックなシーンにしてほしい。私、いつか見た、映画みたいなのがいい。霞のかかった中で抱き合うやつ。あれにして。あの映画みたいな、女の子の方から彼をベットにそぉっと導くやつ。服も、背中の方から、優しく、首筋にキスしながら・・ぎこちなくゆっくり脱がせてほしい。相手が春樹さんなら、私はいい。そう思うけど。そんな覚悟はできてると思うけど、だけど・・、本当に・・優しくしてくれるよね、絶対優しく・・ぎこちなく・・してくれるよね。何度も愛してるって言いながら、キスも目をつぶって、いきなり私の素肌を乱暴に触ったりしないよね。おっぱいを乱暴に鷲掴みなんてしないよね、お尻もそぉと優しく撫でるように触ってくれるよね。私・・昨日練習したの・・もう一度好きだって言って。そしたら・・初めてのキスへ自然と導ける返事もできると思うから。でも・・今の私って、絶対、汗くさいし。さっきハンバーガー食べたばかりだから息も・・それに・・下には両親がいるし。それに・・春樹さん・・私・・はじめてだし。そんな経験なんて全然ないし。まだ・・キスだって・・誰ともしたことない17才の高校2年生なんだよ・・。
「何やってんの?」
「・・えっ・・?」
部屋の明かりを付けた春樹さんは、明るくなった部屋。椅子に上着を掛けながら、本当はさっきからうんざりな顔してたようだ。
「はぁー、もお、電話はつながらないし、両親にも黙ってたんだろ。玄関開けたら、お母さんがびっくりしてたぞ。俺ってB型だから、性格悪いんだぞ・・ったくもう・・少しお酒も飲んでるし」
ぶつぶつ言ってる。だから・・突然冷静になってしまった。とりあえず・・恐そうな顔してるから・・ごめんなさい・・と、言いたい。けど、よく見ると、私・・制服のまま、腕を広げて・・おへそまではだけてる上着・・ふとももまで捲れてるスカート。背けた顔を隠してる髪、唇かんで・・流し目で・・例の・・ねぇ・・来て・・なポーズで止まっている・・みたいだ。でも、そのことに気がついても体は全然動かないし・・。
「俺はそんなつもりじゃないよ。それって、うれしいけど・・ったくもぉ・・見えてるぞ、パンツ。白いの。いいのか、じぃぃっと見てても。もうじぃぃっと見てるけど。ムラムラし始めてるけど、触りたくなってるけど」
と、戸惑いの色を忍ばせて、じぃぃぃっと見つめてる春樹さんの視線その先に。じたばたしたまま止まってた脚・・は、片方が膝を折ったまま起きて・・しかも・・もう片方は、ぱかぁーんっと・・その・・全開・・だから・・。
やぁっ・・と叫んだ後はどうしたか、全然記憶になかった。気がついたら、いもむしみたいな姿勢で、お布団にくるまってた。
「やる気あるの?」
と、まだうんざりしてる春樹さんに気づいたとき。私はまだ、「なにを?」と、その言葉の意味を変に受けとめていた。
「勉強・・しないのか?」
勉強って・・なんの・・勉強? ・・・・・。ぎょっ!
意味がわかって・・気づいたこと。私が勝手に想像してたこと、それは、恥ずかしいなんて気持ちはとっくに通り越して。ほとんど気絶的な想像だった。ものすごくはしたない気がした。乙女の清い心を泥だらけにしてしまってる自分自身に感じた嫌悪感。だから・・こんな気持ちで勉強なんて、できるはずない。でも。
「学校じゃ、今、なにを習ってるんだ?」
と、私の鞄を無造作に開けようとする春樹さん。あわててベットから跳ね起きて、奪い取ったけど。
「見せてくれなきゃわからないでしょうが」
と、まだ顔が恐いから、おそるおそる鞄を開けて・・
「うん・・こんなことを勉強してる」
と、声を震わせながら見せたノート。広げた瞬間、現れた文字は・・HARUKI・・それをじっと見つめた春樹さん。
「おっ・・HARUKIブランド」
なんて言って、ノートを奪おうとしたから。ひぃっと叫んだ私。ノートをばたんと閉じて。取り戻そうとしたのに、春樹さんは手を離してくれない。ノートの綱引きしながら、わなわなと震えてしまった。それに、いつそんなこと書いたかもわからない、裏表紙の愛々傘。そこにもHARUKI。美樹。だなんて・・。ハートで囲まれてるし。それもピンクの色まで塗られて、キューピットの矢まで、それにはLOVEって文字が・・・。そのとき、ノートを見つめたまま、ようやくいつもの笑顔を見せてくれた春樹さん。でも・・私は気絶しそうな意識のまま、必死の、力任せになった足で、鞄をベットの下に押し込んでた。もう・・押し込めるスペースなんてどこにもなかったけど。

本当に勉強どころじゃない。
「美樹ちゃん、俺のこと好きか?」
それが、私が机に向かってから、春樹さんの最初の声。それも、耳から10センチ程しか離れていないところから聞こえた声。心臓が跳ねて、心の中では うん とうなずいているのに。
「・・なっ・・何ですか急に」
と言う声にしかならなかった。
「えっ・・うん・・美樹ちゃん、俺のこと好きなのかなぁって、俺、自分勝手な想像してるけど、そのこと、確かめたくて。そういう事って、聞かなきゃわからないだろ」
そう言われて、顔を見る勇気なんて全然ないし、声だけを頼りに想像するけど、春樹さんは、今、どんな顔でそう言ったのだろう。不安な気持ちが少し。だから・・「・・好きです・・大好きです」と、心の中で力の限り叫んでいるのに、口からは。
「・・別に・・」
と、違う音が出た。心臓までもがぶるぶる震えてる。春樹さんは、いったい何を言い出したいのか、全然予想もできないし、予感も感じない。
「そうかぁ・・だったら、言いやすいんだけどな」
それは、私の予想とは全然ちがう、ものすごく落ちついた声だった。心臓がもっと跳ねた。そして、止まりかけた。なにを? と心の中で訊ねたのに。声にするつもりの脳からの指令は、神経の道を間違えて、視線だけをそぉっと春樹さんに向けてしまう。
「美樹ちゃん・・俺。美樹ちゃんのことを本当に好きだと思ってる。昨日言ったことは本当。だけど、よく聞いて。・・俺には美樹ちゃんの知らない恋人がいる。それだけは早めに言っておこうと思って」
しっかりと聞き取れたし、意味も理解できている。でも、その意味、噛みしめれば噛みしめるほどに、空から隕石が落ちてきた気がして。目の前で富士山が爆発した気がして。エレベーターに乗ったときみたいな無重力な感覚も・・。奇怪な模様のトンネルを、ぐるぐる回りながら、ものすごい早さでくぐってるようなのも・・。
「知美って名前の、美樹ちゃんにも負けないくらいきれいな、俺より2つ年上の女性。昨日はそのこと言える雰囲気じゃなかったろ。それに、そのことを話したら、美樹ちゃん、また泣き出すかと勝手なこと想像しちゃって・・黙ってたんだけど。でも・・本当に美樹ちゃんのことは、俺、好きだと思ってる。ほっとけない妹を想うような気持ちなのかな、これって。そんな感じ」
シャープペンの芯が、とん・・と微かな音をたてて折れた。でも、かちかちなんてできるわけない。
「安心したか? だから、美樹ちゃんに勉強教えてあげたい気持ちには、下心なんてないし。恋人がいるから、手出しなんてできないから。それに・・・さっき・・・、美樹ちゃんになら誘われてみたい気もするけど・・誘惑なんてしてはいけません。俺は恋人を裏切るなんてこと、できない男だし、こんなかわいい娘だから無理矢理な手出しもしたくなるけど・・美樹ちゃんのような大切な女の子には、いい加減なこと、しにくいから」
その言葉は、どっちかわからない絶対なにか誤解してる言葉だけど、そんなことより・・そうなんだ・・と思う気持ちが私を絶望の淵に追い込んでいる。さっきまであんなにドキドキしていた心臓が止まっているような錯覚と震えもしない体、乱れもしない止まってしまったような呼吸。ただ、頭の中で・・そうなんだ・・を繰り返してる。そうなんだ・・春樹さんには恋人がいるんだ・・そうなんだ。
「でも・・美樹ちゃんって見かけに依らず大胆なんだね。どきどきしちゃった。ちょっとその気になりかけちゃった」
何をぶつぶつ言い出すのだろう。
「俺に知美がいなかったら、理性をなくしてたかもしれない」
ともみって・・だれ?
「・・脚すっごく綺麗だった・・かわいいおへそも、白いパンツもみちゃった・・ははは・・綺麗なんだな美樹ちゃんの素肌って。透き通ってた。目に焼き付いたよ。あれが17歳なんだなぁ。写真撮っとけば良かった。撮らせてくれない? もう一度してよ、さっきの、太もも全開で、どうぞって感じ」
さっきの恥ずかしい私を想像して、ものすごくしつこくぶつぶつにやにや言う春樹さん。そして、・・ははは・・と、力なく笑ってる春樹さん。でも、私はそんな女じゃない・・そう言いたいけど。振り向くなんて絶対できそうにない。どんな言葉も思いつかない。それに、春樹さん、恋人がいることを言いたくて、私の帰りを待っていたのだろうか。そんな気もする。机の上の教科書。肩ごしからページをめくる春樹さんの手。見つめてしまう。まだ、そうなんだ・・と、繰り返しながら。
「まぁ・・冗談はそのくらいにして・・いま・・どの辺を習ってるんだ」
それは、数学の教科書だと思う。でも・・。まだ・・そうなんだ・・そう繰り返してる、頭の中、それ以外の何もかもをせき止めてる。そうしていると春樹さんがものすごく近くで、くすっと笑った。
「落書きだらけですね・・」と言いながら。そして、「まったく・・ふぅぅー」んと、鼻息のため息。
その息がほっぺを撫でた。その瞬間、彼と初めて言葉を交わしたシーンを思い出した。
「もっと強くならなきゃ、人生、長いんだから」
あの時を思い出してしまう。ほっぺを撫でる彼の吐息。
「美樹ちゃん」
私の名前を呼ぶ声、少し遠くに聞こえた。そおっと振り向いた。春樹さん、少し離れたところからくすくす笑ってる。そっと肩をつかんでくれた。こもる力が心地いい・・。でも・・。
「どうかした? 変な期待して損したような顔だな。本当に何か期待してたの?」
ううん・・そう首を振った瞬間。私を制御していた理性が入れ替わった。私じゃない私が、私の思考を制御し始めた。それは、震えてる私の声だけど、私が言ってる言葉じゃない・・。なんども息を吸い込みながら・・。
「そうなんだ・・良かった。春樹さんに恋人がいなかったら、私、どうしようかと思ってた。だって。この部屋に男の人・・こんな時間に入れるだなんて・・絶対誤解されそうだもん。それに、私そんな女の子じゃないし。春樹さんのこと好きだけど・・私も、お兄さんができたみたいって・・ずっと、そんな気持ちだったし。よかった・・恋人やっぱりいたんだ・・好きだって言われて・・どうしようか迷ったもん」
こんな言葉、絶対私の声じゃないって思うのに。どうしてこんな言い訳、べらべらしゃべるの私。こんなにたくさんのセリフなんて今までしゃべったことなんてないくらいなのに。それに、ずっと気になってた、春樹さんの横顔に見えた影。そんなことも思い出してしまうと、やっぱりそうだったんだ・・ばかりが、何度もこだましてる。春樹さん、私がうわの空で言った、早口な言葉、しっかりと聞き取ってくれたみたい。だから。くすっと笑ったんだ。そして、優しい力で肩をもむ手、そのまま、ほっぺにかかる髪をすく人差し指が優しく触れたからだと思う。強くなれた・・強気になれた・・ものすごく。そんな自覚はあるけど、こんなセリフをしゃべっている私は私ではない気がする。
「あたし・・安心した。勉強教えてもらっても、私は何もしてあげなくていいんだよね。私のお給料なんて少ないし」
「春樹さんが私をほしがったらどうしようかと思った」・・とは、言えなかった。一瞬、用意したけど・・そんな言葉を用意した私自身が、すごく恥ずかしい。だから。
「えへへへへ・・」
と、力なく笑うと、きょとんとした春樹さん。ぷぷぷって笑い始めた。
「ああ、なにもいらないよ。ただ、美樹ちゃんがバイトやめたら、チキンピラフ、誰も食べてくれないし。あれは、さんざん苦労してつくった俺の自信作だから。いつも喜んで食べてくれる娘がこんなにかわいいから、俺もうれしいし。本当に・・美樹ちゃんがバイト辞めたら、俺の生きがい、なくなってしまう」
肩を柔らかく掴む春樹さんの手が、ものすごくくすぐったい。気持ちいい・・ものすごくうれしい・・春樹さんの声はものすごく優しい。だけど・・やっぱりまだ・・そうなんだ・・恋人がいるんだ・・ばかりがぐるぐるしてる。
「さっ・・今、何を習ってる?」
適当に指さした問題。春樹さんの声がものすごく遠くに聞こえる。勉強を教えてもらってるんじゃないな。私は今、春樹さんに・・泣くことをがまんする方法を教えてもらってるのかな。泣きたい気持ちを感じているけど、泣く気になれないのは、そうなんだ・・がまだぐるぐるしているから?
「この問題はねぇ・・・こんな公式、教わったでしょ・・だから・・こうして・・この数字を・・マイナス・・符号が変わって・・こうなって、だから・・」
小さな声がぶつぶつ遠くに聞こえる。すらすらと解いてくれる春樹さん。ノートの上をはしるシャープペン、じっと見つめてしまう。頭の中、まだ、そうだったんだ・・ばかりがぐるぐるしてる。知らないうちにいくつもの問題を解いてくれた春樹さん。ノートにすらすらと問題を解いてゆくシャープペンが走る跡を追うだけの私。ふとシャープペンが止まって、春樹さんは今までとは違う仕草をした。振り向くと、時計を見ていた。そして。
「もう・・時間かな。じゃっ・・そろそろ帰るよ。酔いも醒めたし」
と、つぶやいた瞬間、私の目が醒めた気がした。
「えっ・・もう?」
と、聞いてしまった。
「うん・・俺の門限、12時なんだ。知美には訳を話してるけど・・あいつ、美樹ちゃんに嫉妬してるみたい。12時過ぎたら鍵かけてやる・・どげさしても開けてやらないからね・・って。すっごい顔してた」
そう言いながらのろけてる春樹さんを見つめて、はっと直感したこと・・門限? 12時?・・鍵かける?・・恋人が待ってる?・・一緒に暮らしてるの?・・同棲・・してるんだ・・その言葉・・意味は知ってる。でも、恐すぎる意味だと感じた。
「じゃ・・またな、また明日」
と、上着を着る春樹さん。黙ったまま、無意識のまま、玄関まで見送りに、後をつけてしまう。
お母さんが「あら・・もうお帰り?」って言ってる。
「ええ、お邪魔しました」
「朝までゆっくりしていってもいいのに・・ごめんなさいね、なにも用意してなくて」
お母さんの声は、すっごくわざとらしいと思う。振り返って、ヘルメットと手袋を取るお母さん。でも。少し恥ずかしそうな仕草でヘルメツトと手袋を受け取る春樹さん。
「いえ・・いいんです」
と、言いながらぽりぽりしてる。
「あぁ~・・恋人がうるさいんでしょぉ~。うるさいだろうなぁ。こんなにいい男だし。こんな小娘、相手にならないのにね」
「いえ・・。美樹ちゃん・・かわいいし、あまり遅くなると・・。それじゃ・・またな。美樹」
お母さんがそんなことを言ったからだろうか・・。私のおでこをちょんとつついて恥ずかしがってる春樹さん。慌てた仕草でブーツを履く春樹さん。逃げ出すような春樹さん。恋人が待っているから・・こんなに・・急いでるんのかな。そんな直感。そして、ちゃんのつかない私の名前。ちゃんをつけてくれれば、なにか一言、言えたと思う。ちゃんがつかなかったから、また言葉に詰まったんだ。
「遅くまで、本当に、お邪魔しました。・・じゃぁな美樹、また明日、学校まじめに行けよ。夜遊びするなよ。テストが終わるまで」
と、出てゆく春樹さん。
「またいらしてねぇ~」
と、手を振るお母さん。いつものウインクしてる春樹さんの残像。私は、小さくてもいいから手を振ろうとした、ぎこちなくてもいいからうなずこうとした。それなのに、体が硬直した理由。また、ちゃんをつけてくれなかった。そういえば、バイトのみんなの名前にもちゃんをつけないな・・。そうなんだ、変な意識して損しちゃった。私も、みんなと同じ存在なんだ。好きだって言ったのは、嫌いじゃないよって意味なんだ。それでも必死のつもりで見送ろうと玄関を出ると、ヘルメットをかぶっている春樹さん。私には見向きもしないでオートバイにまたがり、大きなエンジンの音がおなかに響く。ちらっとだけ私と目が合った春樹さん。眼だけでほほ笑んで、親指を立てる仕草がかっこいい。そして、私がまた、うん、とうなずいたら、カチャンという音がして、オートバイは一瞬で遠ざかってしまった。玄関に戻ると。
「ふううう」
と、ため息をはくお母さんが私に言う。
「ったく。美樹。あんなにいい人がくるんだったら、前もって言ってよ。ったくもぉ、おもてなし、なにもできなかったじゃない」
それは、むちゃくちゃ無責任な言葉、昨日は「追い返してやるっ」て言ってたくせに、と思う。
「本当にいい人だねぇ。ワセダのロケットハカセなんて初めてみちゃった。お父さんとも気があっちゃって。あんな人が美樹のお婿さんになってくれたらいいのにね」
むちゃくちゃ無責任な言葉、その2だ。お父さんもどうして初対面であんなに気が合うのよ。
「あっ・・そうだ、コックさんなんでしょ。明日も来るんでしょ。期末テストが終わるまでって言ってたよね。明日は・・なにかお料理でも作ってもらおうかしら」
無責任な言葉、その3、を楽しそうに話すお母さんに、いらいらしてしまう感情を感じてしまう。
「でも・・残念だったね、美樹。春樹さん。恋人がいるんだって。まぁ最初にそのことを言ってくれたから。お母さんもこんなに安心して、美樹の部屋に上がってもらえたんだと思うけど」
春樹さん。恋人がいること、お母さんにも話したんだ。頭の中。今度は・・残念だったね・・がこだましはじめた。残念だったね・・残念だったね・・って。
「美樹ちゃん、たぶん何も話してないでしょう。美樹ちゃんかわいいから、突然おじゃまして、驚いたでしょうけど、ぼくには恋人がいますから。どうか安心してください。下心なんてないと言えば嘘ですけど、ただ、美樹ちゃんの成績、悪くしたら僕も責任を感じてしまうから、期末テストが終わるまで、勉強教えてあげたいから、部屋に上がらせてもらえませんか?」
それは、お母さんの声だけど、耳元で、春樹さんが喋っているかのような錯覚。だから・・。はっと振り返ると。お母さん。にこにこしたまま。
「・・・だってさ。あんなにまじめな顔で、爽やかにものが言える人って素敵だよねぇ。一目見て、いっぺんで信用できちゃったもん。それに、何も欲しいものなんてありませんし・・って。それが一番信用できるセリフだったかなぁ」
って・・・。本当に春樹さんがそう言ったんだ。まだ信じられないのに・・本当に恋人がいるんだ・・残念だったね・・って、まだ頭の中ぐるぐると やまびこ のように響いている。本当なんだ・・春樹さんには・・本当に私の知らない恋人がいて・・だから・・これ以上我慢できなくなったんだ。
「どうしたの美樹」
と、言われて気がついた。床に落ちる涙の音。ぽたっ・・ぽたっ・・って。
「美樹・・泣いてるの?・・なに泣いてるのよ・・・やっぱり・・あの春樹さんがお目当ての人だったの? 好きだったの? お母さん・・なにか悪いこと言った?」
だから、もっと涙があふれてしまう。お母さんの笑みを浮かべた顔。
「・・ひょっとして・・失恋・・した?・・の?」
そういわれるまで、この感情が何なのかわからなかった・・。小さく首を振って、小さくうなずいて、本当にもうこれ以上我慢しきれなくなった。お母さんに抱きついてしまう。泣き声も、涙も。どうすれは止められるかわからない。おなかの底からあふれ出してくる悲しい気持ち。それに、お母さん。優しく慰めてくれる手。私の頭を撫でてくれる手が本当に優しいから。もっと、もっと、涙も泣き声も・・本当に止まらないよ。これが、失恋したときの気持ちなんだなって・・春樹さん、恋人がいるんだなって。なんでこんなに悲しくなっちゃうんだろう。出会って日から、ずっと毎日、片想いし続けてた人に恋人がいる・・それだけなのに・・どうしてこんなに悲しいんだろう。
「美樹ぃ~。そうだったんだ。アルバイト、よく続くなぁって思ってたの。美樹にも根性みたいなものがあるんだなぁって感心してた。そうだったんだね。・・そうだったんだ・・でも、美樹って見る目あるんだね。あんなにすてきな人、見分けられるんだから、自分に自信もちなさいよ。春樹さん、また、明日も来てくれるんだから。嫌われたわけじゃないんだし、ね」
「・・うん・・」
うなずいて、涙が止まったのは、お母さんのセリフのせい。
「もっと強くならなきゃ、人生長いんだし。それに、泣き虫な女の子は嫌われちゃうぞ。しかたないよ、美樹より先に彼を捕まえちゃった女の子がいるんだから。その人を愛してるんだから。でも・・美樹のこと、好きだって言ってたよ。かわいいって言ってた。それでもいいじゃん、素敵なお兄さんができたみたいで」
「・・・・うん・・・」
それは、春樹さんが言ったのと同じセリフが混じってた。だから・・泣きやめたのだと思う。顔をあげたとき。
「もう泣きやめたの?」
と、唖然とした顔で聞いたお母さん。うなずいたら。
「なんだ・・大したことないの? ったく・・心配したでしょうが・・でも・・そんな経験積んで強くなるんだよ・・女の子は」
大したことない・・ことはないけど・・ほっぺの涙を親指の先で拭ってくれるお母さん。うなずいた後。どうしてかはわからないけど、ほっぺを撫でられると、私は強気になれるみたい。私がつぶやいた言葉。
「あした・・春樹さんが来ても、私が泣いてたこと・・話しちゃ駄目だよ」
お母さんはくすくす笑いながら、はいはいと返事してくれた。

 遅い夕飯を少しだけ食べた。余り食欲がわかない。お風呂に入って、思い出した春樹さんの声。
「お風呂にも入るし、パジャマにも着替えるし」
本当だ・・くすくす笑ってしまう。女の子のこと、よく知ってるんだなぁ。・・あたりまえか・・お風呂も、パジャマも・・あたりまえだよ。そうとも思える。それに。男の人に門限があるだなんて・・。本当に恋人がいて、一緒に暮らしてるんだな。その想像は、私をまた黙らせてしまった。パジャマを着て。髪をといて、ふと、無意識に、ヘルスメーターに乗ったとき、びくっと数字が跳ねた・・ぎょっ! としてしまった。数字が震えてる・・気持ちを落ちつけようとしたら・・ゆっくり止まった数字・・信じられない・・我が目を疑うとはこのことだ。その一瞬がすべての悩み事を吹き飛ばして、思わず目をごしごしこすってしまった・・ごっ・・51kg!えぇぇぇぇ・・は・・は・・8Kgも増えてるじゃない?・・。ダイエットしなきゃ・・。ダイエットしなきゃ・・そう繰り返しながら、もう一度確かめたけど、数字はやっぱり、51Kg・・・・放心状態で歯を磨いて、洗面所の明かりを消した。振り返ると、いつのまにか居間の明かりも消えている。もう・・12時か・・春樹さん・・今ごろ・・知美さんと・・そんな想像をぶるぶると頭を振って振り飛ばしてみる。両親を起こさないように、そぉっと部屋に上がった。部屋には、春樹さんの匂いがまだ残っていた。くんくんと嗅で、ベッドに仰向けになると思い出してしまうこと。
「ねぇ・・来て・・」
つぶやいた一言。両手と両足をおしげもなく広げてる自分に気づいたとき、はっとして・・むちゃくちゃ恥ずかしくなった。つい、枕を抱き寄せて顔を埋めてしまう。なぜか、くくくくっと笑ってしまった。生まれて初めての恋、そして失恋。したばかりの夜更けなのに・・。でも、顔をあげて、冷静に考えると、この失恋はものすごく綺麗な失恋だったと思う。映画でもドラマでも、こんな失恋なんて見たことがないと思う。本当に失恋なんだろうか・・。春樹さんは明日もここに来てくれる。捨てられたわけじゃないし、嫌われたわけじゃない。そうだよ。失恋って言っても、春樹さんは私のこと、好きなんだから。確かにそう言ってくれた。美樹ちゃんのこと好きだよ。妹を想うような気持ちなのかな・・安心したか? それだけでも十分だとも思える。ただ、彼には恋人がいただけだし、・・・。いてもいいじゃん。あんなにすてきな人なんだから、いない方がおかしい。ぶつぶつ考えていると、ほっと落ちついてしまう。不思議な気分だな。また、両手を広げて。
「ねぇ・・優しくして・・」・・あれっ?・・ちがった。
「ねぇ・・抱いて・・」・・えっ? どっちだっけ?
「ねぇ・・お願い・・」・・でもないな・・。
「ねぇ・・来て・・」・・だったかな?
夜遅くまで・・・枕を相手に、結構、一生懸命だった気がする。
 朝、そんな練習をしてる夢を見てたことを思い出して、恥ずかしくなった。でも・・昨日の出来事は本当に・・どこまでが夢だったのだろうか? 
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