132 / 201
外伝 - 第三章 龍姫と賢帝の雛
三章三節 - 龍姫と雛
しおりを挟む
「あの……。ご迷惑なら、今日はもう帰りますから」
勇気を振り絞って、長い髪の流れる背中に話しかけた。きっとそれが一番争いなく事態を治められる。
「姫様が遠慮されることは何もありません」
しかし、少年は青年と話していたのとは違う丁寧な口調で否を唱えた。
「いえ、今日は帰りたいので」
与羽は強く首を振った。心が乱れていて、今日はこれ以上稽古する気になれない。
「そうですか……。それならば、城までお送りしますよ。わたしも城にやり残した仕事がありますし」
少年は与羽を安心させるように笑みを見せた。しかし、その笑みをすぐに消し、青年を振り返る。
「ことを荒立てない姫様の慈悲に感謝するんだな」
どれだけ罵倒されても、怒りを向けられても、彼の余裕に満ちた物腰は崩れない。
「お前!」
怒り狂って叫ぶ相手とは大違いだ。大きな怒鳴り声に、少年は再びため息をついた。
「お前のために名乗っておいてやる。俺は中州国文官第三十五位、水月絡柳」
硬い口調で言いながら懐から出した青い玉は、確かに中州国の上級文官を示すものだった。
「今年は俺が官吏登用試験の担当じゃなくて良かったな。官吏には忠誠心も問われる。城主一族にあれだけの暴言を吐いた奴、俺は官吏にしたくない」
けんかを吹っ掛けていた相手が中州の官吏――しかも順位を持つ上級文官であることを知って、青年の目が丸くなった。心の中ではまだ目の前の少年をののしっているのかもしれないが、それは言葉にならず口を何度も開閉するだけだ。
「官吏を志すなら、上級官吏の顔くらい覚えておくべきだぞ」
間抜けな驚愕面をさらす青年に絡柳は冷めた声で言って、背を向けた。
「行きましょう、姫様」
穏やかな口調と、やさしい笑顔。青年に対する時とは真逆の態度で、絡柳は与羽を道場の外へと促した。
「……はい」
背に添えられた手に弱く押されて、与羽は素直に従った。与羽が歩けば、周りの人々は道を開ける。
「地方の人々は姫様の容姿を見慣れていませんが、あまりお気になさいませんよう」
与羽の青紫色の瞳や青と黄緑にきらめく黒髪は、城主一族やそれに近い血縁者だけが持つ特別な色彩だ。深く礼をしたり敬意を示したりしながらも、与羽を盗み見ようとする門下生に、絡柳は厳しい視線を向けていた。彼の懐にしまわれていた佩玉は、いつの間にか彼の腰にある。周りの人々には、中州の姫君が上級文官を従えて歩いているように見えるだろう。
「あの……」
道場を出たところで、与羽は半歩後ろを歩く絡柳を振り返った。
「どうされましたか?」
辺りを警戒するように見回していた彼の目が、すぐに与羽を向く。自信に満ちた短い眉に、少し疲労が見られるものの穏やかな目元。一文字に結ばれていた口が、与羽を見る視線の動きに合わせて笑みの形に変わった。
「すいげつ、文官……?」
与羽は確認するようにその名前を呼んだ。華奈が以前話していた、与羽の力になってくれるかもしれない上級文官。庶民出身でありながら、破竹の勢いで官位を上げ、今は城主のそば仕えとして仕事をしている十八歳の少年だ。
「あぁ、自己紹介がまだでしたか。と言っても、初対面ではありませんよね。姫様とは何度も城や古狐でお会いしておりますから」
丁寧な口調で言って、彼は自分の胸に片手を当てた。
「わたしは水月絡柳。この国の文官をしております。どうぞ気軽にお好きなように接してください」
「あの……、水月文官。敬語じゃなくて、いいです」
洗練された動きで深く頭を下げる絡柳に、与羽は身を固くした。城主にするような礼をされるのも、ひどく丁寧な口調で話されるのも、守るように後ろを歩かれるのも緊張してしまう。
「そうですか?」
絡柳はゆっくりと顔を上げた。
「それなら、そうしよう」
拒否されるかと思ったが、絡柳はすんなりと与羽の頼みを聞き入れてくれた。
「ありがとうございます」
「姫様ももっと砕けた言葉で話していいんだぞ」
「いえ。水月文官も一鬼道場の先輩ですから……」
大斗や華奈や、年上の門下生たちと一緒だ。
「そうか……」
そう頷く絡柳は少し残念そうに見えた。
「俺も大斗みたいに下の名前で『先輩』と呼んでもらえると嬉しかったりするんだがな……」
与羽に聞こえるか聞こえないかの小さな声。硬い口調や厳格な雰囲気とは裏腹に、その口元にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。与羽が知らなかっただけで、絡柳自身はずっと昔から与羽を気にかけ続けてくれていたのかもしれない。もう少し彼を知れたら呼称を改めようと、与羽は素直にうなずいた。
勇気を振り絞って、長い髪の流れる背中に話しかけた。きっとそれが一番争いなく事態を治められる。
「姫様が遠慮されることは何もありません」
しかし、少年は青年と話していたのとは違う丁寧な口調で否を唱えた。
「いえ、今日は帰りたいので」
与羽は強く首を振った。心が乱れていて、今日はこれ以上稽古する気になれない。
「そうですか……。それならば、城までお送りしますよ。わたしも城にやり残した仕事がありますし」
少年は与羽を安心させるように笑みを見せた。しかし、その笑みをすぐに消し、青年を振り返る。
「ことを荒立てない姫様の慈悲に感謝するんだな」
どれだけ罵倒されても、怒りを向けられても、彼の余裕に満ちた物腰は崩れない。
「お前!」
怒り狂って叫ぶ相手とは大違いだ。大きな怒鳴り声に、少年は再びため息をついた。
「お前のために名乗っておいてやる。俺は中州国文官第三十五位、水月絡柳」
硬い口調で言いながら懐から出した青い玉は、確かに中州国の上級文官を示すものだった。
「今年は俺が官吏登用試験の担当じゃなくて良かったな。官吏には忠誠心も問われる。城主一族にあれだけの暴言を吐いた奴、俺は官吏にしたくない」
けんかを吹っ掛けていた相手が中州の官吏――しかも順位を持つ上級文官であることを知って、青年の目が丸くなった。心の中ではまだ目の前の少年をののしっているのかもしれないが、それは言葉にならず口を何度も開閉するだけだ。
「官吏を志すなら、上級官吏の顔くらい覚えておくべきだぞ」
間抜けな驚愕面をさらす青年に絡柳は冷めた声で言って、背を向けた。
「行きましょう、姫様」
穏やかな口調と、やさしい笑顔。青年に対する時とは真逆の態度で、絡柳は与羽を道場の外へと促した。
「……はい」
背に添えられた手に弱く押されて、与羽は素直に従った。与羽が歩けば、周りの人々は道を開ける。
「地方の人々は姫様の容姿を見慣れていませんが、あまりお気になさいませんよう」
与羽の青紫色の瞳や青と黄緑にきらめく黒髪は、城主一族やそれに近い血縁者だけが持つ特別な色彩だ。深く礼をしたり敬意を示したりしながらも、与羽を盗み見ようとする門下生に、絡柳は厳しい視線を向けていた。彼の懐にしまわれていた佩玉は、いつの間にか彼の腰にある。周りの人々には、中州の姫君が上級文官を従えて歩いているように見えるだろう。
「あの……」
道場を出たところで、与羽は半歩後ろを歩く絡柳を振り返った。
「どうされましたか?」
辺りを警戒するように見回していた彼の目が、すぐに与羽を向く。自信に満ちた短い眉に、少し疲労が見られるものの穏やかな目元。一文字に結ばれていた口が、与羽を見る視線の動きに合わせて笑みの形に変わった。
「すいげつ、文官……?」
与羽は確認するようにその名前を呼んだ。華奈が以前話していた、与羽の力になってくれるかもしれない上級文官。庶民出身でありながら、破竹の勢いで官位を上げ、今は城主のそば仕えとして仕事をしている十八歳の少年だ。
「あぁ、自己紹介がまだでしたか。と言っても、初対面ではありませんよね。姫様とは何度も城や古狐でお会いしておりますから」
丁寧な口調で言って、彼は自分の胸に片手を当てた。
「わたしは水月絡柳。この国の文官をしております。どうぞ気軽にお好きなように接してください」
「あの……、水月文官。敬語じゃなくて、いいです」
洗練された動きで深く頭を下げる絡柳に、与羽は身を固くした。城主にするような礼をされるのも、ひどく丁寧な口調で話されるのも、守るように後ろを歩かれるのも緊張してしまう。
「そうですか?」
絡柳はゆっくりと顔を上げた。
「それなら、そうしよう」
拒否されるかと思ったが、絡柳はすんなりと与羽の頼みを聞き入れてくれた。
「ありがとうございます」
「姫様ももっと砕けた言葉で話していいんだぞ」
「いえ。水月文官も一鬼道場の先輩ですから……」
大斗や華奈や、年上の門下生たちと一緒だ。
「そうか……」
そう頷く絡柳は少し残念そうに見えた。
「俺も大斗みたいに下の名前で『先輩』と呼んでもらえると嬉しかったりするんだがな……」
与羽に聞こえるか聞こえないかの小さな声。硬い口調や厳格な雰囲気とは裏腹に、その口元にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。与羽が知らなかっただけで、絡柳自身はずっと昔から与羽を気にかけ続けてくれていたのかもしれない。もう少し彼を知れたら呼称を改めようと、与羽は素直にうなずいた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
社畜から卒業したんだから異世界を自由に謳歌します
湯崎noa
ファンタジー
ブラック企業に入社して10年が経つ〈宮島〉は、当たり前の様な連続徹夜に心身ともに疲労していた。
そんな時に中高の同級生と再開し、その同級生への相談を行ったところ会社を辞める決意をした。
しかし!! その日の帰り道に全身の力が抜け、線路に倒れ込んでしまった。
そのまま呆気なく宮島の命は尽きてしまう。
この死亡は神様の手違いによるものだった!?
神様からの全力の謝罪を受けて、特殊スキル〈コピー〉を授かり第二の人生を送る事になる。
せっかくブラック企業を卒業して、異世界転生するのだから全力で謳歌してやろうじゃないか!!
※カクヨム、小説家になろう、ノベルバでも連載中
乙女ゲームの悪役令嬢に転生したけど何もしなかったらヒロインがイジメを自演し始めたのでお望み通りにしてあげました。魔法で(°∀°)
ラララキヲ
ファンタジー
乙女ゲームのラスボスになって死ぬ悪役令嬢に転生したけれど、中身が転生者な時点で既に乙女ゲームは破綻していると思うの。だからわたくしはわたくしのままに生きるわ。
……それなのにヒロインさんがイジメを自演し始めた。ゲームのストーリーを展開したいと言う事はヒロインさんはわたくしが死ぬ事をお望みね?なら、わたくしも戦いますわ。
でも、わたくしも暇じゃないので魔法でね。
ヒロイン「私はホラー映画の主人公か?!」
『見えない何か』に襲われるヒロインは────
※作中『イジメ』という表現が出てきますがこの作品はイジメを肯定するものではありません※
※作中、『イジメ』は、していません。生死をかけた戦いです※
◇テンプレ乙女ゲーム舞台転生。
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇なろうにも上げてます。
転生貴族の異世界無双生活
guju
ファンタジー
神の手違いで死んでしまったと、突如知らされる主人公。
彼は、神から貰った力で生きていくものの、そうそう幸せは続かない。
その世界でできる色々な出来事が、主人公をどう変えて行くのか!
ハーレム弱めです。
転生したら、伯爵家の嫡子で勝ち組!だけど脳内に神様ぽいのが囁いて、色々依頼する。これって異世界ブラック企業?それとも社畜?誰か助けて
ゆうた
ファンタジー
森の国編 ヴェルトゥール王国戦記
大学2年生の誠一は、大学生活をまったりと過ごしていた。
それが何の因果か、異世界に突然、転生してしまった。
生まれも育ちも恵まれた環境の伯爵家の嫡男に転生したから、
まったりのんびりライフを楽しもうとしていた。
しかし、なぜか脳に直接、神様ぽいのから、四六時中、依頼がくる。
無視すると、身体中がキリキリと痛むし、うるさいしで、依頼をこなす。
これって異世界ブラック企業?神様の社畜的な感じ?
依頼をこなしてると、いつの間か英雄扱いで、
いろんな所から依頼がひっきりなし舞い込む。
誰かこの悪循環、何とかして!
まったりどころか、ヘロヘロな毎日!誰か助けて
女子力の高い僕は異世界でお菓子屋さんになりました
初昔 茶ノ介
ファンタジー
昔から低身長、童顔、お料理上手、家がお菓子屋さん、etc.と女子力満載の高校2年の冬樹 幸(ふゆき ゆき)は男子なのに周りからのヒロインのような扱いに日々悩んでいた。
ある日、学校の帰りに道に悩んでいるおばあさんを助けると、そのおばあさんはただのおばあさんではなく女神様だった。
冗談半分で言ったことを叶えると言い出し、目が覚めた先は見覚えのない森の中で…。
のんびり書いていきたいと思います。
よければ感想等お願いします。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
異世界楽々通販サバイバル
shinko
ファンタジー
最近ハマりだしたソロキャンプ。
近くの山にあるキャンプ場で泊っていたはずの伊田和司 51歳はテントから出た瞬間にとてつもない違和感を感じた。
そう、見上げた空には大きく輝く2つの月。
そして山に居たはずの自分の前に広がっているのはなぜか海。
しばらくボーゼンとしていた和司だったが、軽くストレッチした後にこうつぶやいた。
「ついに俺の番が来たか、ステータスオープン!」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる