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外伝 - 第一章 龍姫と炎狐
一章五節 - 炎狐と乳兄弟
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城の敷地をまっすぐ北へ。中州城の奥、丈夫な漆喰塀と二人の門番に守られているのが古狐家だ。
自宅に戻ってきた辰海は、庭を抜けて自分の部屋を目指した。与羽の部屋に近づきたくなかったから。
庭には松と古狐を象徴する植物である桜の木。すっかり花びらを落としてしまったがくの内側には、小さな実が見えた。これが膨らんで赤く熟れる頃に官吏登用試験がはじまる。そう考えると、大好きな桜の木でさえも憎らしく感じた。
辰海は意識的に視線を桜から外して、庭を進む。目指す自室は屋敷の東端。書庫を備えた勉強部屋に、居室と寝室。これほど恵まれた環境で官吏を目指せる者はそういない。
「今日も遅かったな」
縁側から屋敷に上がり、部屋に入ったところで辰海を迎える者がいた。乳兄弟の野火太一だ。赤子から幼少時代の辰海を世話してくれた乳母の息子で、辰海より一ヶ月だけ年上の彼は、生まれた時から共にいる双子の兄弟のような存在だった。
「官吏登用試験が近いから」
辰海は大きな机に勉強道具を下ろしながら答えた。
「与羽は――?」
「アメや月日と先に帰ったはずだけど」
時刻はそろそろ日が沈もうかと言うころ合い。てっきりいつものように、あの二人が与羽を城まで送り届けたと思っていたが、違うのだろうか。
「帰ってない」
太一は表情を曇らせた。かつての辰海と同じように、太一も与羽を気にかけ続けている。
「それなら、どこかで遊んでるんじゃないかな」
辰海は荷物から読み途中の書物を取り出した。これから夕食まで、また勉強だ。
「辰海、試験勉強で大変なのはわかるが、もう少し与羽を気にかけてやって欲しい」
太一の言葉に批判の意図はない。ただ与羽を案じ、懇願している。しかし、その発言は辰海の神経を逆なでた。
「それなら、太一がお願い。僕に、その余裕はないから」
辰海の表情は、ひどく切羽詰まっていた。勉強しても勉強しても足りない。そんな焦りが辰海の心を占めている。
「できる限りのことはする。けど、何をそんなに根詰めてるんだよ? お前の頭脳があれば、官吏登用試験なんて余裕だろ?」
太一が様子をうかがうように辰海の顔を覗き込んだ。彼の言う通り、通過するだけならば簡単だろう。しかし。
「今年の試験はアメがいるし、柊もいる。首席を取るのは簡単じゃない」
「首席って……、旦那様に言われたのか?」
旦那様とはこの家の家長のことだ。
「父上は何も言ってこない。けど、僕は古狐だから、絶対に負けられないんだ……」
父がそれを期待しているのは間違いない。もし辰海が微妙な成績で試験を通過してしまったら、辰海を教育してきた彼の評価にも傷がつくだろう。筆頭文官家として、それは決してあってはならないことだ。
「考えすぎじゃないか? 少し息抜きをした方が良い」
「考えすぎて損することはないよ」
辰海は顔を上げて笑みを見せた。ひどく疲れた笑顔だった。
「お前の良い所は、真面目で賢いところ。悪いところは思い込みが激しいところだ。旦那様としっかり話して確認したほうが良い」
「……肝に銘じておく」
そろそろ太一の存在が勉強の邪魔に思えてきた。こうやって話し続けていては、本の内容が入ってこない。
「僕は心配いらないから、与羽を探しに行ったら?」
「お前も一緒に来いよ……」
呆れているような、困っているような太一の声。
「ごめん。本当に忙しいんだ」
「……わかった」
何を言っても無駄だと思ったのだろうか。太一は一つため息をついて、辰海から離れた。
「与羽を大切にしてやってくれよ。家族なんだから」
「うん」
太一の去り際の言葉に辰海はうなずいた。辰海にとって、与羽はすでに同じ家にいるだけの赤の他人だ。しかし、それを言えば口論になるのは目に見えている。短い嘘でごまかして、辰海は乳兄弟を追い出した。
――太一も、僕より与羽、か。
学友も乳兄弟でさえも、与羽を選ぶ。きっと両親や姉だってそうだ。せっかく一人になったと言うのに、本の内容が全然頭に入ってこない。
――なんでみんな、与羽ばっかり……。
強い孤独が辰海の胸で渦を巻いた。その一方で、周りの期待が辰海に重くのしかかる。
「あ、与羽! 今帰ってきたのか?」
部屋の外で太一の大声が聞こえた。与羽の部屋は、空き部屋を二つ挟んだ隣。どうしても与羽の気配を感じてしまう時がある。
「どこに行ってたんだよ? 心配したんだぞ」
「……ごめんなさい。九鬼武官に誘われて、一鬼道場で剣の稽古を――」
その声を聞くだけで、小さくなってうつむく与羽の姿を想像できてしまうのが厄介だ。
「九鬼武官って、大斗さんの方?」
「うん」
「手、けがしてるじゃないか!」
「受け身に失敗して、ちょっと擦りむいただけ」
「痛くないか?」
「大丈夫。……あの、これからまた時々道場に行くと思うから、帰りが遅くなるかもしれん」
「それは構わないが、旦那様にはちゃんと話しておくべきだと思う」
「わかった。ありがと」
外の会話に集中力を奪われて仕方ない。辰海の視線は、先ほどからずっと同じ場所を滑り続けている。
「卯龍さん、認めてくれるかなぁ……」
「きっと大丈夫。一鬼道場は由緒と実績ある場所だし、九鬼大斗武官が指導してくれるなら間違いないさ」
「……良かった」
安心した与羽の笑顔が脳裏に浮かぶ。
それ以上会話を聞きたくなくて、辰海は両手を耳に押し当てた。与羽の明るい声を聞くと苦しくなる。自分の抱える負の感情が際立って重くのしかかってくる。
――なんで僕ばっかり。
自由に遊びまわる与羽。家と宿命に縛られた辰海。一緒に育ってきたのに、どうしてこうも違うのか。大臣になれば、この重圧から解放されるのだろうか。それまで、自分の精神は持ちこたえられるだろうか。
今の辰海には、わからなかった。
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