龍神の詩 ~龍の姫は愛されながら大人になる~

白楠 月玻

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  第三部 - 二章 三冬尽く

二章十節 - 春立ちぬ

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「ありがとう」

 比呼ひこは漠然と感謝の言葉を口にした。薬を飲ませてくれたことも、少年への処置も、子どもたちのことも、この場に来てくれたことも――。感謝したいことがたくさんある。

「手足の指はちゃんと動く?」

 ナギは小さくうなずいて比呼の言葉に応えると、手当ての続きをはじめた。当たり前のことをしているだけ。彼女の様子はそう物語っていた。

「大丈夫みたい」

 比呼は目の前で自分の指を動かしながら答えた。まだ寒さで震えているが、じきにおさまるだろう。

「それならよかった」

 比呼は問題ないと判断して、凪は再び少年の方へ。

「君、名前は? 家の場所とか親御さんの名前言える?」

 膝をついてそう尋ねる。少年はぽつりぽつりと質問に答えた。どうやら城下町南部にある定食屋の子らしい。

「そこなら行ったことあるぜ。瓜の漬物がうまいよな」

「それなら雷乱らいらん薬師くすし家に戻ったら親御さんを呼びに行ってくれる?」

「おう、任せとけ」

 雷乱は分厚い胸板をどんと叩いた。子どもも比呼も無事で、順調に回復しつつある。あたりには穏やかな空気が漂いはじめていた。
 比呼が見守る前で子どもたちが我先にと、池に落ちた少年を拭こうとしている。楽しそうな甲高い声のおかげか、少年にも笑顔が見えた。

「無事そうか?」

 しばらくすると、この場を離れていた北斗ほくとも戻ってきた。顔の右半分を覆う大きなやけど跡と、頭に巻かれた手ぬぐいが目立つ、大柄な中年男性。彼の手には、竹竿のほかに池の横に置いたままにしていた着物や履物もあった。下駄げたがあれば、歩いて城下町に帰れる。

 比呼は濡れた前髪から垂れる雫を拭いながらほっと息をついた。そろそろ動けそうだ。凪に城下町へ戻る提案をしようか。

「!」

 考えごとをしていた比呼は、後ろから近づく気配にすばやく振り返った。

「わ!」

 そこには、おびえた表情の子どもが立っている。その手には大きく広げられた手ぬぐい。比呼の濡れた髪の毛を拭こうとしたのだろう。

「ごめん、驚かせちゃったね」

 この場所に危険などあるはずないのに、つい反射で警戒してしまうのは悪い癖だ。比呼はできる限りやさしい表情を浮かべて、小さな手から手ぬぐいを受け取った。

「ありがとう」

 長い髪はいまだに水を多量に含んでいる。着物に浸み込んで体を冷やす前に拭き取らなくてはならない。しかし、体に十分な力を入れられない今は、手ぬぐいに包み込んで力を籠めるだけの簡単な作業が難しい。

「……やってあげる」

 それを見かねたのか、小さな手がためらいがちに比呼の髪に触れた。丁寧に長い髪を絞り、叩き、水気を拭き取っていく。

「上手だね」

「妹の髪を拭いてるから」

 それでこんなにもやさしい手つきなのか。

「良いお兄さんだね」と比呼が笑むと、彼は少し照れたようにうつむいた。

「おにいちゃん、なんでそんなに髪の毛長いの?」

 比呼の周りに、少しずつ他の子どもたちも集まりはじめた。

「うーん、好み、かな?」

 性別を偽って隠密行動するときに便利だったからとは、さすがに答えられない。中州で暮らし始めた今は切っても問題ないのだろうが、まだその気分にはなれなかった。

「じゃあ、おにいちゃんは?」

 子どもの質問は絡柳らくりゅうにも向く。

「かっこいいだろう?」

 絡柳の口から出たのは意外な答えだった。仕事のことしか考えていないように見えて、容姿にも気を使っているらしい。

「じゃあ、お兄ちゃん、名前は?」

 今度は違う少年が比呼に尋ねる。

「比呼、だよ」

苗字みょうじは?」

「苗字はないんだ」

「えー、変なのー」

 城下町に住む人々は、姓と名を持つのが一般的らしい。

「困ったら、『中州』か『薬師』を名乗っておけ」

 あいまいな笑みを浮かべる比呼に、絡柳はそう助言をくれた。

「どっちを名乗るのも恐れ多いですよ」

 中州は城主一族の苗字。薬師を名乗るのも凪たちに迷惑をかけそうだ。

「それなら、何か国のためになる大手柄を立てて、城主から苗字をもらうんだな」

 それも難易度が高そうだ……。

「お兄ちゃん、与羽よう姉ちゃんとケンカしたって本当?」

 子どもたちの問いは脈絡なく湧いて出る。

「……本当だよ」

 比呼は正直に、しかし言葉少なく答えた。

「お母さんがお兄ちゃんのこと怖い人だって」

「でも、僕たちも友達とケンカするし、そう言う時もあるよね」

「そうかも!」

「タケを助けてくれたし!」

 子どもたちは口々に言い合っている。ちなみに、タケとは池に落ちた少年の名前だ。

「比呼は一生懸命のいいやつだぞ。がんばる方向を間違えて、喧嘩しちまっただけだ。でも、もう大丈夫だろ。今のこいつは小娘と薬師家と城下町の役に立つことしか考えてねぇ」

 かつて比呼に殺されかけたにもかかわらず、雷乱は比呼をかばってくれる。与羽の指示なのか、彼の意思なのか……。

「じゃあさじゃあさ、『ちかろう』ってどんなところ? 比呼にーちゃん行ったことあるんでしょ? 父ちゃんが言ってたもん!」

「え、えーっと……」

 子どもたちから質問攻めにされ、四方から髪を拭かれ、比呼は精神的にも肉体的にも身動きが取れない。思っていたものとは少し状況が違うが、これも一つの比呼が受け入れられた世界なのだろう。

「子どもたちが落ち着いたら城下町に帰ろうね」

 何とか一つ一つ受け答えする比呼の耳元で、凪がささやいた。今日こそは、比呼の方から帰宅のあいさつをしようと思っていたが、それが叶うのはまた後日になりそうだ。

「うん。――あ、えーっとね。好きな食べ物は、僕あまり好き嫌いがなくて、でもお菓子やくだものや甘いものが好きかな。そばとか麺類も好きだよ」

「お漬物はー?」
「お野菜はー?」
「しいたけはー?」

「ぜーんぶ好き」

 春の日差しに温められて、とてもいい気分だ。子どもたちの矢継ぎ早な質問に答えながら、比呼は笑みを浮かべた。
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