龍神の詩 ~龍の姫は愛されながら大人になる~

白楠 月玻

文字の大きさ
上 下
105 / 201
  第三部 - 二章 三冬尽く

二章七節 - 氷中闇を呼ぶ

しおりを挟む
 隣で氷が砕けた次の瞬間、比呼ひこの体の下から支えが消えた。何か音がしたのかもしれないが、衝撃と恐怖で混乱した比呼には何も分からない。

「落ち着け、チビ」

 冷たい世界で息を止めた比呼の耳に、男の声が届いた。

「死にたいのか? 与羽ようの顔に泥を塗ったら許さんぞ」

 どうしてここで与羽の名が出てくるのか。

 ――ああ、僕が与羽に仕えているから……?

 あんたを信じると言った与羽の言葉がよみがえる。
 比呼の体から、無駄な力が抜けた。混乱していた心が落ち着きを取り戻す。

 体を浮かせておくための、必要最低限の動作。水の冷たさを感じないほどの集中力。暗殺者として鍛えてきた技術を駆使しているが、その心にかつての黒い塊はない。

 比呼は冷たい水をかいた。一かき、二かき――。三かきで池に落ちた少年のところまでたどり着く。周りの氷は男の持つ長い竹竿で全て割られていた。

「もう、大丈夫だから」

 比呼は少年の冷たい手を強く握った。少年が比呼に縋り付いてくる。必死に生きようとする動作が比呼の体勢を崩すが、比呼はあえて自分が沈むことで少年の体を水の外に出した。目を固く閉じ、息を止めて岸の方へ。

 頭の近くで水面を軽くたたく振動を感じる。男が竿を使って戻るべき方向を示してくれているようだ。

 ――大丈夫。

 比呼は自分の心に言い聞かせた。冷たい闇の中でも、進むべき道は見失わない。

 少年を頭上に掲げて慎重に泳ぎ、池の底に足がついたらさらに速度を上げて歩く。水面から顔を出した比呼の目の前には一本の道――水路ができていた。氷が池の縁までまっすぐ割られているのだ。

「がんばれ……」

 はじめよりおとなしくなった少年に声をかけて、比呼はそこを進んだ。氷の破片をかき分けて。

「大丈夫」

 比呼は自分の着物に縋り付こうとしてる少年を強く抱き寄せた。彼の顔が水につからないよう細心の注意を払うのも忘れない。

 水路の終点には、例の男が立っていた。そこは氷が厚いらしい。

 比呼は寒さで痙攣けいれんする腕を意志の力で動かして、少年を男に渡した。池の深さは腰ほどまでに浅くなっている。

「よく耐えたな」

 少年に励ましの言葉をかけた男は、手早く少年のぬれた服を脱がせた。寒さで震える少年の体を頭に巻いていた手拭いで拭き、自分の上着を羽織らせている。手ぬぐいの下は綺麗に剃り上げた禿げ頭だ。

 比呼は少年の処置をする男を横目に、凍った池からはい出した。

「おいおい。自力で出られるのか」

「着衣水泳の経験はあるので」

「すさまじい精神力と体力だな」

 男は感心したように言う。比呼はそれを聞きながら、水を吸って重たくなった足袋たびを脱いだ。その瞳にはまだ闇が残っている。

「まぁ、ご苦労さん」

 比呼の表情が池に落ちる前とまったく違うことに気づいて、男はねぎらいの言葉を口にした。

「手伝ってやろう」

 濡れた着物を脱ぐの手間取っていた比呼に代わって、男が水を吸って固くなった帯をほどいてくれた。男の手が肌に触れる。その熱に比呼ははっとした。

「ありがとう、ございます」

 ぎこちなくほほえんで、顔を上げた。

「礼を言うのはこっちの方だ」

 比呼は男の手を借りながら濡れた衣服を脱いで、乾いた着物を羽織った。男が着ていたものと池に入る前に比呼が脱いでいた上着。少年にも比呼にも着物を貸してくれた男はかなり薄着になっているが、その表情に寒さを感じている様子はない。

「あなたは――?」

 そう問いかける比呼の目からは、すでに闇が消えていた。人懐っこい表情に、男は満足そうにうなずいた。

「その前に、少しでも暖かいところに行こう」

 彼の言う通りかもしれない。様々な過酷な環境を経験してきた比呼ならば耐えられるが、彼よりも長い間氷水に浸かっていた少年は気がかりだ。男は軽々と比呼を肩に担ぎ上げ、がたがた震えている少年を片腕で抱き上げた。

「竿は置いといてくれていい」

 氷を砕くのに使った竹竿を一瞥いちべつして、歩きはじめる。

「悪かったな。いつもこの時期になると、城下町周辺の氷を割って回るんだが、今年は急に暖かくなって間に合わなかった」

「いえ……」

 比呼は小さく首を振った。

「だが、お前が居合わせてくれて良かった。さすがの胆力だと言っておく」

 うすうすそんな気はしていたが、彼は比呼の素性を知っているらしい。ほんの一握りの人間にしかおおやけにされていないそれを把握しているということは――。

「……あなたは?」

 比呼は再び尋ねた。

「中州国武官第一位九鬼北斗くき ほくと

 大斗だいと千斗せんと兄弟の父親。中州最強の男。

 比呼はもう一度彼の顔を確認しようとしたが、肩に担がれた状態では背中しか見えない。

「いつもは息子が世話をかけて申し訳ない」

 謝罪にしては軽い口調で北斗は言う。彼の長男大斗は、比呼の暗殺任務を失敗に追いやった武の達人で、次男の千斗は冬の間何度も比呼の様子を確かめに来てくれた。

「いえ……」

「だが、大斗は気に入った奴の相手しかしないから、お前は大斗に気に入られたんだろうな」

「そうなんですか」

 たしかに大斗も長期任務で城下町を離れるまでは、比呼を繰り返し訪れていた。あれは彼なりの気遣いだったのか。比呼と関わりたくないなら、初めから比呼の監視を弟に任せることもできたはずだ。

「と言うことは、お前はそれなりの使い手なんだろう」

 少しだけ北斗の雰囲気が変わったが、比呼は気にしないことにした。たとえそれが、大斗の纏う好戦的な空気にとても近かったとしても――。

「そんなことないです。与羽にも水月すいげつ大臣にも負けましたし」

 比呼は自分の暗殺失敗時を思い返した。城主一族を殺す任務を負った彼は、不意打ちで中州の姫与羽を殺そうとした。しかし、彼女の回避は思いのほか早く、彼女やその護衛をしていた雷乱らいらんに手間取っている間に、城主を守る大臣や大斗に追い詰められてしまったのだ。

「あいつらを一人で相手できるわけないだろ。うちの若手最上位にいる奴らだぞ」

「そうだったんですね」

 どうやらあの時の比呼は、とんでもない人々を相手にしていたらしい。

「毎年晩夏に武術大会があるから、それを見に来るといい。もちろん、参加してくれても良いけどな」

 北斗は少し楽しそうだ。

「もう少し、馴染めたら――」

 比呼はその答えを曖昧にぼかした。先ほどの子どもたちの反応を見てもわかる。比呼はまだこの町に受け入れられていないのだ。いつ彼の素性が民衆に知られるかもわからない。比呼はいまだ薄氷の上。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

愛しくない、あなた

野村にれ
恋愛
結婚式を八日後に控えたアイルーンは、婚約者に番が見付かり、 結婚式はおろか、婚約も白紙になった。 行き場のなくした思いを抱えたまま、 今度はアイルーンが竜帝国のディオエル皇帝の番だと言われ、 妃になって欲しいと願われることに。 周りは落ち込むアイルーンを愛してくれる人が見付かった、 これが運命だったのだと喜んでいたが、 竜帝国にアイルーンの居場所などなかった。

【完結】聖騎士は、悪と噂される魔術師と敵対しているのに、癒されているのはおかしい。

朝日みらい
恋愛
ヘルズ村は暗い雲に覆われ、不気味な森に囲まれた荒涼とした土地です。村には恐ろしい闇魔法を操る魔術師オルティスが住んでおり、村人たちは彼を恐れています。村の中心には神父オズワルドがいる教会があり、彼もまた何かを隠しているようです。 ある日、王都の大司教から聖剣の乙女アテナ・フォートネットが派遣され、村を救うためにやって来ます。アテナはかつて婚約を破棄された過去を持ち、自らの力で生きることを決意した勇敢な少女です。 アテナは魔人をおびき出すために森を歩き、魔人と戦いますが、負傷してしまいます。その時、オルティスが現れ――

私が産まれる前に消えた父親が、隣国の皇帝陛下だなんて聞いてない

丙 あかり
ファンタジー
 ハミルトン侯爵家のアリスはレノワール王国でも有数の優秀な魔法士で、王立学園卒業後には婚約者である王太子との結婚が決まっていた。  しかし、王立学園の卒業記念パーティーの日、アリスは王太子から婚約破棄を言い渡される。  王太子が寵愛する伯爵令嬢にアリスが嫌がらせをし、さらに魔法士としては禁忌である『魔法を使用した通貨偽造』という理由で。    身に覚えがないと言うアリスの言葉に王太子は耳を貸さず、国外追放を言い渡す。    翌日、アリスは実父を頼って隣国・グランディエ帝国へ出発。  パーティーでアリスを助けてくれた帝国の貴族・エリックも何故か同行することに。  祖父のハミルトン侯爵は爵位を返上して王都から姿を消した。  アリスを追い出せたと喜ぶ王太子だが、激怒した国王に吹っ飛ばされた。  「この馬鹿息子が!お前は帝国を敵にまわすつもりか!!」    一方、帝国で仰々しく迎えられて困惑するアリスは告げられるのだった。   「さあ、貴女のお父君ーー皇帝陛下のもとへお連れ致しますよ、お姫様」と。 ****** 不定期更新になります。  

恋は、終わったのです

楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。 今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。 『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』 身長を追い越してしまった時からだろうか。  それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。 あるいは――あの子に出会った時からだろうか。 ――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。 ※誤字脱字、名前間違い、よくやらかします。ご都合主義などなど、どうか温かい目で(o_ _)o))9万字弱です。珍しく、ほぼ書き終えていまして、(´艸`*)あとは地の文などを書き足し、手直しするのみ。ですので、話のフラグ、これから等にお答えするのは難しいと思いますが、予想はwelcomeです。もどかしい展開ですが、ヒロイン、ヒロイン側の否定はお許しを…お楽しみください<(_ _)>

悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業

ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。

少し冷めた村人少年の冒険記

mizuno sei
ファンタジー
 辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。  トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。  優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。

魔法使いと彼女を慕う3匹の黒竜~魔法は最強だけど溺愛してくる竜には勝てる気がしません~

村雨 妖
恋愛
 森で1人のんびり自由気ままな生活をしながら、たまに王都の冒険者のギルドで依頼を受け、魔物討伐をして過ごしていた”最強の魔法使い”の女の子、リーシャ。  ある依頼の際に彼女は3匹の小さな黒竜と出会い、一緒に生活するようになった。黒竜の名前は、ノア、ルシア、エリアル。毎日可愛がっていたのに、ある日突然黒竜たちは姿を消してしまった。代わりに3人の人間の男が家に現れ、彼らは自分たちがその黒竜だと言い張り、リーシャに自分たちの”番”にするとか言ってきて。  半信半疑で彼らを受け入れたリーシャだが、一緒に過ごすうちにそれが本当の事だと思い始めた。彼らはリーシャの気持ちなど関係なく自分たちの好きにふるまってくる。リーシャは彼らの好意に鈍感ではあるけど、ちょっとした言動にドキッとしたり、モヤモヤしてみたりて……お互いに振り回し、振り回されの毎日に。のんびり自由気ままな生活をしていたはずなのに、急に慌ただしい生活になってしまって⁉ 3人との出会いを境にいろんな竜とも出会うことになり、関わりたくない竜と人間のいざこざにも巻き込まれていくことに!※”小説家になろう”でも公開しています。※表紙絵自作の作品です。

処理中です...