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第三部 - 一章 雪花舞う
柚子茶と九鬼千斗[2]
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薬師家には、毎日多くの病人や怪我人が訪れる。それを凪と香子の二人だけで診るのは不可能なので、家事や診察の手伝いとして、十人以上の奉公人を雇っていた。そろそろそのうちの誰かがやってくるころだろう。この日最初に来たのは――。
「あ、千斗くんだ。どうぞー」
とんとんと戸を叩く音に顔を上げて、凪は細く開けたままの扉から見える姿に声をかけた。
「まだご飯?」
朝食が終わる頃合いを見計らって来たらしい彼は、まだ下げきれていない食器を見て戸口で足を止めた。
「もう終わるから心配しないで。お庭にかまくら作ってたら、遅くなっちゃって。千斗くんも一緒に雪遊びする?」
対応する凪の声を聞きながら、比呼は残りのおかゆを一気に飲み込んだ。
「……仕事ある。あと、これ」
短く断って、千斗は片手に持っていた包みを凪に渡した。表情にも言葉の抑揚にも変化が少ない物静かな少年だ。
「あ、ゆずと生姜! ありがとう!」
凪は薬の材料を千斗に頼んでいたらしい。彼の母親は八百屋の女将。野菜やくだものを頼んで代金を渡せば、こうやって持ってきてくれる。ただ、それはついでで、本来の目的は比呼の様子確認だろうが。彼も比呼の本当の正体を知る数少ない一人だった。
武官筆頭九鬼家の次男。かつて華金から送り込まれた比呼を捕らえた九鬼大斗は、彼の兄だ。長い任務で不在の大斗に代わって、上級武官の千斗が比呼の監視を引き継いでいる。
「変わりは――?」
千斗の濃紫の瞳が比呼を見た。
「ぜーんぜん。比呼が毎日うちを手伝ってくれて、すごく助かってるよ」
「ええ、その通り」
凪と香子がそう報告する。
「なら、いい」
千斗は小さく頷くと、きびすを返した。いつもそうだ。監視と言いつつ、彼がするのはそれだけ。短く言葉を交わすと、ここでの仕事は終わりとばかりに帰って行く。やる気がないのか、本当に問題がないと判断しているのか。後者だと信じたい。
「帰っちゃった」
千斗の動きはとてもゆっくりに見える一方で、気づいた時には姿が消えている。
「お土産に柚子茶を持って帰ってもらおうと思ったのに、逃しましたねぇ」
香子は肩をすくめた。
「僕、持って行きましょうか?」
すぐに出れば呼び止められるだろう。
「いいよいいよ。急がないから」
「いえ、行ってもらいましょう。いい経験になりますから。かわいい子には旅をさせろ、ってやつです」
香子はニタニタといたずらっぽい笑みを浮かべながら、小壺に入れた柚子茶の素を持ってきた。刻んだゆずと体を温める効果のある生薬を砂糖と蜂蜜に漬けこんだ凪の自信作だ。
「千斗さんが見つからなかったら、八百屋の女将さんに渡してくださいな」
「わかりました」
比呼は藁の長靴に足を入れながらうなずいた。この履物にもだいぶ慣れた。
「本当に急がないのに……」
分厚い上着を渡してくれた凪は、申し訳なさそうにうつむいている。
「気にしないで。僕が行きたいんだから」
香子の言う通り良い経験だ。
「転ばないようにね」
「う、うん」
「いってらっしゃい。気を付けて」
外出するときはいつも凪と一緒だったので、そのあいさつは新鮮だった。
「いってきます。すぐに戻るね!」
慣れない言葉を返して、比呼は家を飛び出した。準備に時間をかけられなかったので、滑り止めの荒縄は巻いていない。急ぎつつも慎重に足をまっすぐおろして歩く。
冬の大通りは人が少ないので、千斗はすぐに見つけられた。城の方へ大股に歩いている。
「九鬼さん!」
彼の歩く速度の方が速そうだったので、比呼は大きく声をかけて小走りになった。
「九鬼さん!」
もう一度叫ぶと千斗が振り返った。こちらに小股で駆け寄る比呼を見て一言。
「……そこ、凍ってる」
表情を変えずに小さくつぶやく。次の瞬間、比呼の足が滑った。
「え? うわ!」
もう少し危機感のある声で注意してくれれば止まれたのに……。
そんなことを思いながら比呼は受け身の態勢を整えた。頻繁に雪道で滑りすぎて、転ぶことにすっかり慣れきってしまった。
「気を付けて」
しかし、転倒する気満々だった比呼の体は、千斗の腕に抱きとめられた。口調は冷たいが、心根はやさしいようだ。
「あ、ありがとうございます」
比呼は慌てて背筋を伸ばした。
「井戸の近くは凍りやすい」
千斗の細長い指が脇道の先にある井戸を指した。汲んだ水を持ち帰る際、通りにこぼしてしまう人がいるのだろう。それが凍って滑ってしまった。
「気を付けます……」
「で、なに?」
冷めた声が降ってくる。
「あの、これ、凪が作った柚子茶です。もしよかったらぜひ」
「……それだけ?」
千斗は比呼の顔と差し出された小壺を見比べた。
「えっと……、そうです」
迷惑だっただろうか。千斗の表情は、比呼の経験をもってしても読み取りにくい。
「あ、千斗くんだ。どうぞー」
とんとんと戸を叩く音に顔を上げて、凪は細く開けたままの扉から見える姿に声をかけた。
「まだご飯?」
朝食が終わる頃合いを見計らって来たらしい彼は、まだ下げきれていない食器を見て戸口で足を止めた。
「もう終わるから心配しないで。お庭にかまくら作ってたら、遅くなっちゃって。千斗くんも一緒に雪遊びする?」
対応する凪の声を聞きながら、比呼は残りのおかゆを一気に飲み込んだ。
「……仕事ある。あと、これ」
短く断って、千斗は片手に持っていた包みを凪に渡した。表情にも言葉の抑揚にも変化が少ない物静かな少年だ。
「あ、ゆずと生姜! ありがとう!」
凪は薬の材料を千斗に頼んでいたらしい。彼の母親は八百屋の女将。野菜やくだものを頼んで代金を渡せば、こうやって持ってきてくれる。ただ、それはついでで、本来の目的は比呼の様子確認だろうが。彼も比呼の本当の正体を知る数少ない一人だった。
武官筆頭九鬼家の次男。かつて華金から送り込まれた比呼を捕らえた九鬼大斗は、彼の兄だ。長い任務で不在の大斗に代わって、上級武官の千斗が比呼の監視を引き継いでいる。
「変わりは――?」
千斗の濃紫の瞳が比呼を見た。
「ぜーんぜん。比呼が毎日うちを手伝ってくれて、すごく助かってるよ」
「ええ、その通り」
凪と香子がそう報告する。
「なら、いい」
千斗は小さく頷くと、きびすを返した。いつもそうだ。監視と言いつつ、彼がするのはそれだけ。短く言葉を交わすと、ここでの仕事は終わりとばかりに帰って行く。やる気がないのか、本当に問題がないと判断しているのか。後者だと信じたい。
「帰っちゃった」
千斗の動きはとてもゆっくりに見える一方で、気づいた時には姿が消えている。
「お土産に柚子茶を持って帰ってもらおうと思ったのに、逃しましたねぇ」
香子は肩をすくめた。
「僕、持って行きましょうか?」
すぐに出れば呼び止められるだろう。
「いいよいいよ。急がないから」
「いえ、行ってもらいましょう。いい経験になりますから。かわいい子には旅をさせろ、ってやつです」
香子はニタニタといたずらっぽい笑みを浮かべながら、小壺に入れた柚子茶の素を持ってきた。刻んだゆずと体を温める効果のある生薬を砂糖と蜂蜜に漬けこんだ凪の自信作だ。
「千斗さんが見つからなかったら、八百屋の女将さんに渡してくださいな」
「わかりました」
比呼は藁の長靴に足を入れながらうなずいた。この履物にもだいぶ慣れた。
「本当に急がないのに……」
分厚い上着を渡してくれた凪は、申し訳なさそうにうつむいている。
「気にしないで。僕が行きたいんだから」
香子の言う通り良い経験だ。
「転ばないようにね」
「う、うん」
「いってらっしゃい。気を付けて」
外出するときはいつも凪と一緒だったので、そのあいさつは新鮮だった。
「いってきます。すぐに戻るね!」
慣れない言葉を返して、比呼は家を飛び出した。準備に時間をかけられなかったので、滑り止めの荒縄は巻いていない。急ぎつつも慎重に足をまっすぐおろして歩く。
冬の大通りは人が少ないので、千斗はすぐに見つけられた。城の方へ大股に歩いている。
「九鬼さん!」
彼の歩く速度の方が速そうだったので、比呼は大きく声をかけて小走りになった。
「九鬼さん!」
もう一度叫ぶと千斗が振り返った。こちらに小股で駆け寄る比呼を見て一言。
「……そこ、凍ってる」
表情を変えずに小さくつぶやく。次の瞬間、比呼の足が滑った。
「え? うわ!」
もう少し危機感のある声で注意してくれれば止まれたのに……。
そんなことを思いながら比呼は受け身の態勢を整えた。頻繁に雪道で滑りすぎて、転ぶことにすっかり慣れきってしまった。
「気を付けて」
しかし、転倒する気満々だった比呼の体は、千斗の腕に抱きとめられた。口調は冷たいが、心根はやさしいようだ。
「あ、ありがとうございます」
比呼は慌てて背筋を伸ばした。
「井戸の近くは凍りやすい」
千斗の細長い指が脇道の先にある井戸を指した。汲んだ水を持ち帰る際、通りにこぼしてしまう人がいるのだろう。それが凍って滑ってしまった。
「気を付けます……」
「で、なに?」
冷めた声が降ってくる。
「あの、これ、凪が作った柚子茶です。もしよかったらぜひ」
「……それだけ?」
千斗は比呼の顔と差し出された小壺を見比べた。
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