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第三部:袖ひちて -ソデひちて-
序章三節 - 薬師の団らん
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比呼が居候する薬師家には現在、凪と祖母の二人しかいない。
凪の両親は優秀な医師で、中州国内を中心に様々な場所を旅して病人や怪我人の治療をしているらしい。この城下町には、年に数回帰って来ると言うが、比呼はまだ会ったことがなかった。
薬師家は代々、医術や薬学に携わってきた家。凪も幼いころからそれらの知識を叩き込まれて育ったと言う。比呼にも薬学の心得があるので、凪の知識が優れたものであることはすぐに分かった。その師である彼女の祖母にかかれば、けがの手当てから病気の治療、赤ん坊の取り上げまで何でもこいだ。
比呼は部屋の壁に無造作に並べられた薬草を眺めながら、小さく息をついた。
「そのうち慣れるよ」
凪が彼の心中を察して言う。
「そうそう、中州で雪かきができんかったら生きていけませんからねぇ」
凪の祖母――香子は椀に熱い汁をよそっている。雪かきのあと温かい朝食を食べるのが、中州の冬の習慣なのだそうだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
比呼は、香子の差し出した汁椀を両手で受け取った。指先から伝わる熱が冷えた体を温めてくれる。
渡された具沢山のすまし汁に、この年末についた餅が三つ入っているのを見て、比呼は首をかしげた。いつもは二つなのだが……。
「凪を手伝ってくれたお礼ですよ」
失敗ばかりの比呼だったが、香子はそう思っていないらしい。
「比呼は痩せてるから、いっぱい食べないと」
凪も言う。たしかに、尋問時に減った体重はまだ戻りきっていないかもしれない。
「そうですよ。うちの孫を見習いなさいな」
香子も孫娘に同調するが、その意図は少し違うようだった。
「ほらほら、この大きな胸。私がたくさん食べさせた賜物ですよ」
陽気な口調でそんなことを言う。
「もう! おばあちゃんやめてよ!」
凪が恥じらいの声をあげた。
「おほほほほ。比呼さん、胸の大きな娘はお好きですか?」
しかし、香子は凪の静止を全く意に介していない。
「答えなくていいからね、比呼」
「う、うん」
比呼は思わず凪のふくよかな胸元に目をやりそうになって、慌てて視線を逸らした。
「比呼がいっぱい食べても、でっぷり太らない限り胸は大きくならないし!」
「あらあら、そうでした」
下世話な話も日常会話。凪は声を荒げつつも、本気で怒っている様子はないし、食卓の楽しい雰囲気は壊れていない。明るい空気に包まれて、比呼は笑みを浮かべた。
――ここにとどまってよかった。
心からそう思った。
「もう! 比呼までニヤニヤしないでよ!」
比呼の表情を見咎めた凪が、垂れ眉の眉間にぐっと力を入れている。
「ごめんごめん」
比呼は謝罪して、笑顔を消した。
「……ふ」
しかし、真顔を保つのは数秒が限界だ。笑顔を隠すのがこんなに難しいなんて知らなかった。
「ごめん。凪と香子さんの会話が漫才みたいにおもしろいから」
比呼はできる限りうつむいて、表情が凪に見えないようにした。
「もう……」
凪は少し照れた顔をしながら、肩を落としてため息をついている。
「楽しいときは遠慮なく笑ってくださいな」
香子はまるで手本を見せるように、にっこりと歯を見せて笑った。
「ありがとうございます」
中州の冬はとても寒いのに、人の心は凍りつくことを知らない。この食卓も、この町も。
「かまくらつくる人、こ~の指と~まれ!」
大きな子どもの声が、大通りを駆け抜けていく。それを追いかける高い声に笑い声。
「あ、そうそう。ごはんが終わったら、一応足を見せてね。屋根から落ちた時、気づかずに挫いてる可能性もあるから」
凪の細やかな気遣いは、医師として身に付けたのだろうか。
「屋根から落ちたんですか? あらあら。どうりで大きな音がしたと思いました」
ふふふと笑う老婆と、
「笑ったら比呼に悪いでしょ!」と祖母に怒る凪。
「いや、僕が間抜けだったので……」
比呼の口元にも照れた笑いが浮かんだ。
三人で食卓を囲んで笑い合う。意味も目的もない会話に花を咲かせ――。祖国では経験したことのない家族の団らんに、鼻の奥が痛くなって、比呼は慌てて思考を中断した。こんなところで泣いては、みんなを驚かせてしまう。
この温もりが町を覆い尽くすくらい広がる日は来るのだろうか。どうすれば、人々の信頼が得られるだろう。人の心に入り込み取り入るのは、かつて「暗鬼」と呼ばれていた比呼の得意分野だったはず。それなのに、今となっては何もわからない。
「おっちょこちょいな殿方も、かわいらしくて素敵ですよねぇ。ねぇ、凪」
「どう答えても比呼が困りそうな質問しないでよ、もぅ!」
ただ、二人の明るい会話を聞いていると、何とかなるような気もしてくる。
中州の冬は始まったばかりだ。
凪の両親は優秀な医師で、中州国内を中心に様々な場所を旅して病人や怪我人の治療をしているらしい。この城下町には、年に数回帰って来ると言うが、比呼はまだ会ったことがなかった。
薬師家は代々、医術や薬学に携わってきた家。凪も幼いころからそれらの知識を叩き込まれて育ったと言う。比呼にも薬学の心得があるので、凪の知識が優れたものであることはすぐに分かった。その師である彼女の祖母にかかれば、けがの手当てから病気の治療、赤ん坊の取り上げまで何でもこいだ。
比呼は部屋の壁に無造作に並べられた薬草を眺めながら、小さく息をついた。
「そのうち慣れるよ」
凪が彼の心中を察して言う。
「そうそう、中州で雪かきができんかったら生きていけませんからねぇ」
凪の祖母――香子は椀に熱い汁をよそっている。雪かきのあと温かい朝食を食べるのが、中州の冬の習慣なのだそうだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
比呼は、香子の差し出した汁椀を両手で受け取った。指先から伝わる熱が冷えた体を温めてくれる。
渡された具沢山のすまし汁に、この年末についた餅が三つ入っているのを見て、比呼は首をかしげた。いつもは二つなのだが……。
「凪を手伝ってくれたお礼ですよ」
失敗ばかりの比呼だったが、香子はそう思っていないらしい。
「比呼は痩せてるから、いっぱい食べないと」
凪も言う。たしかに、尋問時に減った体重はまだ戻りきっていないかもしれない。
「そうですよ。うちの孫を見習いなさいな」
香子も孫娘に同調するが、その意図は少し違うようだった。
「ほらほら、この大きな胸。私がたくさん食べさせた賜物ですよ」
陽気な口調でそんなことを言う。
「もう! おばあちゃんやめてよ!」
凪が恥じらいの声をあげた。
「おほほほほ。比呼さん、胸の大きな娘はお好きですか?」
しかし、香子は凪の静止を全く意に介していない。
「答えなくていいからね、比呼」
「う、うん」
比呼は思わず凪のふくよかな胸元に目をやりそうになって、慌てて視線を逸らした。
「比呼がいっぱい食べても、でっぷり太らない限り胸は大きくならないし!」
「あらあら、そうでした」
下世話な話も日常会話。凪は声を荒げつつも、本気で怒っている様子はないし、食卓の楽しい雰囲気は壊れていない。明るい空気に包まれて、比呼は笑みを浮かべた。
――ここにとどまってよかった。
心からそう思った。
「もう! 比呼までニヤニヤしないでよ!」
比呼の表情を見咎めた凪が、垂れ眉の眉間にぐっと力を入れている。
「ごめんごめん」
比呼は謝罪して、笑顔を消した。
「……ふ」
しかし、真顔を保つのは数秒が限界だ。笑顔を隠すのがこんなに難しいなんて知らなかった。
「ごめん。凪と香子さんの会話が漫才みたいにおもしろいから」
比呼はできる限りうつむいて、表情が凪に見えないようにした。
「もう……」
凪は少し照れた顔をしながら、肩を落としてため息をついている。
「楽しいときは遠慮なく笑ってくださいな」
香子はまるで手本を見せるように、にっこりと歯を見せて笑った。
「ありがとうございます」
中州の冬はとても寒いのに、人の心は凍りつくことを知らない。この食卓も、この町も。
「かまくらつくる人、こ~の指と~まれ!」
大きな子どもの声が、大通りを駆け抜けていく。それを追いかける高い声に笑い声。
「あ、そうそう。ごはんが終わったら、一応足を見せてね。屋根から落ちた時、気づかずに挫いてる可能性もあるから」
凪の細やかな気遣いは、医師として身に付けたのだろうか。
「屋根から落ちたんですか? あらあら。どうりで大きな音がしたと思いました」
ふふふと笑う老婆と、
「笑ったら比呼に悪いでしょ!」と祖母に怒る凪。
「いや、僕が間抜けだったので……」
比呼の口元にも照れた笑いが浮かんだ。
三人で食卓を囲んで笑い合う。意味も目的もない会話に花を咲かせ――。祖国では経験したことのない家族の団らんに、鼻の奥が痛くなって、比呼は慌てて思考を中断した。こんなところで泣いては、みんなを驚かせてしまう。
この温もりが町を覆い尽くすくらい広がる日は来るのだろうか。どうすれば、人々の信頼が得られるだろう。人の心に入り込み取り入るのは、かつて「暗鬼」と呼ばれていた比呼の得意分野だったはず。それなのに、今となっては何もわからない。
「おっちょこちょいな殿方も、かわいらしくて素敵ですよねぇ。ねぇ、凪」
「どう答えても比呼が困りそうな質問しないでよ、もぅ!」
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中州の冬は始まったばかりだ。
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