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第二部 - 三章 龍の領域
三章十節 - 水晶池
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この日は陽が落ちはじめるまで作業したにも関わらず、進めたのは半里(二キロメートル)にも満たない距離だった。しかし、悲観してはいけない。
辰海は石室の前まで戻ると、一度その中に入り、奥の泉から手ごろな石を一つ拝借してきた。石室内では暗くて見えなかったが、赤い夕陽にかざせばわかる。透明に透き通った上質な水晶だ。きっとこの場所を作った人々にとって、希少な宝であったに違いない。
「申し訳ありませんが、お借りします」
そう呟いて許しを請い、辰海は小刀の背を水晶でこすって火を起こした。使い慣れた火打石とは勝手が違って少し手間取ったが、金属と硬い石をこすり合わせれば火花が散る。それを松葉に移し木の葉、小枝へと火を大きくしていく。あたりが宵闇に染まりつつある中で火を見ていると、少しだけ安心した。
焚き火で山菜をあぶり、栗を焼く。粗末な食事だが、腹は膨れた。最後に持っていた砂糖菓子をひとかけら口に放り込むと、強烈な甘さに疲れた脳が覚めるようだった。
――あー、なに一人でええもん食べとんよ!
官吏の仕事の合間にこれを食べるところを与羽に見とがめられて、奪われたのは一度や二度ではない。幸せな思い出とともに、辰海は口の中で解けていく甘さを噛みしめた。少しくらいなら、泣いてもいいだろうか。
辰海は膝を強く抱え込んだ。
「与羽……」
彼女の記憶は、辰海を孤独にするが、元気付けもする。彼女の無邪気さは、辰海の心をあたたかくしてくれる。
――君を好きで良かった。
心の中でつぶやいて顔を上げた。高く昇った月明かりが、あたりの稜線を灰色に浮かび上がらせている。石室が陰になっているため、こちらに月光が射すのはもうしばらく先だろう。明日のために今日は早く休みたいが、もう一つだけ――。
辰海は昼間に拾っておいた平らな石のくぼみに、松脂や松かさ、小枝を乗せて簡易的な手燭を作った。そこに焚き火の炎を移せば、持ち運びできるあかりの完成だ。屋敷で使っている油式のものほど長持ちしないが、しばらくの間あたりを照らせる。
それを持って、辰海は石室の奥へ向かった。
初めて光のある状態で確認するそこは、やはり奥に行くほど徐々に広くなっている。左右が二間(約三.六メートル)、高さは一間半(約二.七メートル)ないくらい。辰海が上に手を伸ばして跳べば、天井に手が届きそうだ。ちょっとした儀式を行うには十分な広さだろう。
滑らかに整えられた壁や天井に装飾の類はない。そして石室の最奥には自然の岩肌。岩には小さなひびが無数に入り、水が少量滲み出している。
それを受けているのが手前にある人工の泉だ。大きな岩を削って作った底には、水晶や黒曜石が敷き詰められていた。手燭の明かりに照らされて、水面や宝石がキラキラ輝くさまは幻想的で、昔の人々がこの水源をどれほど大事にしていたかうかがえた。ただ、泉には三分の一ほどしか水が溜まっておらず、石室の脇に掘られた水路の入り口まで水面が届いていない。かつてはそこに湧水が流れ、外の枯れ川を満たしていたのだろうが……。
辰海は水晶池の水でのどを潤したあと、両手ですくった水を石室脇の水路に流してみた。しかし、水路は長い間乾燥していたようで、水のほとんどが岩の継ぎ目に消え、石室の外まで流れ出ることはなかった。
「…………」
――枯れてしまった。
月主はそう言って、涙を流していた。ここは、彼にとって大切な場所に違いない。だから、与羽の姿を借りて、辰海をここに導いた。
月主と、岩と、水。それから思い浮かぶ伝説は一つしかなかった。
荒ぶる悪神であった月主を山に変じた土主が閉じ込めた。彼らの父である祖龍――空主は月主をいさめ、自分の過ちに気づいた月主の涙が天駆や中州を流れる月見川の源流になっている。ここがその伝説に語られる場所なのだろうか。今の辰海に確かめるすべはない。
岩肌を伝う水をしばらく目で追ったあと、辰海は懐から横笛を取り出した。そっと口を当てると、ゆっくりと吹きはじめる。奏でるのは先ほど思い浮かべた、月主の物語。恐ろしくも、もの悲しい、月の神へ……。
――今僕にできるのは、これしかないから。
辰海は石室の前まで戻ると、一度その中に入り、奥の泉から手ごろな石を一つ拝借してきた。石室内では暗くて見えなかったが、赤い夕陽にかざせばわかる。透明に透き通った上質な水晶だ。きっとこの場所を作った人々にとって、希少な宝であったに違いない。
「申し訳ありませんが、お借りします」
そう呟いて許しを請い、辰海は小刀の背を水晶でこすって火を起こした。使い慣れた火打石とは勝手が違って少し手間取ったが、金属と硬い石をこすり合わせれば火花が散る。それを松葉に移し木の葉、小枝へと火を大きくしていく。あたりが宵闇に染まりつつある中で火を見ていると、少しだけ安心した。
焚き火で山菜をあぶり、栗を焼く。粗末な食事だが、腹は膨れた。最後に持っていた砂糖菓子をひとかけら口に放り込むと、強烈な甘さに疲れた脳が覚めるようだった。
――あー、なに一人でええもん食べとんよ!
官吏の仕事の合間にこれを食べるところを与羽に見とがめられて、奪われたのは一度や二度ではない。幸せな思い出とともに、辰海は口の中で解けていく甘さを噛みしめた。少しくらいなら、泣いてもいいだろうか。
辰海は膝を強く抱え込んだ。
「与羽……」
彼女の記憶は、辰海を孤独にするが、元気付けもする。彼女の無邪気さは、辰海の心をあたたかくしてくれる。
――君を好きで良かった。
心の中でつぶやいて顔を上げた。高く昇った月明かりが、あたりの稜線を灰色に浮かび上がらせている。石室が陰になっているため、こちらに月光が射すのはもうしばらく先だろう。明日のために今日は早く休みたいが、もう一つだけ――。
辰海は昼間に拾っておいた平らな石のくぼみに、松脂や松かさ、小枝を乗せて簡易的な手燭を作った。そこに焚き火の炎を移せば、持ち運びできるあかりの完成だ。屋敷で使っている油式のものほど長持ちしないが、しばらくの間あたりを照らせる。
それを持って、辰海は石室の奥へ向かった。
初めて光のある状態で確認するそこは、やはり奥に行くほど徐々に広くなっている。左右が二間(約三.六メートル)、高さは一間半(約二.七メートル)ないくらい。辰海が上に手を伸ばして跳べば、天井に手が届きそうだ。ちょっとした儀式を行うには十分な広さだろう。
滑らかに整えられた壁や天井に装飾の類はない。そして石室の最奥には自然の岩肌。岩には小さなひびが無数に入り、水が少量滲み出している。
それを受けているのが手前にある人工の泉だ。大きな岩を削って作った底には、水晶や黒曜石が敷き詰められていた。手燭の明かりに照らされて、水面や宝石がキラキラ輝くさまは幻想的で、昔の人々がこの水源をどれほど大事にしていたかうかがえた。ただ、泉には三分の一ほどしか水が溜まっておらず、石室の脇に掘られた水路の入り口まで水面が届いていない。かつてはそこに湧水が流れ、外の枯れ川を満たしていたのだろうが……。
辰海は水晶池の水でのどを潤したあと、両手ですくった水を石室脇の水路に流してみた。しかし、水路は長い間乾燥していたようで、水のほとんどが岩の継ぎ目に消え、石室の外まで流れ出ることはなかった。
「…………」
――枯れてしまった。
月主はそう言って、涙を流していた。ここは、彼にとって大切な場所に違いない。だから、与羽の姿を借りて、辰海をここに導いた。
月主と、岩と、水。それから思い浮かぶ伝説は一つしかなかった。
荒ぶる悪神であった月主を山に変じた土主が閉じ込めた。彼らの父である祖龍――空主は月主をいさめ、自分の過ちに気づいた月主の涙が天駆や中州を流れる月見川の源流になっている。ここがその伝説に語られる場所なのだろうか。今の辰海に確かめるすべはない。
岩肌を伝う水をしばらく目で追ったあと、辰海は懐から横笛を取り出した。そっと口を当てると、ゆっくりと吹きはじめる。奏でるのは先ほど思い浮かべた、月主の物語。恐ろしくも、もの悲しい、月の神へ……。
――今僕にできるのは、これしかないから。
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