7 / 201
第一部 - 一章 中州の龍姫
一章六節 - 暗殺者の葛藤
しおりを挟む* * *
辰海の言った通り、数日後に中州の文官を名乗る男性が訪ねてきた。しかし、無一文の暗鬼が借家を借りるのは難しいらしい。それはそうだ。いくら善意あふれる中州城下町と言えど、家賃が払えるかどうかわからない人に部屋を貸す大家はいない。
そうなると方法は二つ。自分で大家に直接交渉して住む場所を探すか、複雑な審査を受けて国の補助金を得て暮らすか。ただ、暗鬼に時間のかかる審査を受ける余裕はない。早く「仕事」に取りかかる必要があるからだ。
少しだけ、困ったことになった。花街や賭場などに、住み込みで働かせてくれる場所はないだろうか……。
そんなことを計画していた彼を引き留めたのは、暗鬼が一番最初に「お人よし認定」をした女性、凪だった。
「そんなに城下町に住みたいんだったら、うちに住み込んで手伝って」と言うのだ。
「え? いいんですか?」
暗鬼は目を丸くしてみせた。
「いいよ。薬師はいつも人手不足だから。住み込んでくれたら、夜の急患対応も楽になるし。そのかわり、しっかり薬のお勉強してもらうけど」
「ありがとうございます!」
暗鬼は笑顔でお礼を言った。
こんなにあっさり、順調に物事が進んで大丈夫なのだろうか。不安になってしまう。何か大事なものを見落としているのではないか。罠にかけられているのではないか。
彼らの善意の裏はいまだによく見えない。凪の場合は、人手が欲しいからだろうか? それならば与羽は――? わからない。世間知らずな姫君の気まぐれだろうか。
考える時間は、まだあるはずだ。
中州では、時間がゆっくり流れる。
昼は凪とともに薬師家を訪れるけが人や病人の治療や訪問診療を行う。夜は熱を出した子どもや、けがをした大人がいつ来ても大丈夫なように準備しつつ、眠る。
凪の得意先には中州城もあり、与羽に案内された場所よりも奥に入ることができた。彼女は足の悪い先代中州城主――舞行のもとにも四日に一回ほどの頻度で通い、腰やひざに灸をすえているのだ。
二人目の標的。動きの鈍い老人である上に、施術中の部屋には凪と舞行、そして暗鬼しかいない。油断しきった彼らの喉をかききるなど、造作ない。
任務成功へ一歩前進。
与羽に関しても、城や城下町でよく合うので、徐々に習慣や嗜好がわかりはじめた。まだ最後の標的中州城主にだけは会えていないが、凪とともに頻繁に城に立ち入るようになったおかげで、どこにいるのかおおよその見当はついた。
さらにもう一歩。二歩。そろそろ、動かなくてならない。
ぬるま湯につかっているような、平和な日々は新鮮でとても気持ち良いものだったが、暗鬼にはどうしてもやらないことがあるのだ。
それが、自分の命と居場所を守るために、不可欠だから。
暗鬼は前を機嫌よく歩く少女を見た。頭の高い位置で一つに束ねた黒髪は、いつものように青と黄緑にきらめいている。彼女は時々薬師家を訪ね、城下町の地理に不慣れな暗鬼を連れ出してくれるのだ。
むき出しになった彼女の首筋に刃をたてるなど、とても容易なことのように感じられた。ただし、今そんなことをすれば、暗鬼の後ろを歩く与羽の護衛に叩き斬られるだろうが……。
「?」
暗鬼の視線に気づいたのか、与羽が振り返った。
「どこか行きたいところある?」
わずかに首を傾げてそう尋ねてくれる。油断しきった彼女の顔に、暗鬼は目を細めた。
「いえ」
首を横に振る。笑みを作ろうとしなくても、最近は自然に笑えるようになった。与羽といる時は、ほぼいつも表情が緩んでいるかもしれない。
本当は、仕事を行うにあたって確認しておきたい場所がいくつかある。しかし、それは暗鬼一人の時でも見られる。与羽といる時は、彼女に連れ回されるのも悪くない。
与羽は城下町中を案内してくれた。城下町の大通り沿いには、大きな商家や学問所、道場などが立ち並び、一本路地を入れば、より庶民向けの小さな商店や工房などが存在する。城下町北部は住宅が多く、南部は飲食店や娯楽に関係する施設が多い。しなを作って呼んでくる若い女性にあいさつを返しながら花街を闊歩する与羽の姿は、暗鬼の予想していた中州国の姫君像を見事に打ち壊した。
「おすすめのこい焼きやさんに寄って行こう」と今日の与羽は、大通りを折れて、狭い路地に入った。
こい焼き? なんだろう? 暗鬼の脳裏に大きな鯉が丸焼きにされている光景が浮かんだ。
与羽が案内したのは、横長の大きな窓の前だった。そこにかけられた古びたのれんは、元は橙(だいだい)色だったのだろうが、今は色あせて白に近い。そこを営んでいるのも、のれんと共に生きてきたような老婆だった。
「こんにちは!」と元気にあいさつした与羽は、耳が遠い彼女のために指で三と示して、「こい焼き、三つください!」と大声で注文する。
「あい、三つね」
老婆はしわがれた声でそう言って、部屋の奥に行くとそこで作業をはじめた。何かを網において焼いているようだ。やはり鯉の丸焼きかと思ったが、漂ってくる甘い匂いが違うと告げている。
しばらくして、老婆は紙の包みを持って窓の前に戻ってきた。
「ひとつは若いお兄さんにおまけしとくのぅ。もうひとつは与羽ちゃんに――」
老婆は三つ分だけ代金をもらい、「いつもありがとう」と言いながら、丁寧に包みを手渡した。この中に「こい焼き」が入っているのだろう。
「ありがとうございます!」
与羽は無邪気な笑みを浮かべて、礼を言う。幼い子どものように。彼女は姫君らしく横柄な時もあるが、感情豊かで元気だ。
「はい、ユリ君どうぞ」
大通りに戻りながら、与羽は包みを開け、中のこい焼きを渡してくれた。魚の形に焼かれたまんじゅうだ。
「これがこい焼き? たい焼きじゃなくて?」
それはどう見ても華金では「たい焼き」と呼ばれている菓子だった。
「鯛って、海におる赤色したお魚だっけ?」
与羽が首をかしげる。そういえば、中州は海から遠い内陸の国だ。
暗鬼ははっとした。失言だった。気を抜いていた。暗鬼は華金と中州の国境付近にある、滅びた貧村の出身という設定だ。「たい焼き」などという嗜好品、知っているはずがない。
「そうです。華金で鯛はめでたい魚だそうで、お魚の形をしたお饅頭をたい焼きと呼ぶのだそうです。以前徴兵されたときに、都近くから来た人に聞いてずっと食べてみたいと思っていたのですが、まさかこんな形で出会えるなんて。――あ、でもこれは『こい焼き』なんですよね」
そう興奮した様子で言って、暗鬼は与羽が差し出すこい焼き二つを受け取った。これで、ごまかせただろうか……?
「そういえば、雷乱も『たい焼き』がどうとか昔言っとったっけ?」
納得したのか、まだいぶかしんでいるのか、与羽は後ろをついて歩く護衛官を振り返る。そういえば、彼も暗鬼同様華金出身だったか。それなのになぜ姫の護衛をやっているのか。謎だ。
「……昔の話だ」
雷乱は地鳴りのように低い声でそれだけ言って、そっぽを向いてしまった。
「こいつも昔いろいろあったらしい」
与羽はそれだけ暗鬼に教えると、自分の分のこい焼きを口に運んだ。こい焼きを三つ頼んだのは、自分が二つ食べるためだったらしい。
暗鬼も思い出したようにこい焼きを口に運ぶ。一口目から甘さ控えめのつぶあんが詰まっていた。生地は柔らかくて、ほんのり甘い。
「おいしい!」
暗鬼は叫ぶように言った。表情は――、大丈夫だ。笑わなければと思う前から、笑顔になっている。想定よりも大きな声を出してしまったので、暗鬼は恥ずかしがるように肩をすくめた。与羽は「その気持ち分かるよ」とでも言うようにうなずいている。
「良かった。こい焼き、気に入ってもらえて」
与羽はこい焼きを三つ、いっきにたいらげて、幸せそうに笑う。
甘いこい焼きをかじりながら、暗鬼はもう少し暗殺を先延ばしにしようと思った。
――もう少しだけ。
国にもどれば、お金には不自由しないし、仕事の合間にはまとまった休暇がある場合も多い。華金王の「影」としての仕事は命がけだが、見返りも十分にある。早く仕事を終わらせて、安全な隠れ家で過ごせばいいはずなのに、ここの暮らしは何と表現すればいいのかわからないが――。だめだ。先ほどの「たい焼き」失言で動揺したせいか、思考がまとまらない。
――もう少しだけ、こうやっていたい。
なぜだかわからないが、そう思った。生地にはちみつを混ぜているらしいこい焼きの甘さが、体に染み渡る。
――あと一週間だけ。
暗鬼はそう思った。
そうしたら、今度は必ず、標的の三人を殺す。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
異世界で快適な生活するのに自重なんかしてられないだろ?
お子様
ファンタジー
机の引き出しから過去未来ではなく異世界へ。
飛ばされた世界で日本のような快適な生活を過ごすにはどうしたらいい?
自重して目立たないようにする?
無理無理。快適な生活を送るにはお金が必要なんだよ!
お金を稼ぎ目立っても、問題無く暮らす方法は?
主人公の考えた手段は、ドン引きされるような内容だった。
(実践出来るかどうかは別だけど)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】聖騎士は、悪と噂される魔術師と敵対しているのに、癒されているのはおかしい。
朝日みらい
恋愛
ヘルズ村は暗い雲に覆われ、不気味な森に囲まれた荒涼とした土地です。村には恐ろしい闇魔法を操る魔術師オルティスが住んでおり、村人たちは彼を恐れています。村の中心には神父オズワルドがいる教会があり、彼もまた何かを隠しているようです。
ある日、王都の大司教から聖剣の乙女アテナ・フォートネットが派遣され、村を救うためにやって来ます。アテナはかつて婚約を破棄された過去を持ち、自らの力で生きることを決意した勇敢な少女です。
アテナは魔人をおびき出すために森を歩き、魔人と戦いますが、負傷してしまいます。その時、オルティスが現れ――
悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業
ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/fantasy.png?id=6ceb1e9b892a4a252212)
領主にならないとダメかなぁ。冒険者が良いんです本当は。
さっちさん
ファンタジー
アズベリー領のミーナはとある事情により両親と旅をしてきた。
しかし、事故で両親を亡くし、実は領主だった両親の意志を幼いながらに受け継ぐため、一人旅を続ける事に。
7歳になると同時に叔父様を通して王都を拠点に領地の事ととある事情の為に学園に通い、知識と情報を得る様に言われた。
ミーナも仕方なく、王都に向かい、コレからの事を叔父と話をしようと動き出したところから始まります。
★作品を読んでくださった方ありがとうございます。不定期投稿とはなりますが一生懸命進めていく予定です。
皆様応援よろしくお願いします
魔法使いと彼女を慕う3匹の黒竜~魔法は最強だけど溺愛してくる竜には勝てる気がしません~
村雨 妖
恋愛
森で1人のんびり自由気ままな生活をしながら、たまに王都の冒険者のギルドで依頼を受け、魔物討伐をして過ごしていた”最強の魔法使い”の女の子、リーシャ。
ある依頼の際に彼女は3匹の小さな黒竜と出会い、一緒に生活するようになった。黒竜の名前は、ノア、ルシア、エリアル。毎日可愛がっていたのに、ある日突然黒竜たちは姿を消してしまった。代わりに3人の人間の男が家に現れ、彼らは自分たちがその黒竜だと言い張り、リーシャに自分たちの”番”にするとか言ってきて。
半信半疑で彼らを受け入れたリーシャだが、一緒に過ごすうちにそれが本当の事だと思い始めた。彼らはリーシャの気持ちなど関係なく自分たちの好きにふるまってくる。リーシャは彼らの好意に鈍感ではあるけど、ちょっとした言動にドキッとしたり、モヤモヤしてみたりて……お互いに振り回し、振り回されの毎日に。のんびり自由気ままな生活をしていたはずなのに、急に慌ただしい生活になってしまって⁉ 3人との出会いを境にいろんな竜とも出会うことになり、関わりたくない竜と人間のいざこざにも巻き込まれていくことに!※”小説家になろう”でも公開しています。※表紙絵自作の作品です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
恋は、終わったのです
楽歩
恋愛
幼い頃に決められた婚約者、セオドアと共に歩む未来。それは決定事項だった。しかし、いつしか冷たい現実が訪れ、彼の隣には別の令嬢の笑顔が輝くようになる。
今のような関係になったのは、いつからだったのだろう。
『分からないだろうな、お前のようなでかくて、エマのように可愛げのない女には』
身長を追い越してしまった時からだろうか。
それとも、特進クラスに私だけが入った時だろうか。
あるいは――あの子に出会った時からだろうか。
――それでも、リディアは平然を装い続ける。胸に秘めた思いを隠しながら。
※誤字脱字、名前間違い、よくやらかします。ご都合主義などなど、どうか温かい目で(o_ _)o))9万字弱です。珍しく、ほぼ書き終えていまして、(´艸`*)あとは地の文などを書き足し、手直しするのみ。ですので、話のフラグ、これから等にお答えするのは難しいと思いますが、予想はwelcomeです。もどかしい展開ですが、ヒロイン、ヒロイン側の否定はお許しを…お楽しみください<(_ _)>
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
かぐや姫の雲隠れ~平安乙女ゲーム世界で身代わり出仕することとなった女房の話~
川上桃園
恋愛
「わたくしとともに逝ってくれますか?」
「はい。黄泉の国にもお供いたしますよ」
都で評判の美女かぐや姫は、帝に乞われて宮中へ出仕する予定だった……が、出仕直前に行方不明に。
父親はやむなくかぐや姫に仕えていた女房(侍女)松緒を身代わりに送り出す。
前世が現代日本の限界OLだった松緒は、大好きだった姫様の行方を探しつつ、宮中で身代わり任務を遂行しなければならなくなった。ばれたら死。かぐや姫の評判も地に落ちる。
「かぐや姫」となった松緒の元には、乙女ゲームの攻略対象たちが次々とやってくるも、彼女が身代わりだと気づく人物が現われて……。
「そなたは……かぐや姫の『偽物』だな」
「そなたの慕う『姫様』とやらが、そなたが思っていた女と違っていたら、どうする?」
身代わり女房松緒の奮闘記が、はじまる。
史実に基づかない、架空の平安後宮ファンタジーとなっています。
乙女ゲームとしての攻略対象には、帝、東宮、貴公子、苦労人と、サブキャラでピンク髪の陰陽師がいます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる