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第一章
第15話/Ultimate Offering
しおりを挟む外観の予想通り、部屋の中も手狭だった。テープで補強された窓ガラスは、街灯の灯りを透かして灰色に輝いている。
だがそれ以上に驚いたのは、その生活感のなさだ。殺風景な屋内には、小さな鏡にいくつかの化粧品がある以外、何も置かれていなかった。
「……きみは、本当にここで暮らしているのか?」
「うん?まあ、そうね。ほとんど帰ってこないけど」
なるほど、それでか。それにしても、質素すぎる気もするが。
「ねえ。つっ立ってないで、そっちに洗い台があるでしょ。そこで下ろして」
おっと、そうだな。
俺が壁際の流しの前でアプリコットを下ろそうとすると、またも彼女に違うわよ、と止められた。
「そっちじゃないわ。上にのせて頂戴」
「え?上って、流し台にか?」
アプリコットは俺の腕の中で、こくりとうなずいた。
俺はそっとダンボールを持ち上げる。彼女はするりと箱を抜け出すと、台の上へ腰を下ろした。身軽だな。しなやかな動作は猫そのものだ。
……あれ?手元のダンボールを見下ろす。俺はてっきり、お尻がはまりこんでいると思っていたんだがな。抜けようと思えばいつでも抜け出せたのか……?
シュルリ。ぱさ。
そんなことを考えていると、目の前に白い布切れが落ちてきた。
なんだこれ。視線を上げると、そこには服を脱ぐアプリコットがいた。じゃあ、目の前のこれは……パンツ!
「おい!なにやってんだよ!」
「なにって、お風呂よ。あんたが勝手にのぞいたんじゃない」
「はあ!?風呂?」
理解が追い付かない俺をよそに、アプリコットは着ていたドレスもぽーんと放り投げてしまった。これで完全にすっ裸だ。
「こう見えてもね、あたしって結構金欠なの。シャワー付きの部屋を借りれないくらいにね。ここのいいところは、流し台が広いとこよ」
そう言うと、彼女は蛇口をひねった。え、本気でここで風呂に入るつもりなのか?ただのシンクだぞ。
「冷たっ」
蛇口から出た水が、アプリコットの爪先を濡らす。給湯器は……ついてないよなぁ。
「なあ、寒いんじゃないか。無理しなくても、湯を沸かすとか……」
「水がもったいないでしょ。それに、早くきれいにしたいし」
そう言ってアプリコットは、パシャパシャと体に水をかけ始めた。目のやり場に困った俺は、彼女の桃色の髪に視線を移した。
彼女のふわふわだった髪は、今はベタベタと汚れている。ゴミに突っ込んだからか?すえたような、生臭いにおいも漂っていた。いったい今夜、なにがあったのだろう?
「んっ……ん~っ」
「……それじゃあ、洗いづらいだろ」
俺は、片手を必死に伸ばして、窮屈そうに背中を洗うアプリコットを見かねて言った。
「言っとくけど、触らせないからね。お背中流しましょーなんて、冗談じゃないわ」
ま、そうなるよなぁ。せめてスポンジでもあれば……俺はダメ元で上着のポケットをまさぐる。しかし、ここに来た初日にスられて、もう何も残ってない……
「ん ?」
胸ポケットに、何かが入っている。そっと手を差し込んでみると、中には白いハンカチが入っていた。可愛らしいレースがあしらわれた、女物のハンカチだ。
(なんだこりゃ。俺のか?)
俺ってこういう趣味だったのか……?い、いや。とりあえず今は置いておこう。
「アプリコット。ほら」
「は?なにそれ、ハンカチ?」
「これなら、触れないだろ?」
俺が得意げに言うと、アプリコットは心底あきれた顔をした。
「……あんた、屁理屈言えばなんでも通ると思ってるでしょ」
俺が黙って肩をすくませると、アプリコットはでっかいため息をついた。
「はあぁ~……もういいわ、バカらしくなっちゃった。ほら」
そう言うとアプリコットは、長い髪を片側に寄せて背中をさらした。お許しが出たらしい。
俺はハンカチを水に濡らすと、肉の薄い背中をそっと拭きはじめた。
(……酷いな)
アプリコットの体には、あちこちに無数の傷が刻まれていた。火傷のような跡、切りつけられたような筋傷、蛇のように這う赤い腫れ……冷たい水が傷に染みるだろうに、彼女は一言も発さなかった。彼女がそれだと、俺も何も言えない。いろいろ聞きたいことはあったが、お互い無言のまま……水道からこぼれる水だけが時間と共に流れていった。
それから、数分ほどしただろうか。アプリコットは髪を掻き上げると、蛇口をきゅっと閉めた。
「ふう。もういいわ。ほら、どいて」
俺が一歩後ろに下がると、彼女はぴょんとシンクから飛び降りた。
「ほっと」
アプリコットは濡れた足をピチャピチャいわせながら、部屋の真ん中でぶるる、と体を震わせた。猫が水をはらうしぐさにそっくりで、俺は思わず小さくふき出してしまった。
「ぶくっ……」
「あによ」
「いいや。なんでもないよ」
ゴホン、ごほん。わざとらしくせき込む俺を、アプリコットは胡散臭そうに睨んでいた。しかし彼女はそれきり何もせず、その場に座り込んでしまった。
ポトリ。濡れた前髪から、時おり水滴がしたたる。彼女は何をするでもなく、ぼんやり虚空を見つめていた。
「おい、アプリコット?」
「……なによ」
「いや。なにしてるんだよ」
「そうね……」
「いや、そうねじゃなくて……」
アプリコットはぼけーっと、体育座りした膝にあごを乗せている。まともに喋る気力すら残ってないのだろうか。
「……せめて、体くらいふけよ。タオルは?」
「ないわ」
へ?いやまあ、確かにこの部屋にタンスは見当たらないが。
「じゃあ、着替えは?」
俺の問いに、アプリコットはぴっ、と脱ぎ捨てられたボロボロのドレスを指さした。冗談だろう、替えの服すらないらしい。
「こんなとこで、よく生活できてたな……」
仕方ない。俺はスーツのジャケットを脱ぐと、アプリコットにばさっと放りなげた。
「わぷっ。なにすんのよ!」
「そんなのでも、無いよりましだろ。貸しておく」
アプリコットはきょとんとして、俺のジャケットを見下ろしている。
たぶん、あの大きな店になら替えの衣装くらいたくさんあるのだろう。けれどあのボロ着じゃ、外を出歩くこともできないだろうしな。
「次からは、せめてタオルくらいは買っとけよ。じゃあな」
若い娘(それも全裸)の部屋に、男がいつまでも長居しちゃまずいだろ。世間的にも、精神衛生上でも。それに……
(聞きたいことは、いろいろあるけどな)
あの傷の理由や、屋台のオヤジが言ってた黒幕のこと。だけどこんなひどい目に遭った夜に、根掘り葉掘り聞くのも悪いかと思ったのだ。ウィローあたりには、甘いと怒られそうだけど。
俺が扉を開けようとしたその時、背後からアプリコットが声をかけた。
「待ちなさい」
「え?」
俺を呼び止めた彼女は、だがこちらを見ようとはせずに続けた。
「あんたにまだ聞いてないことがあるのよ」
「聞いてないこと?」
なんだろう?いままでそんなそぶりも見せなかったのに。
「なんだよ、聞いてないことって」
「さあて、なんだったかしら。ど忘れしちゃったわ」
「はぁ?」
「ちょっと待ってなさいよ。今思い出すから。困ったわねー、なんだったかしらー」
それだけ言うと、アプリコットはまた黙ってしまった。え、いや、どういうことだ?
彼女は俺のジャケットを肩にはおり、宙を見つめている。うーん……少し待つか。俺は混乱しながらも床に腰を下ろすと、沈黙を続ける彼女の返事を待った。
それから五分くらいが経った。
「……」
十分が経った。
「……なあ、まだなのか?」
「ええ。あと少しで出そうなんだけど」
「そうか……」
三十分が経った。
「……おい」
「おかしいわね。喉元まで出かかってるのに」
そう言うアプリコットは、濡れた髪をくるくるいじって手遊びしていた。頭をひねってるようにはとても見えないぞ……もしかして、からかっているのか?
「なあ、本当に聞きたいことがあるのか?」
「そうよ。さっきからそう言ってるじゃない」
「じゃ、じゃあそれは何なん……」
「それが思い出せないんでしょ」
「そ、そうか」
いかん、これじゃ会話が続かない。俺は切り口を変えてみた。
「それは、その傷と関係あることなのか?」
「……」
「そもそも、どうしてそんな怪我をしたんだ?」
「……」
だんまり、か。ふぅ、手ごわいな。しょうがない、良いとか悪いは置いといて、核心に触れさせてもらおう。
「……わかったよ。じゃ、俺が勝手に推理してやる」
アプリコットは相変わらず何の反応も示さなかったが、俺はかまわず続けた。
「きみは風俗街のボスと呼ばれる、この辺一帯のご意見番だ。だが、それは表向きだけの話。実態は別の者が、その権力を握っていた」
これはさっき屋台のオヤジから聞いた話だ。
「だけど……そうだな、きみはそれが気に食わなかったんじゃないか?だから、その影の権力者に噛みついた」
アプリコットの耳がピクピクと動く。
「が、結果は惨敗。ボコボコにされてぶっ倒れていたのを、俺が見つけた……ってところだな。それが悔しいもんだから、なかなか俺に話してくれないんだ。どうだ?」
ひとしきり話し終え、俺はふうと息をついた。さあ、彼女は反応してくれるだろうか。
「……その推理だと、あたしがどうやってボスになったのか分からないわ。どうしてその黒幕とやらは直接手を出さず、あたしを顔役にしてるのかしら?」
え。そう言われれば、そうだな。
「それは、えーっと、だな」
「くす。詰めが甘いわね、見習い探偵さん?」
アプリコットはくすくす笑う。俺は頭をがしがしかいた。
「じゃあ、教えてくれよ。理由はなんなんだ?」
「あら、もう降参?もっと推理ゲームしないの?」
「……意地が悪いぜ」
「ふふふっ。ごめんなさいね、なんか駄駄こねる子どもみたいで、つい」
見習いの次は子どもかよ。もういい、何とでも言ってくれ。
アプリコットは額に張り付いた前髪を払うと、ゆっくり語り始めた。
「……まず、あたしがボスになれたのは。風俗街のみんながあたしを認めてくれたからよ」
風俗街が認めた……前後が逆ってことか。ボスになったからみんなを従えたのではなく、みんなの信頼を得たから、ボスの座に着いた。ということは、それだけ実力も確かなものってことだな。証拠に風俗街の店は、俺たちの提案を全て断った。彼女の言いつけを忠実に守っていたんだ。
「それを“あいつら”もわかってるから、あえてあたしをそのままにしたの。そのほうが何かと便利だと思ったんでしょうね」
あいつらというのは、影の黒幕のことだろう。そいつは、アプリコットを風俗街とのパイプ役として残したのか。
「そのおかげで、風俗街ではあたしたちみたいな耳付きでもある程度は自由にやれてるの。この通り、代償があるけど……」
「え?」
代償……それはつまり、彼女が傷だらけなのと関係が……?
困惑する俺をみて、アプリコットは小さなため息をついた。
「はぁ……まあだいたい想像通りよ。あたしが人身御供になってるの」
頭に稲妻が落ちたような衝撃が走った。それはつまり、アプリコットは、自分の身体を……
「それは……」
「あ、けど変な勘違いしないで。別に毎晩乱交パーティってわけじゃないわ。ただ、たまに呼びつけられるの。今夜はオイタが過ぎただけ」
そうだとしても、彼女は全身傷だらけになるような事をされていることに変わりはない。
「あたしが従順な態度を見せる限りは、あいつらもそう簡単には約束を反故にはできないわ。納めるものは納めてるしね。後はあたしがちょっと嫌な目に合えば、全部うまく回るの。そうすれば、罪もない獣人を守ることだってできる」
「いや、待ってくれよ。アプリコット、たとえ他のみんながよくても、きみが……」
「みんなが幸せなことに意味があるのよ。小さな犠牲になんて、構ってられないわ」
アプリコットはきっぱりと言い切った。
これが、彼女がプラムドンナのオーナーとなり、風俗街のボスの座を保てる理由。影の支配者の“飼い猫”となることで、見返りに獣人たちをかくまっていたんだ。
「……アプリコット。その“黒幕”ってのは誰なんだ?」
「そんなの知ってどうするのよ」
「決まってる。そいつらを……」
「ぶっつぶす。なんて言わないわよね?冗談でもそんなこと言うなら、今すぐ頭をかち割って中身を調べてあげるところだけど」
「いいや。こんな無茶は長続きしないって、きみもわかってるんだろう?」
「……」
やり手と称される彼女のことだ、気づいてないはずがない。
「万が一きみに何かあったらどうする?代わりにきみの仲間を差し出すのか?それに、連中の要求がエスカレートしてきたら?その時にきみ一人で抱えきれるのか?」
「……ええ。もちろんよ」
アプリコットは自分の手の平を見つめた。
「なら、万が一を起こさなければいいわ。自分の小便を飲めと言われたら喜んで飲んでやる。たとえ足がもげようが、腕がつぶされようが……あたしがみんなを守る。そう決めたの。あの日から……」
あの日。これはつまり、先代がいなくなった日の……彼女が“裏切られた”時のことか。
「あたしは!もう誰にも頼らないって決めたの。また裏切られるくらいなら……自分一人でなんとかしてみせる。今までだってそうやってきたんだもの、これからだって平気よ」
それはまるで、自分に言い聞かせるようだった。
「いいや、違うな。さっきも言ったが、それは無茶だ。そしてなにより、きみ自身がそう思っている」
「はっ。あたしの何が分かるっての?だいたい、何を根拠に……」
「証拠というなら、この会話が何よりの証拠じゃないか。どうして自分の秘密を俺に話した?きみからしたら、俺は裏切り者のヤクザの組員だ」
「そ。そ、それは……」
「それは、きみ自身が分かっているからだろう?このままでは破綻しかないこと、誰かの助けが必要なこと。そのために俺に話したんじゃないのか?」
「なっ。そんなわけ……っ!」
そこまで言って、アプリコットはかぁっと顔を赤らめた。どうやら、自分でも意識していなかったらしい。
「なあ、アプリコット。もし助けが必要なら、俺たち……」
「うるさい!それ以上言わないで!」
アプリコットはヒステリックに叫んだ。
「もう帰って!これ以上アンタと話すことはないわ!」
何も聞きたくないというように、耳を伏せたまま彼女は言った。
「聞きたいことがあるって言ったのはお前だろ」
「わすれた!」
「……」
そう開き直られちゃ、何も言えないんだが。
「……分かった。今日は帰らせてもらうよ。次に会った時にでも聞かせてくれ」
「ふん!次は店に来たって会ってやらないんだから」
「ふっ。そん時まで、ジャケットは預けとく。じゃあな」
俺は立ち上がった。アプリコットは、今度は何も言わなかった。
ドアノブに手をかけた時に、俺はちらりと後ろを振り返った。俺のジャケットに包まれた彼女は、そこにかすかに残った温もりにすがるよう、裾をぎゅっと押さえていた。
もしかしたら彼女は、単に人恋しかっただけなのかもしれない。たずねたい事なんて、はじめからなかったんだ。
「不器用なヤツ……」
扉がバタンと閉まってから、俺はひとりごちた。不器用で、生意気で、気まぐれで……まるで野良猫みたいな女だと、俺は思った。
そして、孤独で、どうしようもなく気高い野良猫だ。あいつを、どうにかして助けてやりたい。が、彼女の意志は固い。正攻法ではきっと彼女には響かない。
「なら……俺は、ヤクザだ」
ヤクザはヤクザのやり方で、彼女を“救わせて”もらおう。
ボロアパートを出ると、外では夜が終わりを告げようとしている。建物の合間から昇る朝日が、空を白く染め始めていた。
続く
《次回は木曜日に投稿予定です》
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