【完結】Good Friends

朱村びすりん

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第三章:毒の煙

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 ただ,一つだけ確実に分かることがある。それは,クリストファーが馬たちのことを本当に大事にしている,ということ。
 毎日毎日,一頭ずつの頭を撫で,そして表情を見て体調はいいかチェックしている。
 クリストファーは,馬の顏を一目見れば体調の良し悪しが分かるのだという。
 馬を大切に想うクリストファーを,ユイコはいつも暖かい眼差しで見ていた。
 そしていつしか,ユイコの中でクリストファーはまるで父親かのようにかけがえのない存在になっていた。森を愛し,馬を大切にし,ユイコに優しく世話をしてくれる一人の男性――。国籍も違い,赤の他人のことをこんなに想うのは初めてであった。
 クリストファーと生活を始めて1年以上が過ぎた。その間に二度,賊が森を襲おうとしたことがあったが,気配感知が優れた黒馬によりそれを阻止することができた。やはりクリストファーは凄いとユイコは思った。
 ほぼ平和な日々を過ごしている――ある日。夕飯の最中,珍しくクリストファーが話かけてきた。
「そういえば昨夜,懐かしいものを見つけた」
 と言って,彼が一枚の紙切れを差し出した。
 それは――,
「救援願い?」
「そうだ。君のお父さんとお母さんから届いたものだよ」
 その救援願書には,ユイコの名前・年齢・性別・出身地などが明記されていた。毒の煙によって,下半身が動かないことも――。
「こんなものがあるなんて,知らなかった……」
「オレは,君の両親とこの紙を通じて契約――つまり君を守ると約束したんだよ」
「そうなんだぁ」
 手書きで書かれた,乱暴な字。これはきっと父の書いた字だ。
 少しだけ,両親に会いたいとユイコは思ってしまった。
「……大丈夫。あたしにはクリスおじさんがいるもん」
 小さな声でユイコは自分にそう言い聞かせた。
「なにか言ったか?」
「なんでもない!」
 ニッと歯茎を見せてユイコは笑った。
「ところで」
 と,クリストファーは急に渋い声で驚くことを言った。
「実は,オレは君の名前を知らない」
「……えッ?」
「むしろ,分からない……」
 ユイコは固まってしまった。
 いくら会話が少ないとは言え,今まで一年以上も同じ屋根の下で生活してきたというのに――
――名前を知らない?
 ありえない話だった。
 よく考えれば,彼に一度も名前を呼ばれたことがなかった。とは言っても――
「なんでなんで? だって,この書類に名前書いてあるよ! 冗談でしょ?」
 動揺しながら,ユイコは“塚田 唯子”と漢字で書かれた部分を指差した。
 しかしクリストファーは困った顏をしながら言った。
「……読めないんだ」
 小さな声だった。
 ユイコは唖然とした。少しショックだったのである。
 出会ったとき,たしかに自己紹介はしなかった。それでも名前を知られていなかったという事実に驚きを隠せない。
 この世は全世界共通語が使われているが,文字だけは各国によって違うのだった。
 国と国によって生じる相違に少し戸惑いながらも,ユイコはここで初めて自己紹介をしようと思った――
「じゃあクリスおじさん。今から名前言うから,一回で覚えてね! あたしの名前はユイ……」
 言いかけたその時――
 突然,外から馬たちのものすごい鳴き声が聞こえてきた。
 びっくりしながら,クリストファーと共に牧場に向かった。
 すると,普段は大人しい馬たちが全面で大暴れしていた。
「一体なにが――」
 と思う間もなく,遠方に一頭,倒れ込んでいる馬がいた。しかも,辺りに血が飛び散っていた。
 それを見て,クリストファーは無言でそこに駆けていった。ユイコも車椅子で必死にそのあとを付いていく。
「おい! 大丈夫か……」
 クリストファーはしゃがみこみ,馬の首を撫でた。彼の手にも血がべっとり付着した。
「こいつは……気配感知が優れた奴だ。背中部分を銃かなにかで撃たれている……」
 クリストファーの声が震えていた。
――一体,誰がこんなことを。
 他の馬たちも異常に興奮していて,なかなか走り回るのをやめようとしなかった。
 ユイコは,衝撃を受けていた。
「クリスおじさん……」
 クリストファーはただじっとするだけで,何もしない瀕死状態の馬を,じっと見つめていた。
 動揺していると,今度はどこからか煩わしい笑い声が聞こえてきた。
「ギャハハハハハ!!」
 数十人ほどの,太い声である。そちらを向いてみると,三十人ほどの男たちが牧場の向こうで銃を持っている姿があった。見るからにそれは――賊であった。
「おじさん! クリスおじさん……ぞ,賊が……」
 牧場まで奴らが来たことがなかったため,ユイコは恐くなり,全身がぶるぶる震えた。
「……あいつら……卑怯な手を使いやがって!!」
 クリストファーは顏を真っ赤にし,これまでにないほど大声を出していた。
 凄まじい形相で,また叫んだ。

「ケアラ‐ケアラ‐!」

 “戦闘体勢”という命令をする言葉だった。

 しかし馬たちの興奮はなかなかおさまらない。
「何をしている! ケアラ‐!!」
――何とか落ち着いた馬たちは,クリストファーの周りに集結した。
 彼は無言で一頭に乗馬し,武器も持たずに駆け出した。
「クリスおじさん!」
 不安になり,ユイコは叫んだ。しかし,彼の耳には届いていないようだった。
「クリスおじさん! ダメだよ,行かないで! 行かないで!! お願い……」
 あんな数を相手にするなど,死にに行くようなものだ。
 やけくそに戦闘をしようとする彼の後ろ姿が,とても切なく――。

――行かないで

――戻ってきて

――わたしを置いていかないで。

 彼が二度と帰ってこない気がして,怖くなった。
 ユイコの体は,誰かに押さえ付けられたかのように動かない。
 馬たちを率いるクリストファーは,大声を出しながら賊に立ち向かう。そんな彼を狙う,三十もの銃口。そこから鳴り響く発射音。
 ユイコは見てしまった。
 何頭かの馬が,倒れていくのを。そして,クリストファーの体から,真っ赤な液体が飛散するのを……。
「――おじさん!!」
 ユイコが大声をあげた瞬間,クリストファーが落馬するのが見えた。背筋に寒気が走った。

――その後の記憶はあまりないが,残りの馬たちが大暴走して賊たちを撃退したのは覚えていた――

 馬たちが大人しくなったころ,ユイコは急いでクリストファーの元へ駆けていった。
「おじさん!しっかりして!」
 車椅子から降り,ユイコも倒れた状態でクリストファーの手を握る。彼の全身は,血まみれであった。
 虚ろな眼差しで,彼はこちらを向いた。
「……オレはバカだな」
 いつにもなく,弱々しい声である。
「馬が一頭傷つけられ感情的になって,賊に立ち向かってしまった。そのせいで,……君を置いていくことになるなんて」
 彼がどれほど,馬たちを大切にしているか再認識させられる――。
 クリストファーはうっすら微笑みながら,ユイコの頬に触れた。
「なに言ってるのクリスおじさん。意味わかんないよ……!」
 ユイコの手はガタガタ震えていた。
「でも良かった……最期は,大切な人を死なせずに済んだんだ……」
 クリストファーの言葉に,ユイコは何度も何度も首を横に振り続ける。
「あたし,おじさんと一緒じゃなきゃヤダよ……お願いだから最期だなんて言わないで!」
 そんなユイコの訴えも虚しく,クリストファーの息は減っていき,握る手の力も衰弱していくのが感じられた。
「君の名前を……教えてくれないか」
 クリストファーとの会話が,噛み合ってはいなかった。涙を堪え,ユイコは唾を飲み込み,ここで初めて彼に自己紹介をした。
「ユイコだよ……。あたしの名前は,ユイコ・ツカダだよ」
 それを聞いて,クリストファーは目を閉じながらゆっくりとかすれた声で言った。
「……いい名前……だな。

…………ユイ……」
 彼はそれ以上,何も言わなくなった。
 閉ざされた眼の中なから,たった一粒だけ,別れの滴が流れた。
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