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終章
サプライズ
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「おはようございます」
午後一時半。部活を終えたその足で、俺はマニーカフェに訪れた。
久々のスタッフルーム。数週間来ていなかっただけなのに懐かしい場所に思えた。エプロンを着るのにも若干手こずってしまう。
「おい、イヴァン」
休憩中の関さんが、低い声で俺を呼びかけた。
思わず体がビクッとしてしまう。この感覚も久しぶりだ。悪い気がしない。
「お前、大丈夫なのかよ」
「ご心配お掛けしてすみませんでした。……もう平気です」
平然と答えてみせるが、本音を言うと表に立つのは少しばかり緊張している。久しぶりの接客だから、というのが原因ではない。
「ですが、未だに驚いてます。まさか……あの常連客の女性が危険人物だったなんて……」
俺は呟くように言葉を漏らす。
いつもコーヒーをオーダーしていた、OL風の女性客。俺がコーヒーをこぼしても怒らなかったし、商品を渡すときにありがとうと言ってくれた。そんな人が、刃物を持ち歩いていて、さらにあんな事件を起こすなんて……。
思い返すと身震いしてしまう。俺はすぐさま頭の中から女性客の顔を打ち消した。
肩をすくめ、関さんはしんみりと話し始める。
「色んな客が来るからな。いい客がほとんどだが、中にはヤバい奴もいる。とにかく、お前もお前の友人たちも無事でよかった」
「えっ」
俺はハッとして、関さんの顔を見る。
いつもキツい目つきをしているはずなのに、このときの関さんはどこか柔らかい表情を浮かべていた。
「なんだよ」
「いえ、意外だったので」
「ああ?」
「関さんにしては、優しいなと思って」
俺の正直な感想に、関さんの眉間には瞬く間に深い皺が刻まれた。
「うるせぇ! てめぇ、舐めてんのか」
「いやいや! 決してそんなことはありません」
慌てて謝罪したが、関さんの機嫌はいつものように斜めになってしまった。なんだかこっちの方がしっくりくる。
「もうひとつ謝りたいことがあります。今後シフトを大幅に減らすことになってすみません」
「はあ。別に気にすんな。部活始めたんだろ」
「そうなんです」
「高校生のクソガキは青春を謳歌してりゃいい。柔道部だったな? 真面目にやってんのか」
「顧問と先輩にしごかれながらなんとかやってます。毎日楽しいですよ。思いがけないサプライズもありましたし」
俺は午前中の出来事を思い出し、自然と笑みがこぼれた。
──今日の部活で、俺は礼儀作法や受け身の練習をした。まだまだぎこちなくて、リュウジさんやガチ鬼からのアドバイスを受けながら何度も何度も投げられていた。
真っ白な柔道服と白帯は新品で固く、全く俺の体に馴染んでいない。それでもめげずに、繰り返し練習を続けた。
休憩時間になったときには、汗が全身から吹き出ていた。体育館内の窓が全開でも温風しか回ってこない。練習場は熱気で充満していた。
水分補給をしようと、俺は急いで水筒を手に取って蓋を開けた。
「あれ?」
……嘘だろ? 今朝、満杯のお茶を入れてきたのに。中身はほぼ空になっていた。
失敗した。500mlボトルじゃ全然足りなかったようだ。
仕方ないので、自販機で飲み物を買おうと出入り口に足を向ける。するとこのとき──見覚えのある二人の女子が、颯爽と現れたんだ。
「みんな、お疲れさまー! 飲み物、用意してきましたよー!」
明るい声が、体育館に鳴り響く。
どでかいウォータージャグを持った女子二人を目にして、俺はこれ以上ないほどに首をひねる。
「アカネ? それにサエさんも……?」
なぜ二人がここにいるんだという疑問が浮かぶ。他の部員たちも目を点にして二人を眺めているんだ。
俺と目が合うと、彼女は頬を赤らめながら微笑んでくれた。
ああ……その笑顔。たまらん。疲れが一気に吹き飛んだじゃないか。
いや。彼女の笑顔に癒されてる場合じゃないだろ、俺。しっかりするんだ。
俺は慌てて二人の元に歩み寄った。
「二人ともどうしたんだ?」
「えへへ。驚いた? あたしたち、今日から柔道部のマネージャーになったの!」
「……は?」
マネージャー? アカネは今、マネージャーと言ったのか?
頭の整理が追い付かず、俺は思考停止してしまう。
そんなさなか、ガチ鬼はその場にいた部員全員を集めてなにやら説明を始めた。
「朝のミーティングで言い忘れたが、本日付けで新しくマネージャーが二名入ることになった。一年の杉本と、二年の玉木だ」
「……なんだってっ?」
「ただし、玉木は学業を優先するため、基本的には週一のみの参加になる。メインでマネージャーの仕事をするのは一年の杉本だ。よろしく頼むぞ」
ガチ鬼が簡単に二人を紹介すると、アカネも彼女も俺たち部員に向かって軽く挨拶をした。
……て、おいおい。俺、なんにも聞いてないぞ? 二人が柔道部のマネージャーになったなんて。なんのサプライズだ、これは。
他の部員たちも突然の女子二人の登場に、ざわついている。男だらけの部活だったし、単純に喜んでる奴が大半だろう。二年の中には彼女の入部を聞いて戸惑ったような顔をする奴もいたが、敬遠している様子はない。
俺が唖然と立ち尽くしていると、お茶の入った紙コップがサッと差し出された。目の前には、こちらを見上げる彼女の優しい笑顔。
「お疲れさま、イヴァン」
「あ、ああ……」
どきまぎしながらお茶を受け取り、一気に飲み干す。冷たくてたまらなく美味しい。
でも、俺の全身は熱いままだ。
「サエさんが柔道部のマネージャーだなんて、信じられないよ」
「なによ。問題ある?」
「いや全然! むしろ嬉しい……けど、びっくりした」
俺が動揺していると、アカネがクスクス笑いながらこちらにやって来た。
「イヴァンくんのリアクション、想像以上に面白いね~」
「なんだよ、アカネ。俺はなにも聞いてなかったんだぞ……」
「うん。今日まで秘密にしてようねって、サエ先輩と話してたの」
「はあ?」
「柔道部のマネージャーになろうって誘ったのもあたしなんだ。そしたらサエ先輩、塾が休みの日なら手伝えるって言ってくれたの!」
嬉しそうに語るアカネは、以前よりも表情がキラキラ輝いていた。
「でもアカネ……チア部の練習はどうするんだよ?」
「ああー……それね。実はこの前、退部したの」
「なんだって?」
「もともと中学の先輩に誘われてチア部に入ったんだけど、あんまり自分のやりたいことじゃなかったなって。練習はガチでやってたけど、なんか意味のない交流会も多くて。交流会っていうより、合コン? みたいな。色々面倒くさかったからやめちゃった」
マネージャーの仕事にもずっと憧れてたんだよね、とアカネは嬉しそうに語った。
そうだったのか……。かなり驚かされたが──なんだかんだ二人が来てくれて、俺は嬉しい。
彼女はアカネと一緒に人数分のお茶を用意し始めた。部員たちに飲み物を配る彼女の横顔はどこか緊張していて、それでいてとても楽しそうだった。
慣れない手つきで茶を渡していく彼女の横顔が素敵だ。俺は心ともなく見入ってしまう。
「イヴァン」
と、横からリュウジさんに声を掛けられた。あたたかみのある口調で、ひとこと。
「ありがとう」
「えっ。なにがですか?」
「まさかあいつが……人と関わろうとしなかったサエが、柔道部のマネージャーになるなんてな」
タオルで汗を拭いながら、リュウジさんはその場に座り込む。いつになく柔らかい表情を浮かべているんだ。
「俺は礼を言われるようなことはなにもしてませんよ」
「いいや。お前のおかげであいつは変わったんだ。お前が柔道部に来なかったら、サエもここにはいなかった」
──それは、どうなんだろう。俺は肯定も否定もできなかった。
マネージャーに誘ったのはアカネだ。それに参加すると決めたのは彼女自身。俺はまだ柔道を始めたばかりで、ベテランのリュウジさんに投げられる毎日だ。
俺「だけ」のおかげとは言いがたい。
「みんなの、おかげじゃないですかね」
「なに?」
「サエさんがここに来たのも、それぞれの理由があったからこそです。それがたまたまチャンスをくれた。とても良い巡り合わせになったんだと俺は思います」
俺の考えに対して、リュウジさんはなにも言わなかった。ふっと鼻で笑うと、勢いよく立ち上がって帯を締め直した。
「休憩が終わったらまた練習に付き合ってやる」
リュウジさんの言葉に、俺は大きく頷いた。
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