上 下
42 / 53
第五章

混乱の中で

しおりを挟む



 桜木町駅から徒歩五分ほどの距離にある細道。ひと気が全くといっていいほどない場所。
 降りしきる雨に濡れた地面が、赤黒色に染まった。
 俺の目の前には、涙目になってなにかを叫ぶアカネ。その叫び声から逃げるように走り去っていく、刃物を持った女。
 そして、胸元から真っ赤な血を流して倒れる彼女の姿。

 ──午後二時三十八分。桜木町駅付近の路上で、通り魔事件が発生した。被害者は、横浜市内の高校に通う十六歳の女性。現場には同じ高校に通う十五歳の男女と、刃物を持った二十代半ばくらいの女がいた。
 女性を襲った犯人は、この近辺に住む無職の女。すぐに現場から逃走したが、通行人に通報され、駆けつけた警察によって現行犯逮捕された──
 このニュースは速報として大々的に報じられた。

 犯人は、俺の働くマニーカフェに常連客として訪れていた、あのOL風の女性だったんだ──



 突然すぎる出来事で、頭が混乱している。一体なにが起きたのか。どうしてこんなことになったのか。誰に聞いてもまともな答えなど返ってこない。
 俺は、ただただ茫然とするばかり。

 血まみれになった彼女は、緊急搬送された。現場に居合わせた俺とアカネも一緒に救急車に乗り込み、病院へと向かう。
 搬送中、彼女は意識があったものの、夥しい量の血を流していた。救急隊員の人たちに応急処置をしてもらっても、出血が止まらず苦しんでいた。
 救急隊員の人が彼女の名前や年齢、誕生日などを聞いてきたが、俺は上手く答えることができなかった。
 歯を食いしばり、彼女が震えながら質問に答える。
 俺は唖然と、その様子を眺めることしかできなかった。

 間もなくして病院へ到着すると、彼女はすぐさま止血処置を取るために手術室へと運ばれた。苦しむ彼女に対して、俺はひとことも声を掛けられなかった。
 慌ただしく看護師や医師が室内を出入りしている前で、俺は突っ立っているだけ。なにかしたいのに、なんにもできない。
 なんて、無力なのだろう。

 きっと、悪夢を見ているんだ。
 俺はたったさっきまで、彼女と一緒に肩を並べて帰り道を歩いていたはずだ。胸をときめかせながら電車に乗って、彼女と共に桜木町駅に降りた。幸せな時間を過ごしていたはずなんだ。
 それなのに、なんだよこれ。どうしてこんな事態になっているんだ?

「イヴァンくん。ごめん……あたしのせいで」

 閉ざされた手術室の扉を見つめるアカネは、大粒の涙を流していた。体が大きく震え、ふらついてしまうほど脱力しているようだ。

「謝るなよ。アカネだって怖い思いをしたんだ」
「でも、あたしのせいで、サエさんが……」
「違う。アカネのせいじゃない」

 アカネをソファに座らせて、俺も隣に腰かける。
 正直、俺も気が動転しているが、ここで取り乱してはダメだ。

 アカネの涙を拭いてやろうとポケットからハンカチを取り出す。彼女に返そうと思っていつまでも持っている、パンダの白いハンカチ。それが、いつの間にか赤くなってしまっていた。 
 これは──彼女のものだ。
 もう、使い物にならない。これでは弁償するしかない。
 なんで、こんなことになってしまったんだ。何度も何度も同じ疑問が頭の中で繰り返している。

 気づけば、俺のズボンもどす黒く染まっている。つんと鼻を刺すような鉄の匂いが、先ほど起きた恐怖を煽ってくるみたいだった。

 たちまち俺は「事件」の光景を思い出す──

 桜木町駅を降りて彼女の家に向かう途中、ひと気のない小道から女の絶叫が聞こえてきた。それは汚い言葉ばかりで、聞くに堪えない内容だった。
 驚いた俺たちは、叫び声がする方を反射的に覗き込んだ。
 するとそこには、下品な笑い声を上げながら刃物を振り回す女がいた。誰かに向かって怒号を投げつけていて、見るからに狂気に満ちている。
 女の視線の先を見やると、そこには、真っ青な顔で立ち尽くすアカネがいたんだ。

 ──あの光景を思い出しただけで、俺の体は強張ってしまう。
 襲われていたアカネの気持ちを考えると、いたたまれなくなる。

 ソファに座って俯くアカネは、手で涙を拭っている。けれど、いくら拭っても、溢れるものが止まることはない。俺は、ポケットティッシュをアカネに差し出した。それでも恐怖を抑えることができない。

「あたし……マニーカフェで、勉強してたの」

 声を絞り出すように、アカネは話し始めた。
 無理して話さなくてもいい、と俺が言っても、アカネは首を横に振って喋り続けるんだ。

「知らない女の人が、あたしの横に来て……急に『邪魔』って言ってきたの。びっくりして、怖かったから……あたし、勉強をやめて、店を出たんだ。その女の人ね、なぜかあたしのあとを付けてきて……」

 アカネの話を聞いているうちに、俺も動悸がした。
 嗚咽を漏らすアカネの肩をそっと支え、俺は静かに相槌を打つ。

「走って逃げようとしたら、あたし転んじゃって……。そしたら、あの女の人、鞄からいきなり刃物を出してあたしに向けてきたの。ずっと暴言を吐かれて、あのまま殺されるって思った。体が動かなくなって、どうしようもなかったときに、イヴァンくんとサエさんが通りかかったんだよ」

 なんというタイミングなんだ。あの瞬間にあの場所に俺と彼女が通りかかったことによって、アカネは助かった。そして──

「あたし、サエさんがいてくれなかったら、絶対に死んでた。だけど……そのせいで、サエさんが……」

 いち早く判断を下し、行動に移したのは彼女だったんだ。刃物を振り回す女に向かって走り出し、取り押さえようとした。しかし興奮した刃物女は、抵抗してきた。
 その反動で、彼女の胸元に刃先が当たり──

「サエさんが、大怪我しちゃった……。あたしを守ろうとして、サエさんは……!」
「もういいよ。アカネ。なにも言うな。自分を責めるのもやめるんだ」

 アカネが大声で泣き叫ぶ声が、病院内に響き渡った。
 今この場には、俺たち以外誰もいない。存分に、泣いていい。それでアカネの心が晴れることはないだろうけど、我慢することはない。

 ──彼女は、優しすぎた。他人にも手を差し伸べる、思いやりのある人。そして、勇敢すぎる女性だったんだ。
 彼女は、自分の危険をも顧みず刃物女からアカネを守った。
 それなのに俺は、なぜ彼女を止められなかった? どうして刃物女からアカネを守れなかった?
 刃物女を前にしたとき、俺の体は完全に硬直してしまった。頭が真っ白になって、なんにもできなかった。
 悔しい。悔しい。悔しくてたまらない。
 決して泣き叫ぶことはしないが、俺の心は泣き叫んでいる。
 俺は、大切な人を守ることすら出来ないのか。


 ──それから、何分、何十分が経ったのだろう。アカネは次第に落ち着つきを取り戻していった。
 静寂の時間が訪れる。
 一切の会話も交わさず、俺たちは彼女の手術が終わるのを待ち続けた。

「涵涵!」

 静まり返った空間に、突如として焦ったような叫び声が響いた。
 振り向いた先には、息を切らせてこちらを見る中年女性の姿。その隣に、スラッと背の高い男性もいる。二人は困惑した表情を浮かべていた。
 二人とも見知らぬ人たちだが、俺は彼らの雰囲気を見てなんとなく察した。

 この人たちは、彼女のご両親に違いない。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

【完結】サルビアの育てかた

朱村びすりん
恋愛
「血の繋がりなんて関係ないだろ!」  彼女を傷つける奴は誰であろうと許さない。例えそれが、彼女自身であったとしても──  それは、元孤児の少女と彼女の義理の兄であるヒルスの愛情物語。  ハニーストーンの家々が並ぶ、ある田舎町。ダンスの練習に励む少年ヒルスは、グリマルディ家の一人息子として平凡な暮らしをしていた。  そんなヒルスが十歳のとき、七歳年下のレイという女の子が家族としてやってきた。  だが、血の繋がりのない妹に戸惑うヒルスは、彼女のことをただの「同居人」としてしか見ておらず無干渉を貫いてきた。  レイとまともに会話すら交わさない日々を送る中、二人にとってあるきっかけが訪れる。  レイが八歳になった頃だった。ひょんなことからヒルスが通うダンススクールへ、彼女もレッスンを受けることになったのだ。これを機に、二人の関係は徐々に深いものになっていく。  ダンスに対するレイの真面目な姿勢を目の当たりにしたヒルスは、常に彼女を気にかけ「家族として」守りたいと思うようになった。  しかしグリマルディ家の一員になる前、レイには辛く惨い過去があり──心の奥に居座り続けるトラウマによって、彼女は苦しんでいた。  さまざまな事件、悲しい事故、彼女をさいなめようとする人々、そして大切な人たちとの別れ。  周囲の仲間たちに支えられながら苦難の壁を乗り越えていき、二人の絆は固くなる──  義兄妹の純愛、ダンス仲間との友情、家族の愛情をテーマにしたドラマティックヒューマンラブストーリー。 ※当作品は現代英国を舞台としておりますが、一部架空の地名や店名、会場、施設等が登場します。ダンススクールやダンススタジオ、ストーリー上の事件・事故は全てフィクションです。 ★special thanks★ 表紙・ベアしゅう様 第3話挿絵・ベアしゅう様 第40話挿絵・黒木メイ様 第126話挿絵・テン様 第156話挿絵・陰東 愛香音様 最終話挿絵・ベアしゅう様 ■本作品はエブリスタ様、ノベルアップ+様にて一部内容が変更されたものを公開しております。

【完結】炎の戦史 ~氷の少女と失われた記憶~

朱村びすりん
ファンタジー
 ~あらすじ~  炎の力を使える青年、リ・リュウキは記憶を失っていた。  見知らぬ山を歩いていると、人ひとり分ほどの大きな氷を発見する。その中には──なんと少女が悲しそうな顔をして凍りついていたのだ。  美しい少女に、リュウキは心を奪われそうになる。  炎の力をリュウキが放出し、氷の封印が解かれると、驚くことに彼女はまだ生きていた。  謎の少女は、どういうわけか、ハクという化け物の白虎と共生していた。  なぜ氷になっていたのかリュウキが問うと、彼女も記憶がなく分からないのだという。しかし名は覚えていて、彼女はソン・ヤエと名乗った。そして唯一、闇の記憶だけは残っており、彼女は好きでもない男に毎夜乱暴されたことによって負った心の傷が刻まれているのだという。  記憶の一部が失われている共通点があるとして、リュウキはヤエたちと共に過去を取り戻すため行動を共にしようと申し出る。  最初は戸惑っていたようだが、ヤエは渋々承諾。それから一行は山を下るために歩き始めた。  だがこの時である。突然、ハクの姿がなくなってしまったのだ。大切な友の姿が見当たらず、ヤエが取り乱していると──二人の前に謎の男が現れた。  男はどういうわけか何かの事情を知っているようで、二人にこう言い残す。 「ハクに会いたいのならば、満月の夜までに西国最西端にある『シュキ城』へ向かえ」 「記憶を取り戻すためには、意識の奥底に現れる『幻想世界』で真実を見つけ出せ」  男の言葉に半信半疑だったリュウキとヤエだが、二人にはなんの手がかりもない。  言われたとおり、シュキ城を目指すことにした。  しかし西の最西端は、化け物を生み出すとされる『幻草』が大量に栽培される土地でもあった……。  化け物や山賊が各地を荒らし、北・東・西の三ヶ国が争っている乱世の時代。  この世に平和は訪れるのだろうか。  二人は過去の記憶を取り戻すことができるのだろうか。  特異能力を持つ彼らの戦いと愛情の物語を描いた、古代中国風ファンタジー。 ★2023年1月5日エブリスタ様の「東洋風ファンタジー」特集に掲載されました。ありがとうございます(人´∀`)♪ ☆special thanks☆ 表紙イラスト・ベアしゅう様 77話挿絵・テン様

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

実力を隠し「例え長男でも無能に家は継がせん。他家に養子に出す」と親父殿に言われたところまでは計算通りだったが、まさかハーレム生活になるとは

竹井ゴールド
ライト文芸
 日本国内トップ5に入る異能力者の名家、東条院。  その宗家本流の嫡子に生まれた東条院青夜は子供の頃に実母に「16歳までに東条院の家を出ないと命を落とす事になる」と予言され、無能を演じ続け、父親や後妻、異母弟や異母妹、親族や許嫁に馬鹿にされながらも、念願適って中学卒業の春休みに東条院家から田中家に養子に出された。  青夜は4月が誕生日なのでギリギリ16歳までに家を出た訳だが。  その後がよろしくない。  青夜を引き取った田中家の義父、一狼は53歳ながら若い妻を持ち、4人の娘の父親でもあったからだ。  妻、21歳、一狼の8人目の妻、愛。  長女、25歳、皇宮警察の異能力部隊所属、弥生。  次女、22歳、田中流空手道場の師範代、葉月。  三女、19歳、離婚したフランス系アメリカ人の3人目の妻が産んだハーフ、アンジェリカ。  四女、17歳、死別した4人目の妻が産んだ中国系ハーフ、シャンリー。  この5人とも青夜は家族となり、  ・・・何これ? 少し想定外なんだけど。  【2023/3/23、24hポイント26万4600pt突破】 【2023/7/11、累計ポイント550万pt突破】 【2023/6/5、お気に入り数2130突破】 【アルファポリスのみの投稿です】 【第6回ライト文芸大賞、22万7046pt、2位】 【2023/6/30、メールが来て出版申請、8/1、慰めメール】 【未完】

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

世界一可愛い私、夫と娘に逃げられちゃった!

月見里ゆずる(やまなしゆずる)
ライト文芸
私、依田結花! 37歳! みんな、ゆいちゃんって呼んでね! 大学卒業してから1回も働いたことないの! 23で娘が生まれて、中学生の親にしてはかなり若い方よ。 夫は自営業。でも最近忙しくって、友達やお母さんと遊んで散財しているの。 娘は反抗期で仲が悪いし。 そんな中、夫が仕事中に倒れてしまった。 夫が働けなくなったら、ゆいちゃんどうしたらいいの?! 退院そいてもうちに戻ってこないし! そしたらしばらく距離置こうって! 娘もお母さんと一緒にいたくないって。 しかもあれもこれも、今までのことぜーんぶバレちゃった! もしかして夫と娘に逃げられちゃうの?! 離婚されちゃう?! 世界一可愛いゆいちゃんが、働くのも離婚も別居なんてあり得ない! 結婚時の約束はどうなるの?! 不履行よ! 自分大好き!  周りからチヤホヤされるのが当たり前!  長年わがまま放題の(精神が)成長しない系ヒロインの末路。

処理中です...