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第三章

誰にも言わないで

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 思いがけない彼女からの返答に、俺は目を見張った。
「いい」と言ったのか。言ったよな。イエスという意味で合ってる……のか?

 俺の心音はさらに騒がしくなり、煩わしくて仕方がない。

「あの、サエさん。いいって言うのは……?」
『だから、いいわよ。たまには息抜きもしたいし。お出かけ、しましょ?』

 マジか!
 俺は勢い余って、ベッドから立ち上がった。興奮しすぎて足がよろけ、そのまま床へと落ちていく。
 ドン、と、右腕を打って鈍い音が響き渡った。

「い、てぇ!」
『ちょ、ちょっとなに? どうしたの』
「いや、なんでも。床に倒れただけだ」
『はあ? 大変でしょ。怪我はしてない?』
「ぜんっぜん大丈夫!」

 普段なら一人でこけたりしない。思わぬ展開に興奮してるんだ。落ち着け、俺。

 ふうと息を深く吐き出す。平静を装い、いつ出かけるのか、どこへ行くのかを彼女と話し合った。自分でもわかるほど声が上ずってしまった。超絶にダサい。
 彼女はというと、相変わらず冷静な口調だというのに。
 日曜日は塾がないので、昼間なら出かけられると彼女は言った。今度の日曜日は俺もバイトのシフトが入ってない。トントン拍子で日付が決まった。

 場所はどこがいいかな。彼女がパンダ好きならば、動物園はどうだろう。ランチを食べて、上野動物公園のパンダに癒されに行くのもいいんじゃないか。ちょっと遠いけど、誘ってみようか。
 俺があれこれデートプランを考えていると。
 
『ねぇ、イヴァン』
「うん?」
『私、花が見たいの』
「花?」

 花見ってことか?

「今ってどんな花が見られるんだろう。俺、あんまり詳しくなくて……」
『薔薇よ』

 綺麗に咲いてると思う。そう語る彼女の声色は、とても明るい。
 画面に表情される、薔薇のアイコン。そうか、彼女は薔薇も好きなんだ。
 この数分の間で、知らなかった彼女の一面を俺はどんどん知ることができている。自然と頬が緩んだ。

 花といえば、俺の自宅マンションのベランダで、母がガーデニングを楽しんでいる。小規模ではあるが、色とりどりの花が植えられているんだ。その中に、たしか薔薇もあったっけな。
 日常的に植物が身近にある環境で育ったものの、俺は花に関しては相当疎い。
 イギリスの祖父母の家の庭にも、無数の花が彩られていた記憶がある。たしかに綺麗と感じるが、わざわざ花を見るために出かけようなんて考えたこともなかった。

 しかし、今回は別だ。彼女が望むならば、俺はなにがなんでも見に行きたいと強く思う。

「わかった。見に行こう、薔薇の花を!」
『いいの?』
「もちろん。サエさんとなら絶対に楽しめる」
『……やっぱりあなた、変わってるわね』

 彼女は電話の向こうで小さく笑うんだ。
 なんにも変わってないよ。サエさんのことが好きなんだから。俺は決して声に出して言えない台詞を、心の中に留めた。

『ひとつだけお願いがあるの』
「なんだ?」
『このことは、誰にも言わないで』

 彼女の声が、途端に暗くなった。
 ──また、それか。
 彼女はいつも、こうやって俺との関わりを周囲に知られたくないと言う。

「どうして?」
『あなたのためよ。変な風に噂を立てられたくないの。あなたと二人で出かけることもそうだし、学校内でも関わってるところを周りに見られたくない』

 ずいぶんと、真剣な口調だった。
 俺にとって、切なかったりする。そこまで徹底する必要があるのか。

 ふと、机の横に置かれたボロボロの赤い傘が目に入る。雨の日に横浜駅で拾ってから、俺は捨てられずに放置し続けていた。
 満たされない気分だったが、ここは堪えよう。なによりも彼女の気持ちを大切にしなければならない。

「わかった。誰にも言わないよ」
『……ありがとう、イヴァン』

 安堵したように、彼女の表情が柔らかくなった気がした。

『それじゃあ、日曜日ね』
「楽しみにしてるよ。勉強も無理しない程度に頑張って」

 通話が終わった後、俺は再びベッドに横たわる。だが、寝る気になどなれない。
 気持ちが昂ぶって、ワクワクして、日曜日が待ち遠しくてどうしようもなかった。
 就寝前に彼女の声を聞けただけでも幸せなんだ。気になることは多々あるが、雑念は捨てよう。

 気がつけば、どんどん彼女に夢中になっている自分がいた。誰かを好きになることは、幸せと感じることの方が多い。
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