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第三章
心のわだかまり
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嫌なことがあっても、どれだけイライラしていても、彼女と話すだけで心が穏やかになる。
彼女のひとつひとつの言葉は、重くて、深くて、俺に大事なことを教えてくれた。
昔から俺は、自分が何者なのかと悩んでいた。矛盾し続ける自身のアイデンティティに苦しめられてきた。
しかし、彼女のひとことが俺を慰めてくれた。「どこにでもいる普通の男子高校生」。初めて会った相手に、そんな風に声をかけられた経験なんてない。
偏見で物事を語らない彼女に興味を持っていかれた。俺が特別な感情を抱くようになったのも、その理由が大きいのかもしれない。
けれど、どうしても気になることがある。彼女の背中には、たびたび切なさが描かれているから。
なぜ。どうして君は本当のことを話してくれないの。
大切に想う相手だからこそ心配になってしまうんだ。
いつか俺に、その胸の内を明かしてくれる日は来るのかな──?
◆
翌日。いつもと変わらない朝のホームルームが始まった。出欠確認を取った後、担任がなにか連絡事項を話し出す。
だが、俺の意識はほぼ窓の外へ向いてしまった。
今日も生憎の天気だった。しとしと降り注ぐ雨を見ていると、気分が落ち込む。
窓の隙間から伝ってくる雨音を聞いているうちに、俺は先日の出来事をふと思い出した。
朝の横浜駅で、たまたま彼女と会ったあの日のこと。折りたたみ傘をなくして困っていた彼女の顔を、俺はよく覚えている。
彼女と並んで、一本の傘の下を共に歩いた。思い返すだけでも胸がドキドキする。
だが、あの壊れた赤い傘のことを考えると、俺の中に居座り続ける不安感が大きくなってしまう。未だに、俺の部屋の隅には寂しそうにうずくまるボロボロの傘がある。あれが、彼女のものなのかはわからない。
心の中のわだかまりが、どうしても消えてくれないんだ。
……いや、もう止そう。
考えすぎたところで、なんの解決にもならないじゃないか。
窓の景色を眺めるのをやめた。俺は教壇に立つ先生に目を向ける。
「──というわけで皆さん、夜遅くに出歩くのはなるべく控えるようにしてくださいね」
先生は、妙に真剣な口調で注意を促していた。
なんの話をしてたんだろう。全然聞いていなかった。なぜかクラスのみんなはざわついているし。
そのままホームルームは終わってしまった。
まあいいか。どうせ大した話じゃないだろう。
一時間目は理科だ。教室を移動しなければならない。
教科書などの準備を俺がしていると──
「イヴァンくん」
アカネがさっと俺の前に現れ、顔を覗き込んできた。じっとこっちを見ながら、小首を傾げる。
「ねえ、どうしたの?」
「なにが?」
「朝からボーッとしてるんだもん」
まずい。バレていたか。さすがアカネだよな。すぐに見透かされる。
でも、彼女の件で俺があれこれ考えているなんてことは話せない。
俺は大きく横を振った。
「さあ? いつも通りだよ」
「えー。ほんとー?」
アカネは訝しげな顔をした。
流れで一緒に理科室へ行くことになり、二人で教室を出る。その間もアカネは「最近、イヴァンくんちょっと雰囲気変わったよね」「爽やかになったというか」「と思ったらなにか考えこんでるときもあるし」なんてあれこれ言及してきた。
俺は否定も肯定もせず、ひたすら誤魔化すのみ。
アカネには申し訳ないが、どうしても彼女とのことを話すわけにはいけないんだ。
話しながら二年の棟へ向かった。理科室は二年の棟の四階にある。
階段に差し掛かり、二人で上り始めた。
「あっ」
三階まで上がる途中のことだった。三階から、二年生の女子たちがぞろぞろと下ってきた。
その中に紛れていた一人と目が合い、俺は思わず声を上げる。
「サエさん!」
多少驚いた表情をされたが、すぐに彼女の頬が緩む。
決して声には出さないが、俺に向かってこう訴えてきた。
『声が大きいわ。校内ではあまり関わらないでって言ったでしょ?』
もう口の動きだけでわかるんだ。
俺も無音の返事をした。
『ごめん、つい』
『次は気をつけてね』
『はい』
すれ違う僅かな時間で、俺たちはたしかにそう会話を交わした。アイコンタクトで手を振り合い、無言で通り過ぎていく。
──その際、彼女の後ろを歩いていた数人の女子たちが、コソコソとなにか話をしていたようだが、内容はよく聞き取れなかった。チラチラとこっちを見てきて、なんだか失礼な人たちだな、と思う。
だが、いちいち構っていられない。
今の俺は、彼女の顔を見れたので気分がよくなった。このままの気持ちを保っていたい。
彼女の姿が見えなくなったとき、アカネが俺の前に立ち塞がった。
「イヴァンくん」
「うん?」
「……そういうことなの?」
やり取りの一部始終を見ていたであろうアカネは、奇異の眼差しを向けてくる。
「やっぱり、あのサエって人となにかあったんだね! あたしの知らないところで女の人と逢い引きなんてしちゃって、隅に置けないわぁ」
「い、いや、そういうわけじゃない」
「嘘! 思いっきり二人だけの世界に入ってたじゃん!」
どんなに問いつめられても、俺は絶対に頷かない。
彼女に、どうしても俺と親しくしているのを周囲に知られたくないと言われてしまったんだ。
彼女と交わした約束が、瞬く間に頭の中でよみがえる──
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