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第三章
親しくなりたい
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俺は、その場から動けなくなってしまう。
あからさまにあの三人の女たちは、悪意を持った言いかたをしていた。まるで彼女を馬鹿にしたように、嘲るように、貶すように。
俺が困惑している間にも、彼女はどんどん廊下の奥へと歩いていってしまう。
待ってくれ。
自分の中に湧き出るモヤモヤした気持ちを、俺は無理やり封じ込めようとした。胸を抑え、必死に彼女の後を追った。
電気がひとつも点いていない廊下を無言で進んでいく。突き当たりまで差し掛かったところで、彼女は階段を下っていった。歩く速度が速くて、追いつくのが大変だ。
やがて一階に着くと、目の前に古い扉があった。鍵はかかっておらず、彼女はそっとドアノブを回す。
すると扉の向こう側に、見覚えのある風景が広がった。
食堂の入り口だ。すぐ隣には、一台の自販機と二人がけの古いベンチ。
そこは……
間違いない。以前、放課後に彼女と話した場所だ。
扉の向こうへ出てみれば、登校してきたときに比べて雨がより一層強くなっていた。でも、屋根が頭上を守ってくれているので濡れることはない。
彼女はおもむろにベンチに腰かけた。
「どういうつもりなの」
鋭い目つきで、彼女は俺を見上げる。
妙な緊張感が走った。雨音にも負ける声量で、俺は弱々しく口を開いた。
「昨日、メッセージをくれなかったじゃないか」
「……は?」
「ちゃんとサエさんが家に帰れたのか心配だった。だから、クラスまで行ってひと目でいいから顔を見ようと」
「あなたって意外に心配性なのね。それとも、実はストーカー気質とか?」
「はっ? そんなわけ!」
「冗談。メッセージひとつでそこまで気にするとは思わなかったの。送り忘れてごめんね」
彼女は肩をすくめ、浮かない表情になる。
「でもね、もう教室には来ないでほしいの」
「えっ」
「あなたと関わっているところを他の子たちに見られたら、どう思われるか。この前も言ったでしょう? 面倒事は避けたいって」
「……面倒事」
ついさっき、二年の女子たちが陰口のようなものをひっそりと話していた光景を思い出す。
こんなこと訊いてもいいのかわからなかった。でも、勝手に口が動いてしまうんだ。
「サエさん。大丈夫か……?」
俺の問いかけに対して、彼女は表情を無にした。
「大丈夫って? なにが?」
「いや。その。なんか、トラブってるのかなって」
はっきりとは言えなかった。
どうしても無理だ。「同級生たちが、サエさんの陰口を言っているのが聞こえてしまった」。こんな無神経な台詞、口にできるわけがない。
彼女は眉を潜めた。
「まさか、クラスの子たちがなにかぐちぐち言ってるの、聞いちゃった?」
当然のように、彼女はそう言った。
どう答えていいものかわからず、俺は狼狽える。
ため息を吐き、彼女は呆れたような口調になった。
「平気よ。女子の間でよくあるいざこざみたいなものだから。いちいち気にしてたらやっていけないわよ」
「え……」
「男子のあなたには理解しがたいかもしれないけどね? 女の世界って、ちょっと複雑で面倒なのよ」
だから、全然平気。彼女はそう言って、クスッと笑った。
──そういうもの、なのか。それじゃあ、心配しなくてもいいんだよな?
頭の中でよぎる嫌な予感を打ち消そうとするのに俺は必死だった。
「ひとつ訊かせて。どうして私なんかと関わろうとするの?」
「えっ、なんでって?」
なんだよ、今さら。理由ならわかってるだろ?
俺は勢いあまって彼女の隣に座った。顔を覗き込むと、目を伏せられてしまう。
──ちゃんと伝えてやるよ。俺の気持ちを。
「サエさんはいい人だ。マニーカフェでも身だしなみチェックの日にも助けてくれた。それに、俺のことを理解してくれてるだろ。だから仲良くしたいんだよ」
「いや……だから。それは」
彼女は口ごもってしまう。
構わずに、俺はじっと彼女を見つめ続ける。ノーとは言わせないように、無言の圧をかけてやった。
「もう……あなたって人は」
彼女は困ったような顔をして、ぎこちなく頷いてくれた。
「好きにして」
「お! やっと認めてくれた!」
「私と親しくしても楽しいことなんてないのに」
「とんだ勘違いだな。楽しいかどうかを決めるのはサエさんじゃなくて俺だよ」
「……はいはい」
彼女は俺に向かって、しっしと手を払った。
なんだ、あしらわれてないか。俺。
ちょっと文句でも言ってやろうとしたところで、朝の予鈴が鳴ってしまった。
「戻らなきゃ」
焦ったように、彼女はベンチから立ち上がる。
──彼女と一緒にいる時間はどうしてこうも早く終わってしまうのだろう。名残惜しさのあまり、俺はさっと片手を彼女に差し出した。
「サエさん」
勢いのまま彼女の腕に触れ、そっと握りしめた。
驚いたようにこちらを振り向く彼女。どことなく、頬がうっすらと桃色に染まっているんだ。
「待ってるから」
「え?」
「今度はちゃんと連絡してほしい。サエさんともっと親しくなりたいのは、俺の本心だから」
「……」
束の間、彼女は口を閉ざす。
屋根の上から、ザーザーという大きな雨音だけが鳴り響いた。
数秒経つと、彼女は再び前に目線を戻し、小さく口を開いた。
「わかった。放課後になったら連絡する」
腕から伝わってくる彼女のぬくもりが、ほんの少しだけ上がったように感じる。
今後こそ、期待していいよな。
「──おい、お前たち!」
突然に、遠方から怒号が聞こえてきた。振り向いてみれば、校舎の一階奥側から顔を覗かせるガチ鬼がいた。
俺は慌てて彼女の腕を放した。
「予鈴が鳴ったのが聞こえなかったか! 教室に戻れ!」
「すぐ戻りまーす」
適当に返事をして、俺たちはそれぞれの校舎へと身体を向けた。
「じゃ。サエさん、また!」
「ええ。またね……イヴァン」
そのときの彼女の声は、とても穏やかだった。
あからさまにあの三人の女たちは、悪意を持った言いかたをしていた。まるで彼女を馬鹿にしたように、嘲るように、貶すように。
俺が困惑している間にも、彼女はどんどん廊下の奥へと歩いていってしまう。
待ってくれ。
自分の中に湧き出るモヤモヤした気持ちを、俺は無理やり封じ込めようとした。胸を抑え、必死に彼女の後を追った。
電気がひとつも点いていない廊下を無言で進んでいく。突き当たりまで差し掛かったところで、彼女は階段を下っていった。歩く速度が速くて、追いつくのが大変だ。
やがて一階に着くと、目の前に古い扉があった。鍵はかかっておらず、彼女はそっとドアノブを回す。
すると扉の向こう側に、見覚えのある風景が広がった。
食堂の入り口だ。すぐ隣には、一台の自販機と二人がけの古いベンチ。
そこは……
間違いない。以前、放課後に彼女と話した場所だ。
扉の向こうへ出てみれば、登校してきたときに比べて雨がより一層強くなっていた。でも、屋根が頭上を守ってくれているので濡れることはない。
彼女はおもむろにベンチに腰かけた。
「どういうつもりなの」
鋭い目つきで、彼女は俺を見上げる。
妙な緊張感が走った。雨音にも負ける声量で、俺は弱々しく口を開いた。
「昨日、メッセージをくれなかったじゃないか」
「……は?」
「ちゃんとサエさんが家に帰れたのか心配だった。だから、クラスまで行ってひと目でいいから顔を見ようと」
「あなたって意外に心配性なのね。それとも、実はストーカー気質とか?」
「はっ? そんなわけ!」
「冗談。メッセージひとつでそこまで気にするとは思わなかったの。送り忘れてごめんね」
彼女は肩をすくめ、浮かない表情になる。
「でもね、もう教室には来ないでほしいの」
「えっ」
「あなたと関わっているところを他の子たちに見られたら、どう思われるか。この前も言ったでしょう? 面倒事は避けたいって」
「……面倒事」
ついさっき、二年の女子たちが陰口のようなものをひっそりと話していた光景を思い出す。
こんなこと訊いてもいいのかわからなかった。でも、勝手に口が動いてしまうんだ。
「サエさん。大丈夫か……?」
俺の問いかけに対して、彼女は表情を無にした。
「大丈夫って? なにが?」
「いや。その。なんか、トラブってるのかなって」
はっきりとは言えなかった。
どうしても無理だ。「同級生たちが、サエさんの陰口を言っているのが聞こえてしまった」。こんな無神経な台詞、口にできるわけがない。
彼女は眉を潜めた。
「まさか、クラスの子たちがなにかぐちぐち言ってるの、聞いちゃった?」
当然のように、彼女はそう言った。
どう答えていいものかわからず、俺は狼狽える。
ため息を吐き、彼女は呆れたような口調になった。
「平気よ。女子の間でよくあるいざこざみたいなものだから。いちいち気にしてたらやっていけないわよ」
「え……」
「男子のあなたには理解しがたいかもしれないけどね? 女の世界って、ちょっと複雑で面倒なのよ」
だから、全然平気。彼女はそう言って、クスッと笑った。
──そういうもの、なのか。それじゃあ、心配しなくてもいいんだよな?
頭の中でよぎる嫌な予感を打ち消そうとするのに俺は必死だった。
「ひとつ訊かせて。どうして私なんかと関わろうとするの?」
「えっ、なんでって?」
なんだよ、今さら。理由ならわかってるだろ?
俺は勢いあまって彼女の隣に座った。顔を覗き込むと、目を伏せられてしまう。
──ちゃんと伝えてやるよ。俺の気持ちを。
「サエさんはいい人だ。マニーカフェでも身だしなみチェックの日にも助けてくれた。それに、俺のことを理解してくれてるだろ。だから仲良くしたいんだよ」
「いや……だから。それは」
彼女は口ごもってしまう。
構わずに、俺はじっと彼女を見つめ続ける。ノーとは言わせないように、無言の圧をかけてやった。
「もう……あなたって人は」
彼女は困ったような顔をして、ぎこちなく頷いてくれた。
「好きにして」
「お! やっと認めてくれた!」
「私と親しくしても楽しいことなんてないのに」
「とんだ勘違いだな。楽しいかどうかを決めるのはサエさんじゃなくて俺だよ」
「……はいはい」
彼女は俺に向かって、しっしと手を払った。
なんだ、あしらわれてないか。俺。
ちょっと文句でも言ってやろうとしたところで、朝の予鈴が鳴ってしまった。
「戻らなきゃ」
焦ったように、彼女はベンチから立ち上がる。
──彼女と一緒にいる時間はどうしてこうも早く終わってしまうのだろう。名残惜しさのあまり、俺はさっと片手を彼女に差し出した。
「サエさん」
勢いのまま彼女の腕に触れ、そっと握りしめた。
驚いたようにこちらを振り向く彼女。どことなく、頬がうっすらと桃色に染まっているんだ。
「待ってるから」
「え?」
「今度はちゃんと連絡してほしい。サエさんともっと親しくなりたいのは、俺の本心だから」
「……」
束の間、彼女は口を閉ざす。
屋根の上から、ザーザーという大きな雨音だけが鳴り響いた。
数秒経つと、彼女は再び前に目線を戻し、小さく口を開いた。
「わかった。放課後になったら連絡する」
腕から伝わってくる彼女のぬくもりが、ほんの少しだけ上がったように感じる。
今後こそ、期待していいよな。
「──おい、お前たち!」
突然に、遠方から怒号が聞こえてきた。振り向いてみれば、校舎の一階奥側から顔を覗かせるガチ鬼がいた。
俺は慌てて彼女の腕を放した。
「予鈴が鳴ったのが聞こえなかったか! 教室に戻れ!」
「すぐ戻りまーす」
適当に返事をして、俺たちはそれぞれの校舎へと身体を向けた。
「じゃ。サエさん、また!」
「ええ。またね……イヴァン」
そのときの彼女の声は、とても穏やかだった。
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