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第十二章

108,化け物になる前

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 あれは、およそ十七年前の話。
 化け物になる前、ハクは北国の山奥で暮らしていた。日々獲物を捕らえ、縄張りを守り、人目のつかない場所で過ごす。一匹狼ならぬ、一頭虎の如く。

 そんなハクは人間を恐れ、憎んでいた。
 白く美しいこの毛を剥ぎ取ろうと、白虎狩りをする者たちが少なからず存在するからだ。他の白虎たちが実際に捕獲されたのを目の当たりにしたこともある。

 人間は自分たちの都合で動物を乱獲する。食用としてではなく、ただ「美しい毛皮が欲しいから」という理由だけで動物を殺めるのだ。
 だから決して人間とは関わらない。ハクはそう決めていた。
 
 ──ある日。ハクはある気配を感じ取った。カサカサと落ち葉を踏みつける音と、嗅ぎ慣れない独特な匂いが漂う。
 姿勢を低くし、ハクは最大限に警戒をした。

『たしか、この辺りのはずだ。白虎が生息しているという情報があったのは』

 ……なんだ?
 他の野生動物や、化け物の鳴き声などではない。流れるような声を出す生物がいる。

 耳をすませた。足音は、どんどん近づいてくる。

『白虎を見つけたら、すぐに矢を放て。一度で仕留めないと、確実に逃げられる』
『……ううん。そんなに上手くいくか? そもそも狩りに失敗したら襲われるのではないか』
『ははは。心配することはない! 奴らは獰猛に見えて実は人間を恐れる子猫のような動物だぞ!』 

 瞳孔を開き、縄張りに侵入してきた動物を黙視しようとハクは集中した。

 ──やがて、木々が生い茂る遥か向こう側から二つの影が現れる。
 この森に住む生き物ではない。そいつらは、二本の足で歩いている。

 人間だ。

 何かを手に持ち、どんどんこちらに迫り来ている。
 意図せず尾が震えた。

 ……逃げなければ。
 
 本能でそう思った。
 恐らくあの人間たちは雄だ。二人とも体格がよく、堂々としている。小さな子供や弱そうな雌の人間ならば獲物として捕らえてもよいが、数百歩程先にいる人間は襲うべきではない。

 ハクは臆病だった。仲間たちが殺されるのを見てきたから。人間が怖くてたまらなかった。
 一歩二歩後退りし、その場から立ち去ろうとする。

 しかしその時──落ち葉を一枚踏んでしまった。かさっ、と渇いた音が響く。それと同時に、人間二人の歩みが止まった。

『……うん?』
『聞こえたか? 近くに、何かいるぞ』

 人間たちは鳴き声で何か会話をしているようだ。
 ハクは震えた。こちらの存在が知られたら、人間たちが手に持つ凶器で傷を負わされる。下手をすれば死ぬ。
 ハクは更に姿勢を低くして、逃げる構えを取った。

 だが、その一刹那──

『いたぞ!』

 一人の人間が大声を上げた。
 驚きのあまり、ハクの身体がビクッとはね上がる。焦ったハクは反対方向に身体を向けてすかさず駆け出した。

『ほらあそこだ! 茂みの中に隠れていった! 待て、白虎!』

 興奮したように人間は何かを叫び続けていた。

 ハクは決して振り返らないし立ち止まりもしない。
 背後から、ハクの行く道に何か木の棒のようなものがものすごい速さで飛んできた。

 一体なんだ?

 分からないが、これに当たると怪我をするのは知っている。頭や心臓、急所に命中すると死さえ免れないのだ。
 人間からの攻撃を無我夢中で避け続ける。駆けて駆けて、止まることなく山の中を走り回った。

 息が上がった頃、気づけばハクは縄張りの外へ出てしまった。全く知らない場所である。

 おもむろに後ろを振り返ると──人間たちの姿はない。あるのは、自らが残した足跡だけ。これを辿って来られたら、あの者たちに再び襲われるだろう。
 だがそれよりも、今は少しだけ休みたい。ハクはのろのろと歩き始める。

 すると──どこからともなく甘い匂いが漂ってきたのだ。梅や野花のものではない。嗅いだことのない芳ばしい香りである。ハクは誘われるかのように匂いを辿った。

 そうして西の方を進んでいくと、ひらけた場所に行き着いた。そこは、西陽がよく当たる不思議な所であった。
 空色の花びらをまとう野花がたくさん生えている。甘い香りは、この花たちのものであった。

 ハクは、言い様のない感情に支配された。まるで酔ってしまったように、足がふらついた。勝手に空色の花たちの方へ進んでいく。

 もっと匂いを嗅ぎたい。身体を擦り付けて花ものとも自分の中に取り入れたい。ああ、なんていい香りだ。どうしてこんなにも美しい花があるのだろう。綺麗だ。触れたい。自分の物にしたい。

 ハクの息は荒くなる。
 空色の花たちは、ハクを誘うかのように左右に揺れていた。

 ──こっちへおいで。

 まるでそう言っているようだ。
 ハクは小走りで花たちに近づくと、飛び込むように身体を横にした。転がった衝撃で、甘い香りが一層強くなる。それなのに、花は一輪も崩れることなく綺麗に咲いたままだ。
 素晴らしい、とハクは思った。
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