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第十章

89,月夜の再会

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 やっと、やっとだ。全てを思い出した。
 幼い頃のヤエにとって、大きな支えであったその存在。この広い庭園で、彼と共に楽しい時間を過ごした。剣術を教えてもらった。ヤエにとっての友であり、師でもある。癒しの時間を分かち合ったのは、他の誰でもない。

 リュウキ皇子なのだ。

 目頭が熱くなると同時に、ヤエはどうしようもなく想いが溢れてしまった。ひとときも忘れることはなかった。その相手を目の前にして、いかに落ち着こうというのか。

 ヤエは勢いよく彼に抱きついた。

「リュウキ様……会いたかった……!」
「僕もだよ。ヤエ、久しぶりだね。君なんだね。本当に君だ」

 リュウキは優しく囁くと、ヤエの背に両手を回して抱き返してくれる。

 最後に会った時はまだあどけない少年であった。しかし今は違う。ぬくもりから感じる立派な体つきや、男らしい低い声、大きな包容力。彼は立派な青年に成長したのだと思い知り、ヤエはなんとも言えない気持ちになる。

 そっとヤエの身体を放すと、リュウキはあたたかみのある眼差しを向けた。

「元気にしてた?」
「……あ、はい」
「ごめん、そうでもないよね……? 僕も色々と話は聞いているんだ。ヤエは兄上と──結婚、するんだよね」
「……」

 ヤエは口ごもった。
 分かっている。リュウキは皇族の者だから、全ての事情を知っていることを。
 それなのに──結婚のことを問われると、とんでもない嫌悪感が押し寄せる。

 俯きながら、ヤエは小さく答えた。

「私は身勝手です。あのお方と結婚するのがどうしても受け入れられず、今夜ここから逃げ出そうと決めてたのです」
「えっ、本気か?」
「リュウト様はとても乱暴です。あの者の妃になるくらいでしたら全てを捨てます」
「それは駄目だ。すぐに見つかって捕まるよ。……下手をしたら君の命が危ない」
「でしたら、死んだほうがましです!」
「そんなこと言わないで。どうか……君には死なないでほしい」
「苦しみながら生き続けろと?」

 冷たくヤエが言い放つと、リュウキは憂いある表情を浮かべた。

「落ち着いて。兄上のお側にいて君がいかに辛い想いをしてるかは分かる。想像しただけで僕も苦しくなるよ」
「……何を仰います」
「兄上がおかしくなっていると気づいているのは皆も同じだ。もちろん僕も。きっと兄上は苦しんでいるんだ。ヤエに乱暴しないように、そして人に優しくするよう説得するから」
「そんなこと、出来ますか?」
「僕は双子の弟だよ。大丈夫。それに君が逃げ出したら、君の友だちが悲しむだろう?」

 そう言われ、ヤエは大切な友──ハクの顔を思い出す。

「あの仔は……ハクは、屋敷から連れ出します」
「家に寄っている間に君の逃走がバレて結局捕まってしまうよ」
「でしたら……このまま我慢しなければならないのですか!」

 思わず声を荒らげてしまう。

 だがこの時、リュウキがヤエのことを再び抱き締めた。先程よりも更に強い力で。胸が苦しくなるほどに──

「……ごめんね、ヤエがこんなに苦しんでいるのに。だけど僕は、君を止めるしかないんだ」
「どうして……?」
「何度だって伝えるよ。僕は君に生きてほしいんだ」

 ヤエを抱擁するリュウキの胸の鼓動は早くなっていった。確かに感じる。彼の心の悲鳴が。

「僕が君を救ってあげる。今すぐには難しいけど、必ずなんとかするから……」

 そう囁くとリュウキは、ヤエの頬にそっと左手を添えた。綺麗な瞳に見つめられると、心まで吸い込まれてしまいそうになる。

 互いの吐息が届くほどの距離。相手が何を想い、何を望み、何を願っているのか言葉にしなくても分かる。それでも──

 そっと彼の両腕から離れると、ヤエは顔を背けた。今にも溢れそうな想いを、リュウキに知られてはいけない。

「ヤエ」

 リュウキの優しい声色に、意図せず顔が熱くなる。
 逞しいその大きな手をそっと握り、ヤエはリュウキのぬくもりを感じた。

「今夜は一人で眠るといい」
「えっ? でも……」
「兄上には上手いこと言って、僕の部屋で眠ってもらうから」
「一体どうやって」
「適当に政や世間話なんかをして兄上が眠くなるまで喋り倒すよ」
「……大丈夫でしょうか」
「僕のお喋りは朝まで続くよ」
「ふふ……。そうですか」

 自然と笑みが溢れた。
 リュウキは目を細める。

「でも……ごめんね。こんなの、解決法じゃなくてただのその場凌ぎだ」
「いいえ、いいんです。ありがとうございます、リュウキ様」

 束の間、沈黙が流れた。
 月夜の淡い光だけが、二人の様子を見つめる。
 
「あの、ヤエ」
「はい」
「……おやすみ」
「はい……おやすみなさい、リュウキ様」

 触れていた手をそっと放すと、ゆっくりと背を向ける。

 本当はこの場から立ち去りたくなかった。彼とずっと一緒にいたい。だが、そうなるとヤエが逃走しようとしていたことが知られ、二度と彼に会えなくなるかもしれない。

 たがら、この時だけは耐えた。
 たった一言残すことで、希望を置いて。

「また、ここに来ますね」
 
 その夜、寝宮に戻ってもリュウトが現れることはなかった。


 ──それをきっかけに、二人は密会をするようになった。

 就寝する前の僅かな時間。いつもの庭園を訪れ、桃の木の影に隠れてリュウキと二人きりの時間を過ごす。
 肩を寄せ合い、なんでもない会話を交わすだけ。ヤエにとっては、本当に幸せなひとときであった。

「……私、リュウキ様と一緒にいると心が安らぎます」
「僕もだよ」
「肩を並べて月を眺める。こんな時間が永遠に続けばいいのに」
「……」

 リュウキは切ない笑みでヤエの顔を見つめた。
 分かっている。そんな願いは叶わないと。この想いに、リュウキが答えられるはずもないのだと。

 それでも、お互いに特別な気持ちを密かに抱いている。それは紛れもない、事実であった。
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