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第九章
84,ヤエの葛藤
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その日を境に、ヤエの日常は灰色に染まっていく。
庭園を通っても、彼の姿を見ることはなくなった。一日、二日、三日と過ぎても、同じだ。皇子が現れることはないのだ。
ヤエはただの使用人にすぎない。今まで皇族の彼と親しくしていたことが異例なはずであった。
でも……
本当にもう、二度と会えないのか。なぜこんなことになったのか。
気持ちは沈むばかりだ。
とある日。
いつものようにヤエが厩舎で馬の世話をしていると、第一皇子──リュウトといったか。相変わらずヤエの前に現れる。
力なくふらふらしながらやって来て、今にも死にそうな顔をして見つめてくる。以前までは何とも思っていなかった。
だが、今は違う。ヤエはリュウト皇子を鬱陶しいと感じるようになってしまった。
「ねえ、君……」
「……」
聞こえないふりをして、ヤエは厩舎内を忙しなく清掃していく。
「ねえ、君。ヤエっていうんだろう?」
「……」
「ねえ、ねえってば。話は聞いただろう? ヤエは将来、妻になるんだよ」
その台詞を聞いた瞬間、ヤエの胸の奥がどくんと唸る。それと同時に、全身が寒くなっていった。
「なぜです……?」
震える声でリュウトの方を振り向く。悔しくて、今にも涙が溢れそうだ。
「私はあなたのことなど微塵も知りません。あなたもそうでしょう? なぜ私なんか……」
「なぜ? なぜって何? 君はこんな病弱な皇子を貶すこともなく、優しく接してくれたじゃないか。それが嬉しかったんだよ」
意味が分からない、理解出来ない。ただ会話をした程度で優しくした覚えなどない。思うことはあったが、希望をなくしたヤエはそれ以上話を広げる気力すらなかった。
──夜が更けても、なかなか寝つけない日々が続いた。涙で枕を濡らし、頬が痛くなる。
ぬくりと床から起き上がり、そっと外に出た。
現在ヤエは兄と共に大きな家に住んでいる。皇帝が建ててくれた、立派すぎるソン邸。屋敷と言っても良い。
ただの平民だったヤエがここにいられるのは、兄のシュウが武将として軍に貢献してきたお陰である。今まで築き上げてきた信頼を、ヤエの我が儘によって崩すわけにはいかない。それは充分に理解している。
しかし、どうしてもあのリュウトという皇子と結婚など考えられないのだ。大切な時間を奪った張本人のことを、どうしても受け入れられない。
屋敷の庭に出ると、涼しい風が梅の花々を運んでいた。夜を舞う花びらは月の淡い光に照らされ、銀色に染まった。幻想的で美しいはずなのに、ヤエの目の中には光すらも映らない。
今日は三日月だ。雲ひとつなく、夜を照らしている。
「あの月を、今夜皇子も見ているのでしょうか……」
彼を思い出すだけで切なくなる。
大きく溜め息を吐くと、ふわりと優しいぬくもりがヤエの隣に現れた。大きな肉体ですり寄ってくるのは──ハクだった。心配そうな顔をしてヤエを見つめている、そんな気がした。
「ハク……」
思わずヤエは、ハクの首元に抱きついた。ふわっとした白い毛が心の奥を癒してくれる。
「私、寂しいの。せっかくできた友だちと、会えなくなっちゃった。それに、大人になったら好きでもない人と結婚させられそうなの。全部嫌だよ」
ハクは人の感情を読み取ってくれる。賢くて優しい化け物だ。だからヤエは、たとえ返事が貰えなくても、この嘆きを止めることはしない。
「だけど、兄様が今まで頑張ってきたことを、私一人の我が儘で壊すわけにはいかない……。だから、私……辛くても乗り越えなきゃいけないの」
ひどく震えた声になってしまった。
「クゥゥ」
するとハクが、白虎とは思えないような弱々しい鳴き声を出した。無表情に見えて、悲しい目をしているのが伝わってきたのだ。
『ヤエ、大丈夫か?』
『心配だよ』
『無理しないでほしい』
『泣かないでほしい』
まるでそう訴えているようだった。
「優しいね……」
その日から、ハクは毎晩のようにヤエに寄り添ってくれた。闇に支配された心が、僅かでも癒やされればいい。
ハクのぬくもりは、その時のヤエにとって大きな支えになっていた。
──翌年。
リュウト皇子の病気が再発してしまった。立って歩くこともままならず、彼はまたもや床で養生する生活を送ることとなったのだ。
もはやこれは、ヤエにとって他人事ではない。
このことがきっかけで、更に辛い日々が続くことになるのだから……
庭園を通っても、彼の姿を見ることはなくなった。一日、二日、三日と過ぎても、同じだ。皇子が現れることはないのだ。
ヤエはただの使用人にすぎない。今まで皇族の彼と親しくしていたことが異例なはずであった。
でも……
本当にもう、二度と会えないのか。なぜこんなことになったのか。
気持ちは沈むばかりだ。
とある日。
いつものようにヤエが厩舎で馬の世話をしていると、第一皇子──リュウトといったか。相変わらずヤエの前に現れる。
力なくふらふらしながらやって来て、今にも死にそうな顔をして見つめてくる。以前までは何とも思っていなかった。
だが、今は違う。ヤエはリュウト皇子を鬱陶しいと感じるようになってしまった。
「ねえ、君……」
「……」
聞こえないふりをして、ヤエは厩舎内を忙しなく清掃していく。
「ねえ、君。ヤエっていうんだろう?」
「……」
「ねえ、ねえってば。話は聞いただろう? ヤエは将来、妻になるんだよ」
その台詞を聞いた瞬間、ヤエの胸の奥がどくんと唸る。それと同時に、全身が寒くなっていった。
「なぜです……?」
震える声でリュウトの方を振り向く。悔しくて、今にも涙が溢れそうだ。
「私はあなたのことなど微塵も知りません。あなたもそうでしょう? なぜ私なんか……」
「なぜ? なぜって何? 君はこんな病弱な皇子を貶すこともなく、優しく接してくれたじゃないか。それが嬉しかったんだよ」
意味が分からない、理解出来ない。ただ会話をした程度で優しくした覚えなどない。思うことはあったが、希望をなくしたヤエはそれ以上話を広げる気力すらなかった。
──夜が更けても、なかなか寝つけない日々が続いた。涙で枕を濡らし、頬が痛くなる。
ぬくりと床から起き上がり、そっと外に出た。
現在ヤエは兄と共に大きな家に住んでいる。皇帝が建ててくれた、立派すぎるソン邸。屋敷と言っても良い。
ただの平民だったヤエがここにいられるのは、兄のシュウが武将として軍に貢献してきたお陰である。今まで築き上げてきた信頼を、ヤエの我が儘によって崩すわけにはいかない。それは充分に理解している。
しかし、どうしてもあのリュウトという皇子と結婚など考えられないのだ。大切な時間を奪った張本人のことを、どうしても受け入れられない。
屋敷の庭に出ると、涼しい風が梅の花々を運んでいた。夜を舞う花びらは月の淡い光に照らされ、銀色に染まった。幻想的で美しいはずなのに、ヤエの目の中には光すらも映らない。
今日は三日月だ。雲ひとつなく、夜を照らしている。
「あの月を、今夜皇子も見ているのでしょうか……」
彼を思い出すだけで切なくなる。
大きく溜め息を吐くと、ふわりと優しいぬくもりがヤエの隣に現れた。大きな肉体ですり寄ってくるのは──ハクだった。心配そうな顔をしてヤエを見つめている、そんな気がした。
「ハク……」
思わずヤエは、ハクの首元に抱きついた。ふわっとした白い毛が心の奥を癒してくれる。
「私、寂しいの。せっかくできた友だちと、会えなくなっちゃった。それに、大人になったら好きでもない人と結婚させられそうなの。全部嫌だよ」
ハクは人の感情を読み取ってくれる。賢くて優しい化け物だ。だからヤエは、たとえ返事が貰えなくても、この嘆きを止めることはしない。
「だけど、兄様が今まで頑張ってきたことを、私一人の我が儘で壊すわけにはいかない……。だから、私……辛くても乗り越えなきゃいけないの」
ひどく震えた声になってしまった。
「クゥゥ」
するとハクが、白虎とは思えないような弱々しい鳴き声を出した。無表情に見えて、悲しい目をしているのが伝わってきたのだ。
『ヤエ、大丈夫か?』
『心配だよ』
『無理しないでほしい』
『泣かないでほしい』
まるでそう訴えているようだった。
「優しいね……」
その日から、ハクは毎晩のようにヤエに寄り添ってくれた。闇に支配された心が、僅かでも癒やされればいい。
ハクのぬくもりは、その時のヤエにとって大きな支えになっていた。
──翌年。
リュウト皇子の病気が再発してしまった。立って歩くこともままならず、彼はまたもや床で養生する生活を送ることとなったのだ。
もはやこれは、ヤエにとって他人事ではない。
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