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第九章
81,身分の違い
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今ヤエが見ている幻想世界での出来事は、間違いなく「本物」だ。過去の自分が見てきた景色、住んでいた場所、共に過ごした人々、ハクの存在。空気までもが、ヤエの中に眠っていた思い出を甦らせている。
しかしなぜなのか。唯一、皇子のことが思い出せない。
幼い頃に出会った陽気な少年。親しみやすく、友のように接してくれた大切な人──それなのに、彼の顔も名前も分からないのだ。
(知りたい、あなたのことを。共に話したこと、見てきた景色。もう少し幻想の世界を見てみれば、きっとあなたの記憶も甦るのかな……)
──そして、ヤエとシュウが宮廷に来てから一年が経った。
その日の休息中も、ヤエはハクを連れて庭園で皇子との時間を過ごしていた。
桃の木の下にぽつりとある東屋。石造りの腰掛けに二人並んで座り、なにげない話をするのが日課。ハクはヤエの足元で、まるで猫のようにごろんと横たわっている。
心が落ち着き、少なくともヤエにとって大切な時間だった。
「ヤエはさ、ここと村での暮らしどちらの方が楽しかった?」
「え……?」
皇子は唐突にそんなことを訊いてきた。
正直そんなことなど一度も考えたことはない。
一瞬、村で過ごしてきた日々と家族や村の人々の顔が頭に過る。
この時はがりは、意図せず声が低くなってしまった。
「ここに暮らしていると、食べ物に困ることはありません。働かせていただき、とても感謝しています」
「そうか。村ではどうだったの?」
「……こんなことを申していいのか分かりませんが。私も家族も村の皆も必死に働いて、とても大変でした。仕事が大変なのではなく、国に納めなければならない年貢が多すぎたのです」
「あ……そっか」
皇子は少し気まずくなったかのように顔を逸らす。
ふと微笑みながら、ヤエは小さく首を横に振った。
「謝らないで下さいね。誰が悪い、とかそういうことを言いたいわけではありませんから」
「でも、それが実情なんだよね。僕はずっとここに籠って過ごしてきたから何も知らないんだ。悪かったね……」
「いえ……」
しんと静まり返ってしまう。
庭園を囲む桃色の花は美しいのに、この空気には全く馴染んでいなかった。
相変わらず幻想の中では、皇子の表情はぼやけているが、その横顔がなんとなく「無」なのが窺えた。青い空を見上げて、皇子はぽつりと呟くのだ。
「僕がこの国の未来を変えてあげる……」
抑揚のない、寂しげな話しかただ。
「そう約束したいんだけどね。今の僕には、はっきり言えないのがもどかしいよ」
「え……?」
「僕は将来、皇帝になるわけじゃないから」
そっと放たれた一言は、あまりにも無機質であった。
ヤエは正直、皇族のことなどはよく知らない。政や後継者に関する内容を、皇子と話したことすらない。剣術を習い、他愛ない会話を交わして、まるで友のように接していただけだ。
だから彼の言葉で、皇子と自分は住む世界が違うのだと改めて思い知らされる。
「あの、ご兄弟がいらっしゃる、とかですか?」
パッと出てきた質問がこれだ。なんとも一般的なことしか聞けない自分に、ヤエは恥ずかしくなる。
それでも皇子は優しい口調で答えるのだった。
「うん、いるよ。……兄がいるんだ。双子のね」
──双子?
その単語を耳にした時、ヤエの胸の奥がどくんと唸る。
「それは、初耳ですね。お兄様に一度もお会いしたことがありませんでしたから」
「兄上は病弱だから、いつも寝室で眠っているよ。数年に一度は起き上がれるけど、殆ど歩けない。僕も兄上とはあまり喋ったことがないんだ」
「重い病気なのですね。心配でしょう?」
「うん。でもいつか治療法が見つかって兄が元気になったら、一緒に兵法を習ったり、武を鍛えたい。贅沢かもしれないけれど」
「とんでもないですよ。お兄様が健康になるのを願うのは、家族としても当然じゃありませんか?」
「……うん、そうだね」
──この時のヤエは、気づいていなかった。皇子が寂しそうな表情を浮かべているなどと。
ヤエは更に話を広げてしまったのだ。
「お兄様の病気が治ったら、将来は皇帝になられるかもしれないのですね。あなたはその支えになるのかな。大仕事ですよね!」
思えば、皇族の事情など禄に知らないヤエが、軽はずみな発言などすべきではなかったのかもしれない。
皇子がどれだけ複雑な想いをしているか、知る由もなかった。
ヤエの隣で陽に当たりながら気持ち良さそうに寝転ぶハクも、人の心を知らなかった。
しかしなぜなのか。唯一、皇子のことが思い出せない。
幼い頃に出会った陽気な少年。親しみやすく、友のように接してくれた大切な人──それなのに、彼の顔も名前も分からないのだ。
(知りたい、あなたのことを。共に話したこと、見てきた景色。もう少し幻想の世界を見てみれば、きっとあなたの記憶も甦るのかな……)
──そして、ヤエとシュウが宮廷に来てから一年が経った。
その日の休息中も、ヤエはハクを連れて庭園で皇子との時間を過ごしていた。
桃の木の下にぽつりとある東屋。石造りの腰掛けに二人並んで座り、なにげない話をするのが日課。ハクはヤエの足元で、まるで猫のようにごろんと横たわっている。
心が落ち着き、少なくともヤエにとって大切な時間だった。
「ヤエはさ、ここと村での暮らしどちらの方が楽しかった?」
「え……?」
皇子は唐突にそんなことを訊いてきた。
正直そんなことなど一度も考えたことはない。
一瞬、村で過ごしてきた日々と家族や村の人々の顔が頭に過る。
この時はがりは、意図せず声が低くなってしまった。
「ここに暮らしていると、食べ物に困ることはありません。働かせていただき、とても感謝しています」
「そうか。村ではどうだったの?」
「……こんなことを申していいのか分かりませんが。私も家族も村の皆も必死に働いて、とても大変でした。仕事が大変なのではなく、国に納めなければならない年貢が多すぎたのです」
「あ……そっか」
皇子は少し気まずくなったかのように顔を逸らす。
ふと微笑みながら、ヤエは小さく首を横に振った。
「謝らないで下さいね。誰が悪い、とかそういうことを言いたいわけではありませんから」
「でも、それが実情なんだよね。僕はずっとここに籠って過ごしてきたから何も知らないんだ。悪かったね……」
「いえ……」
しんと静まり返ってしまう。
庭園を囲む桃色の花は美しいのに、この空気には全く馴染んでいなかった。
相変わらず幻想の中では、皇子の表情はぼやけているが、その横顔がなんとなく「無」なのが窺えた。青い空を見上げて、皇子はぽつりと呟くのだ。
「僕がこの国の未来を変えてあげる……」
抑揚のない、寂しげな話しかただ。
「そう約束したいんだけどね。今の僕には、はっきり言えないのがもどかしいよ」
「え……?」
「僕は将来、皇帝になるわけじゃないから」
そっと放たれた一言は、あまりにも無機質であった。
ヤエは正直、皇族のことなどはよく知らない。政や後継者に関する内容を、皇子と話したことすらない。剣術を習い、他愛ない会話を交わして、まるで友のように接していただけだ。
だから彼の言葉で、皇子と自分は住む世界が違うのだと改めて思い知らされる。
「あの、ご兄弟がいらっしゃる、とかですか?」
パッと出てきた質問がこれだ。なんとも一般的なことしか聞けない自分に、ヤエは恥ずかしくなる。
それでも皇子は優しい口調で答えるのだった。
「うん、いるよ。……兄がいるんだ。双子のね」
──双子?
その単語を耳にした時、ヤエの胸の奥がどくんと唸る。
「それは、初耳ですね。お兄様に一度もお会いしたことがありませんでしたから」
「兄上は病弱だから、いつも寝室で眠っているよ。数年に一度は起き上がれるけど、殆ど歩けない。僕も兄上とはあまり喋ったことがないんだ」
「重い病気なのですね。心配でしょう?」
「うん。でもいつか治療法が見つかって兄が元気になったら、一緒に兵法を習ったり、武を鍛えたい。贅沢かもしれないけれど」
「とんでもないですよ。お兄様が健康になるのを願うのは、家族としても当然じゃありませんか?」
「……うん、そうだね」
──この時のヤエは、気づいていなかった。皇子が寂しそうな表情を浮かべているなどと。
ヤエは更に話を広げてしまったのだ。
「お兄様の病気が治ったら、将来は皇帝になられるかもしれないのですね。あなたはその支えになるのかな。大仕事ですよね!」
思えば、皇族の事情など禄に知らないヤエが、軽はずみな発言などすべきではなかったのかもしれない。
皇子がどれだけ複雑な想いをしているか、知る由もなかった。
ヤエの隣で陽に当たりながら気持ち良さそうに寝転ぶハクも、人の心を知らなかった。
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