【完結】炎の戦史 ~氷の少女と失われた記憶~

朱村びすりん

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第三章

25,危機

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 ヤエは薄い桃色の平服を纏い、寝床に横たわっていた。寝床は天蓋で覆われている。
 ここは薄暗く、空気が重い。
 たまらずヤエは顔をしかめた。

(また、あの夢……。いえ、幻想の世界ね?)
 
 ヤエが氷となっていた時、意識の奥底である光景を何度も見ていた。
 今日も、だ。
 目の前にはいつも同じ男がいて、冷たい手でヤエの身体に触れてくる。しかし、その者が一体どんな顔をしているのか、認識がまるでできない。 
 それでもヤエは知っている。今から何をされるのか。
 決して抵抗してはいけない。されるがまま、事が終わるのを歯を食いしばって待つしかないのだ。
 着ているものを全て脱がされ、ヤエの身体は男に触られ、舐められる。

「いや……やめて」
「抗うな。感じろよ、喘げよ、声を聞かせろ」

 男は低い声で、ヤエの耳元で乱暴にそう言い放つ。

 この人が誰なのか、どうしても思い出せない。この男と婚約していたこと以外は。
 男の言いなりになるしかない。逃げられない。受け入れるしかない。

 暗くて熱気が充満する部屋の中、ヤエは毎夜耐え続けた。
 好きなように身体を弄られている最中、ヤエはいつも「誰か」のことを思い出していた。とても大切に想っていた相手だ。

(こんな私で、ごめんなさい……)

 心の中で謝り続けるしかなかった。

 ヤエは今宵も抱かれた。想い人ではなく、乱暴をする相手に。
 涙も流せない、この幻想の中で──



 目覚めはいつも最悪だ。全身が熱くて、なぜだか頬がヒリヒリする。全身にはべっとりした汗が滲み出ていた。
 息が乱れる中、周りを見回すと──岩石の空洞内にいることを思い出した。

(大丈夫……今のことは忘れて……)

 深呼吸をしてから、ヤエはそっと起き上がる。

 焚火が今も小さく燃えたままになっていた。隅の方で、リュウキは静かに寝息を立てているというのに。
 彼の寝顔を眺めながら、ヤエは一人笑みを浮かべる。

 空洞の出口の方を見てみると、外は薄暗い。まだ夜明け前だろう。
 物音を立てずに剣を手に取り、ヤエはゆっくりと外へ出て行った。

 気分を変えて山の空気も吸いたい。ついでに朝食の食材を調達してこよう。野草なんかがあるといい。そう考え、ヤエは深い藍色に染まる山の道に向かって歩き出した。
 帰り道を見失わないように、剣の刃先を地に付けて引きずった。深く刻まれていく剣の足跡は、薄暗い中でもはっきりと目視できる。
 刃と土が擦れ合う音を響かせながら、ヤエはどこにあるかも分からない食材用の野草を探し求める。

 夜明け前の山は肌寒い。しんと静まり返っており、小鳥たちの囀りさえもまだ響いてこない。地に引きずられる刃の音が聞こえるだけで、物寂しさと同時に、どこか新鮮さがあった。澄んだ空気の中、こういった一人のひとときも悪くない。

 悪くはないが──

「ハクがいたら、きっと一緒に野草探しを手伝ってくれたよね……」

 ふと思い出した、友の存在。
 ハクが行方知らずになってから二日になる。今はどうしているのだろうか。食べ物はちゃんと食べられているのだろうか。本当に、シュキ城にいるのだろうか。
 考え始めると、ハクの安否が心配でたまらなくなってしまう。

「ううん、余計なことはどうでもいいの。ハクは元気。必ずまた会える」
 
 根拠などなくても、そう信じたかった。
 あのナナシという男が話していた『シュキ城』に赴けばきっと──

 あれこれ考えていると、優しい風がヤエの前を通り過ぎる。それと共に、良い香りも運ばれてきた。

「この香りは……?」

 ヤエの足は自然と匂いのする方向へと進んでいく。
 数歩先まで行くと、土の中から三角の頭を生やしているものが目に入った。

「……筍だわ」

 山々の向こう側で朝陽が昇り始めた頃だ。肩を並べるたくさんの竹の中にたった一つだけ立派な筍が輝きを放っていた。大きくてちょうど食べ頃に見える。

 リュウキの為に、筍飯でも作ろう。

 ヤエはしゃがみ込み、長剣の刃を筍の中心部に当てて丁寧に切り込んでいく。春の香りが鼻の奥を癒してくれた。

 昨晩、料理をふるまってくれたリュウキの顔を思い出す。自分でも驚いたが、彼との空洞内で取る食事は楽しかった。

 早く彼に朝食を。

 そう思いながら刃を動かしていると、やっとの思いで筍を切り離すことができた。

 ──だが、その時だ。
 ヤエはふと、何かの気配を感じる。

(何……?)

 背筋がぞわっとした。誰かに見られている気がしたのだ。
 ヤエは息を呑む。

(も、戻らなきゃ……)

 咄嗟にそう思った。
 両手に筍を抱え、震える足で立ち上がる。すぐさま走り去ろうとした、正にその瞬間。

「あっ……!」

 突如、見えない何かに両手両足を塞がれた。

 ──生き物ではない。

 柔らかくて細くて繊細なものがヤエの手足に絡まり、全身の自由をたちまち奪われてしまった。
 山の向こうで輝きを放つ、太陽の光に「それ」が照らされた。これをきっかけに、ヤエはその正体を認識することになる。

「これは……!?」

 綺麗に光を反射させるものは、強く縛りついてヤエの身体を離さない「糸」であった。
 まるで獲物を捕らえる為に張られた蜘蛛のもののようだ。

「どうなってるの。どうして離れられないの!?」

 糸を千切ろうと必死にもがくが、全く切れない。
 手に上手く力が入らないことで、せっかく採った筍がヤエの足元に落ちていった。

 一人焦っていると、竹林の中で何かがモゾモゾと動いているのが目に入る。木陰から赤く染まるいくつもの『目』がヤエの姿をじっと捉えているようだった。

 ──その存在を認識した瞬間、ヤエは一瞬息をするのも忘れてしまう。

「蜘蛛だ……」

 全身が一気に冷たくなっていく。
 ただの蜘蛛ではない。目の前に現れたのは、あまりにも現実離れした生物だったからだ。

「化け物っ?」

 カサカサと足音を立てるそれ・・は、人間よりも遥かに図体の大きい真っ黒な蜘蛛であった。
 口の周りは唾液だらけで、興奮したように体を震わせている。

(に、逃げなきゃ……!)

 必死にもがき暴れてみるが、糸は切れることはなく、むしろ余計に絡まりついてくる。
 巨大蜘蛛はじわじわとヤエに近づいてきた。赤い眼球はまるで獲物に狙いを定めているかのよう。

「助けて」

 ヤエは弱々しく、恐怖心でいっぱいになりながらも力を振り絞って声を上げた。

「助けて。助けて! リュウキ様……!」
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