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第四章

リハビリの成果

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「コウキ君」
「はい」
「肩の力、抜いてね」
「はい」

 ある日の午後。
 理学療法室の出口付近の床上には、テープが一直線に貼られていた。距離はだいたい三メートルくらい。
 僕はそのスタート地点にいて、手に何も持たず岩野先生に両脇を支えられながら立っていた。

 今からロフストランド杖を手放して、この短い距離を歩いてみるんだ。右脚には装具がつけられている。
 なんともいえない緊張感が走った。

「なるべくテープに沿って歩いてほしいんだけど、安全を第一に優先するわよ。転びそうになったら止まってもいい。テープ上から外れてもいい。転んだら必ず手が出るようにして」
「うん、分かった」

 大きく深呼吸をし、僕は意識を集中させる。床に貼られる黄色いテープは、僕が歩くための道しるべのようだ。
 きっと、杖なしで歩ききってみせるぞ……。

「準備できたわね? いくわよ」

 そう言って、岩野先生は僕を支える両手をそっと放した。
 その瞬間、僕の右脚がよろめいた。スタート地点から大きくずれてしまう。

「大丈夫っ?」

 岩野先生が慌てたようにすぐ手を差し伸べてきたが、僕は無言で首を横に振る。
 定位置に戻り、もう一度バランスを整えた。

 たったの三メートル。それが、杖なしだと途方もなく遠くに感じた。

「心配しないで、先生。やってみせるよ」

 深呼吸をし、僕はしっかりと前を向いた。
 大丈夫。これまで毎日リハビリをしてきたじゃないか。歩ける。僕は歩けるんだぞ。
 ズボンのポケットの中に潜む猫とクローバーのお守りを、そっと握りしめた。たしかに感じる。ユナと交わした約束が。あともう少しで果たせそうなんだ。
 ここで立ち止まる理由はない!

 意を決して、僕は右脚から大きな一歩を踏み込んだ。──可能な限り踵を浮かせずに、引きずらないように。
 どんなときだって気をつけていかなきゃいけない。少しでも集中力がそがれると、いつもの癖が出てしまうから。

 ただの一歩、されど僕にとっては大きな一歩。

 ぎこちない動きになりながらも、僕の右足は一歩進むことができた。
 次は左側。こっちの足が宙に浮く僅かな間、右足だけで身体を支えなければならない。僕にとっては結構な負担だ。
 だからロフストランド杖に頼りながら身体を支えていた。でも今は──自分自身の右足で、バランスを保たなきゃならない。
 素早く左足を前に出し、すぐさま床に着地する。一瞬、ふらついたけれど、即座に持ちこたえた。

 いける。このまま進める!

「いいわよ、コウキ君! とってもいい感じ!」 

 岩野先生は傍らで見守ってくれた。

 感覚が掴めてきたぞ。僕は更に、右と左の足を交互に動かし、前へ前へと歩んでいく。けれどまだ完璧に真っ直ぐ進むことは難しい。直線を描く黄色いテープから、少しはみ出てしまっている。体が左右に揺れ、小さな曲線を引くように僕の足もとは忙しない。

 でも僕は、一切転ばずに杖もない状態で、自らの足だけで歩くことができているんだ──

「素晴らしいわ、コウキ君! あっという間にクリアできたわね!」

 岩野先生は叫ぶように称賛すると、今にも泣きそうな顔になって僕に抱きついてきた。

 わぁ、なんだ。そこまで喜ぶか?

 緊張の糸が切れ、僕の肩の力が抜けていく。
 岩野先生はゆっくり僕を腕から解放すると、両肩に手を置いた。

「目標達成ね! 退院したあとは杖なしで生活できるわよ!」

 瞳を輝かせ、先生は力強く言葉を並べた。

「マジで……?」
「マジよ。残り数日間、今みたいにバランスを取ることを意識して歩行訓練していけばきっと大丈夫!」

 自信満々な表情の岩野先生を見て、僕は全身が熱くなった。

 ──やっと、やっとだ。地道な訓練をしてきて、やっとひとつの結果が出せそうなんだ。

 感極まり、思わず涙が溢れそうになった。今までのように、辛かったり悲しかったりして流してきたものとは全く違う。
 それでも、僕は喜びの雫を目の奥でこらえた。こういうときこそ笑顔だ。満面の笑みで、喜ぶのが一番なんだ。

 岩野先生は優しい口調で、どこか落ち着いた声色になる。

「でも、装具はまだ必要になるの」
「ああ……いいよ。分かってる。杖を手放せるだけでも嬉しいから」

 頭の片隅で、そのことを受け入れる準備はしていた。
 それよりも、確実に成長しているんだという実感が湧いて、僕は胸がいっぱいになる。
 
「岩野先生」
「なに?」
「ありがとう。本当にありがとう。毎日のリハビリのおかげでここまで来れた。杖なしで歩くのが夢だったんだ。先生のおかげだよ」

 僕はストレートに自分の想いを綴る。
 腰に手を当て、先生はふっと小さく笑った。

「わたしにお礼を言うことじゃないわ」
「えっ、でも」
「君が今までで頑張ってきた成果でしょう? わたしはただお手伝いをしていただけ。コウキ君自身の力で、歩くことができたの」
「先生……」

 僕はこのとき、術後のリハビリをしてきた日々を思い出した。

 最初は寝転がりながら脚を動かすことから始めた。徐々に寝返りの練習も始め、掴まり立ちの訓練もした。
 背中の痛みがやわらいできた頃から、手すりに頼りながら歩行訓練も開始した。太ももの筋力を鍛えるために、リハビリ用の三輪車を漕ぎまくったのも楽しい思い出。
 リハビリは地道な訓練が必要で、地味な作業も多い。
 だけど、僕はめげずに岩野先生と一緒に頑張れた。僕の身体をよく見てくれて、麻痺の状態もちゃんと理解してくれていた。だから、やっぱりありがたいと思う。

 岩野先生はおもむろに、僕の頭に手を乗せた。それから優しく撫でてくるんだ。

「コウキ君。退院してもたくさん歩いてね。力をつけて、今よりも強くなれる。先生はいつまでも君を応援してるからね!」

 先生の激励の言葉に、胸の奥が熱くなった。

 ──これまでに岩野先生と訓練してきたこと、絶対に忘れないよ。退院したあとも、今までのリハビリを糧に頑張るから。

 僕は先生に向かって、深く頷いてみせた。
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