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第十一章 彼女のいる世界
192,平凡で平和な日々
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俺の意識はどこにあるんだろう。寒さも熱さも痛みも、何の感覚もない。
目の前はただ真っ白で、俺は独り横になって動けずにいた。
途切れ途切れではあるが、騒々しい音が響き渡ってくる。意識の遥か遠くの方で、甲高いサイレン音が鳴っているのが分かる。その中に俺の名を呼ぶ声が混じっている気がしたんだ。
だけど、か細い声は泣いている。まるで絶望に支配されたような、悲しいものだった。いつも優しくて可愛らしくて、愛情を乗せた柔らかいものなんかじゃない。
そんな声で俺を呼ばないでくれ。君の、甘えたような愛くるしい言いかたが大好きなのに。どうして君はずっと泣いているの。どうしてそんなに震えているの。俺のそばにいる時だけは、いつだって笑ってほしいんだ。
俺の目の前は真っ白の世界に支配されたまま。そして、暗闇の中に消えていった。
◆
「──ヒルス」
「…………」
「ヒルス! 起きなさい」
強い口調で俺に話しかけてくる人がいる。
ゆっくりと目を開けると、俺はベッドで横になっていた。すぐ隣には、両手を腰に当てながらこちらを見下ろす母の姿。何だか怒っているようだ。
「早く準備しないとスクールに遅刻するわよ」
(……スクール? ダンススクールのことか?)
イライラしている様子の母を前にして、俺は仕方がなく起き上がる。周りを見て、瞬時に思い出した。
俺の部屋だ。
大会のトロフィーや賞状、本棚などがそのままの形で置かれていて、確かに実家で暮らしていた頃と同じ風景が広がっている。
「顔洗ってきなさい。朝ご飯できてるわよ」
「ああ……」
どうやら夢を見ている。
天国で暮らしているはずの母が当たり前のように目の前にいて、なくなったはずの実家で目覚めたから。
食卓へ行くと、すまし顔で父が新聞を読みながらスーツ姿で紅茶を飲んでいた。病気になる前、なのだろうか。話しかけてみよう。
「父さん、おはよう」
「ああ」
「今から仕事か?」
「そうだ。ほら、ヒルスも遅刻しないように早く食べなさい」
そう言って父は、俺を椅子に座るよう促す。表情を見る限り、病気が発症される前の様子だ。
……何だか妙だな。夢だと分かっているはずなのに、今目の前にある全ての映像が、俺の中にすっと溶け込んでいるような感覚になる。まるで、現実世界にいるのかもしれないと錯覚してしまうほどに。
母が用意してくれた朝ごはんはサンドウィッチだった。食べてみると、パンの甘みとシャキッとした食感の瑞々しいレタス、塩っ気のきいた玉子の味がマッチしていて美味しい。味覚までこんなにハッキリしているなんて、今日の夢はとてもリアルだ。
そんな中で唯一、目に見えない透明の存在があった。
「お兄ちゃん、そろそろ行こうよ」
声に反応して振り返ると、目の前に一人の少女が立っていた。その子だけいつもぼやけていて、相変わらず顔を認識することが出来ない。でも何となく、優しい表情をしているような気がする。
分かってる。この子は俺の妹のリミィだ。いつも夢を見る時は、彼女が生きている世界なんだよな。
きっと妹は俺の影響でダンススクールに通っていて、毎日楽しく踊っている。母に頼まれてスクールの送り迎えも、俺がバイクで毎回しているんだ。
◆
「──なぁ、ヒルス。リミィって可愛いよな」
ランチタイム。ダンススクールの休憩所で、俺の苦手な奴──ライクがいきなりそんなことを言ってくる。
よりによってどうしてこいつが夢の中に出てくるのか。本当に最悪だ。
「何だよお前。キモいな」
俺の本心をライクにぶつけてやった。たとえ夢の中だとしても、二度と会いたくない相手だった。
眉間に皺を寄せる俺に対して、両腕を組んでライクは大声で笑うんだ。
「そう言うなよ、ヒルス! 結構本気なんだぜ」
「はぁ? あんなガキに惚れてんのか」
呆れながら俺がそう言うと、ライクは首を傾げる。
「リミィのどこがガキなんだ?」
「……えっ」
一瞬、その場には変な空気が流れる。
ああ、そうだ。もしリミィが生きていたら俺たちと歳が近かったのか。なぜだかこの時、レイのことだと勘違いしてしまった。
サングラスをかけるライクの表情はいつも分からない。だが、鼻歌を口ずさんでいて、上機嫌なのが伝わってくる。
俺はそんなライクを横目に、ふと過去を思い出してしまう。
もしもリミィが生きていたらノース・ヒルでの事件は起こっていなかっただろう。誰も傷つかずに、済んだのかもしれない。ライクも馬鹿な真似をせず、ずっとインストラクターとしてダンススクールに勤め続けていたのだろうか。
そう考えたって現実は変えられない。夢の中の俺はどうかしてる。
──レイのいない世界は、極普通の日常が流れていた。誰も悲しまず、かと言って刺激してくれるような幸福があるわけでもなく。ただただ平凡で平和な日々が続く。
居心地が良くて溶けていくような、そんな何でもない生活。
リミィと俺はあくまで趣味としてダンスを続けていた。もちろん大会やイベントがあれば全力で踊ったが、それ以上のものは特に求めなかった。
ダンス仲間ともそれとない距離感で、良好な関係を保っている。
リミィとメイリーは歳が近く、何となく気が合うようだった。
「ねえ、リミィ。スクール終わり、ちょっと買い物行こうよ」
「うん、いいよ」
女子二人のそんな和気あいあいとした会話が聞こえてくる。
嫉妬心に染められたメイリーの表情なんてどこにも見当たらない。むしろリミィとメイリーは楽しそうに話をしていて、スクール内の雰囲気も和やだった。
目の前はただ真っ白で、俺は独り横になって動けずにいた。
途切れ途切れではあるが、騒々しい音が響き渡ってくる。意識の遥か遠くの方で、甲高いサイレン音が鳴っているのが分かる。その中に俺の名を呼ぶ声が混じっている気がしたんだ。
だけど、か細い声は泣いている。まるで絶望に支配されたような、悲しいものだった。いつも優しくて可愛らしくて、愛情を乗せた柔らかいものなんかじゃない。
そんな声で俺を呼ばないでくれ。君の、甘えたような愛くるしい言いかたが大好きなのに。どうして君はずっと泣いているの。どうしてそんなに震えているの。俺のそばにいる時だけは、いつだって笑ってほしいんだ。
俺の目の前は真っ白の世界に支配されたまま。そして、暗闇の中に消えていった。
◆
「──ヒルス」
「…………」
「ヒルス! 起きなさい」
強い口調で俺に話しかけてくる人がいる。
ゆっくりと目を開けると、俺はベッドで横になっていた。すぐ隣には、両手を腰に当てながらこちらを見下ろす母の姿。何だか怒っているようだ。
「早く準備しないとスクールに遅刻するわよ」
(……スクール? ダンススクールのことか?)
イライラしている様子の母を前にして、俺は仕方がなく起き上がる。周りを見て、瞬時に思い出した。
俺の部屋だ。
大会のトロフィーや賞状、本棚などがそのままの形で置かれていて、確かに実家で暮らしていた頃と同じ風景が広がっている。
「顔洗ってきなさい。朝ご飯できてるわよ」
「ああ……」
どうやら夢を見ている。
天国で暮らしているはずの母が当たり前のように目の前にいて、なくなったはずの実家で目覚めたから。
食卓へ行くと、すまし顔で父が新聞を読みながらスーツ姿で紅茶を飲んでいた。病気になる前、なのだろうか。話しかけてみよう。
「父さん、おはよう」
「ああ」
「今から仕事か?」
「そうだ。ほら、ヒルスも遅刻しないように早く食べなさい」
そう言って父は、俺を椅子に座るよう促す。表情を見る限り、病気が発症される前の様子だ。
……何だか妙だな。夢だと分かっているはずなのに、今目の前にある全ての映像が、俺の中にすっと溶け込んでいるような感覚になる。まるで、現実世界にいるのかもしれないと錯覚してしまうほどに。
母が用意してくれた朝ごはんはサンドウィッチだった。食べてみると、パンの甘みとシャキッとした食感の瑞々しいレタス、塩っ気のきいた玉子の味がマッチしていて美味しい。味覚までこんなにハッキリしているなんて、今日の夢はとてもリアルだ。
そんな中で唯一、目に見えない透明の存在があった。
「お兄ちゃん、そろそろ行こうよ」
声に反応して振り返ると、目の前に一人の少女が立っていた。その子だけいつもぼやけていて、相変わらず顔を認識することが出来ない。でも何となく、優しい表情をしているような気がする。
分かってる。この子は俺の妹のリミィだ。いつも夢を見る時は、彼女が生きている世界なんだよな。
きっと妹は俺の影響でダンススクールに通っていて、毎日楽しく踊っている。母に頼まれてスクールの送り迎えも、俺がバイクで毎回しているんだ。
◆
「──なぁ、ヒルス。リミィって可愛いよな」
ランチタイム。ダンススクールの休憩所で、俺の苦手な奴──ライクがいきなりそんなことを言ってくる。
よりによってどうしてこいつが夢の中に出てくるのか。本当に最悪だ。
「何だよお前。キモいな」
俺の本心をライクにぶつけてやった。たとえ夢の中だとしても、二度と会いたくない相手だった。
眉間に皺を寄せる俺に対して、両腕を組んでライクは大声で笑うんだ。
「そう言うなよ、ヒルス! 結構本気なんだぜ」
「はぁ? あんなガキに惚れてんのか」
呆れながら俺がそう言うと、ライクは首を傾げる。
「リミィのどこがガキなんだ?」
「……えっ」
一瞬、その場には変な空気が流れる。
ああ、そうだ。もしリミィが生きていたら俺たちと歳が近かったのか。なぜだかこの時、レイのことだと勘違いしてしまった。
サングラスをかけるライクの表情はいつも分からない。だが、鼻歌を口ずさんでいて、上機嫌なのが伝わってくる。
俺はそんなライクを横目に、ふと過去を思い出してしまう。
もしもリミィが生きていたらノース・ヒルでの事件は起こっていなかっただろう。誰も傷つかずに、済んだのかもしれない。ライクも馬鹿な真似をせず、ずっとインストラクターとしてダンススクールに勤め続けていたのだろうか。
そう考えたって現実は変えられない。夢の中の俺はどうかしてる。
──レイのいない世界は、極普通の日常が流れていた。誰も悲しまず、かと言って刺激してくれるような幸福があるわけでもなく。ただただ平凡で平和な日々が続く。
居心地が良くて溶けていくような、そんな何でもない生活。
リミィと俺はあくまで趣味としてダンスを続けていた。もちろん大会やイベントがあれば全力で踊ったが、それ以上のものは特に求めなかった。
ダンス仲間ともそれとない距離感で、良好な関係を保っている。
リミィとメイリーは歳が近く、何となく気が合うようだった。
「ねえ、リミィ。スクール終わり、ちょっと買い物行こうよ」
「うん、いいよ」
女子二人のそんな和気あいあいとした会話が聞こえてくる。
嫉妬心に染められたメイリーの表情なんてどこにも見当たらない。むしろリミィとメイリーは楽しそうに話をしていて、スクール内の雰囲気も和やだった。
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