【完結】サルビアの育てかた

朱村びすりん

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第九章 悪夢の再来

161,背後から迫り来るもの

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 ──数日後。新曲発表と共に、完成したPVが至るところで使われるようになった。テレビのコマーシャルだけでなく、動画サイトなどの広告でも流れ、SNSでも大きな話題を呼んだ。
 俺とレイを応援してくれるファンが瞬く間に増えていき、ダンススタジオには連日ファンレターや差し入れがとんでもない数が送られてくるようになった。
 外を出歩く時は、顔を隠さないと本当に大変なことになるんだ。だから俺たちは、たとえ距離が短くても外出時は出来るだけ車やバイクに乗って移動するように心掛けた。

 こうなると、やはりいいことだけではない。知名度が上がれば上がるほど、マスコミは騒ぎを大きくしようとする。

 思い悩んでいたことは、思っていたよりも早く現実となった。俺とレイのことが、芸能ニュースを中心にネット記事や全国紙に大きく報じられた。俺たちの関係についてはもちろん、レイが元孤児だったことも。

 それに、レイが生みの親に酷い仕打ちをされたことも、事細かく全てが晒されてしまった。

 これを受け、テレビだけでなくネットニュースやSNSでも話題となり、瞬く間に拡散されていく。
 もちろんその内容は、レイ本人の耳にも入ることになってしまった。

 結局俺は、どうすることも出来なかった。阻止するすべを見つけられなかった。
 レイの笑顔をどうしても守りたい。どうすれば、彼女の心のケアが出来るだろうか模索し続ける。

 これをきっかけに、俺たちの人生は更に波乱となっていくんだ。



 悪魔の匂い
 悪魔の表情
 悪魔の声
 悪魔の抱擁
 悪魔の冷たい両腕

 あれは、夢なんかじゃない。身体が覚えている。恐怖の対象を、しっかりと覚えている。
 悪魔に抱きしめられた瞬間、私は吐きそうになるほど怯えた。

 叩かれる、殴られる、熱湯で痛めつけられる。

 私の全身が痙攣しているかのように震えた。
 胸の上の痕がヒリヒリ痛み始めた。呼吸が荒くなり、苦しくてしにそうだ。

 今すぐ逃げないと。だけど私はあの時、足がすくみ、腰が抜けて動くことが出来なかった。
 悪魔に言われるがままだった。悔しくて悲しくて仕方がない。
 私は強いはずなのに。こんなことで怯えたりしないと思っていたのに。

 だけど私は何一つ克服出来ていなかったの。



「やめて」
「離して」
「近づかないで」
「叩かないで」
「殴らないで」
「痛いよ、痛いよ」
「お願い! お願い! お願い……!」

 深夜に幾度も目を覚まし、私は見えない恐怖と戦っていた。幻影が目の前に現れている気がして、私は発狂するように叫び続ける。

「落ち着いて。誰も君を傷つけたりしない」

 私の全身を強く抱き締めながら、彼は必死に背中を擦ってくれる。
 呼吸が荒くなる中、長い時間彼が抱擁してくれると、次第に私は落ち着きを取り戻すことが出来る。

 疲れた顔でじっとこちらを見つめる彼を前にすると、ありえないほどに胸が締め付けられてしまう。

「ごめんね、明日もスタジオで仕事があるのに全然眠れないよね。一人で寝るからゆっくりして……」
「何言うんだよ。俺のことは気にするな」
「でも」
「絶対にそばにいるから、何も心配しないで」

 彼は私にそっとキスをしてくれる。愛情たっぷりで、安らぎを与えてくれる彼の口づけは、いつだって私に癒やしをくれる。
 その優しさに甘えながら、私は彼の腕の中に身を委ねた。

 ──だけどふとした時、悪魔のあの冷酷な目に監視されているような感覚に陥るの。悪魔が私の前に現れたあの日を境に、私は心の奥底にしまいこんでいた「トラウマ」に再び怯えるようになってしまった。



 あれは、私が十八歳の時だった。
 マスコミによって、世間に私たちの事情が全て晒されてしまった。芸能記事に私と彼の関係が写真付きで公開され、私の生い立ちなども細かく掲載されていた。
 もちろんSNSなどで色々な声が上がったよ。一部批判をする人たちもいたけれど、それよりも応援してくれる声の方が大半だった。
 それにこうなるのは覚悟の上だったから、それほど深く傷ついたりはしなかった。

 ──そして、私が生みの親に虐待されていたことも、この時に初めて知ったの。
 もちろん、自分の過去を知った時はショックだった。私の体に残り続けるあの痕の意味も、やっと理解が出来た。

 でも私自身は何ひとつとして覚えていない。それくらいで落ち込んだりしない。
 私よりも私のことを心配してくれる彼の方が悩んでいたみたい。改めて愛されてるなぁって実感したんだよ。
 それくらい、私にとって辛い過去のことなんか、どうでもいい出来事に過ぎなかった。

 でも、予想外の出来事がひとつ。
 それは背後から迫りきていて、私は恐怖のどん底に陥れられた。


 ──月日はあっという間に流れ、私が十九歳になったある日のこと。

 モラレスさんのライブツアーで仕事が遅くなった日、私は家に帰らずに会場近くのホテルに泊まるスケジュールになっていた。
 一人で外を歩いていて、たしか夜の十時を過ぎていたと思う。早くホテルに戻ってシャワーを浴びたいなんて考えていた、矢先だった。

 ひとけのない薄暗い道端で、突然背後から私に声を掛けてくる女の人が現れたの。

「ねえ、あなた。レイ? レイ・グリマルディ?」
「……はい?」

 振り返るとそこには、見覚えのない女の人が立っていた。ファンの人かな、なんて暢気に思っていたんだけど。
 その人の目は、なぜか焦点が合っていなかった。黒い長髪は手入れが全くされていないように乱れていて、顔立ちが東洋系に見える。それに、腕も足も棒のように細い。着ている服なんかボロボロで、変な匂いがするの。

 見るからに、おかしい人。私はその時点で足がすくんでしまう。

「ワタシのこと知ってる? 覚えてる? あなた、ワタシのこと……」

 何だろう? 話しかたがおかしい。ボソボソと喋っていて、聞き取りづらいの。
 女は一歩二歩千鳥足でこちらに近づいてくる。

 逃げなきゃ。

 咄嗟にそう判断した。それなのに、足が、身体が強張って動いてくれない。
 女からは、とてつもないキツい匂いがした。

(煙草の匂い……?)

 吐きたくなるほど嫌になる、この感覚。私、どうしちゃったの。

 虚ろな目でこちらを眺めてくる女は、何も言わずに突然私の服を鷲掴みにしてきた。驚いた私は必死に抵抗しようと女の両腕を振り解こうとするが、上手く力が入らない。

「大人しくしてくれる? 確認したいことあるから」

 女は更に荒々しく私の服を掴み取り、ネックレスにまで手を伸ばしてきた。

(いや。私の大切なものに触らないで……!)

 声に出してそう叫びたかった。だけど口を開くことすら出来ないの。

 女はしんだような目を向けながら私の服を剥ぐと、息を荒くしてこちらをじっと見つめる。小刻みに手を震わせて、私の鎖骨の下にあるシミを──あの火傷の痕をそっとなぞって来た。

 目は一切笑っていないのに、ニヤリと広角を上げると今度は大声を出した。

「やっぱり……やっぱり! あんたなのね!」
「……え?」
「久しぶりじゃないの。こんなに大きくなって! あはは……まさか、あんなに泣いていた赤子がここまで成長するなんて! 今はプロのダンサーですって!? 信じられない、信じられない! アハハハハ」

 発狂したように女は叫び続ける。
 女の言葉に、私の背筋が凍りついた。

「どういうこと……?」

 恐怖と混乱で頭の中がパンクしそうだ。そんな私を嘲笑うかのように、女は私を見下してくる。

「あの記事、見たわ。ワタシがあんたを捨てた孤児院にあんたが訪問している写真も見た。虐待されていた内容の記事もね。まさかと思って、声を掛けてみたんだけど──その火傷の痕。間違いなくワタシがあんたを痛めつけた証拠。笑っちゃう、可愛くもないあの赤ん坊がこんな風に立派に成長しているなんて!」

 この瞬間、頭が真っ白になった。

 まさか、この女は……。

 悪魔の表情は、急に柔らかくなる。だけど瞳の奥底だけは狂気に満ち溢れていた。

「ねぇ、レイ。ワタシはあなたの母親・・なのよ。ワタシを、助けて」
「何、言ってるの?」
「モラレスのバッグダンサーならすごい稼いでるんでしょう」
「……え」
「ワタシ、お金がないの。ねぇ。お願い。お金を分けてよ。【娘】でしょう?」

 そう言いながら、悪魔は私に抱きついてきた。

 悪魔の女の服から、煙草と酒の匂いが漂ってくる。気持ち悪いぬくもりに、吐き気がした。

(誰が、母親ですって? 誰が、あなたの娘なのよ。ふざけるな……ふざけるな。この悪魔……!)

 恐怖と、悔しさと、憎しみと、嫌悪感が私の中で爆発してしまい、両目から大量の涙が溢れてきた。


 ──しばらくの間、道端で独り呆然としゃがみ込む。私の鼻の奥には、あの悪魔の匂いがしつこく残り続けていた。
 目の前には、私の財布が空っぽの状態で地面に投げ棄てられている。
 全身が震えているが、寒さのせいじゃない。

 私はその日から、再び悪夢に魘されるようになってしまった。
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