【完結】サルビアの育てかた

朱村びすりん

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第八章 それぞれの想い

128,恩師の悩み

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 その日、珍しくジャスティン先生はスタジオの事務室に一人籠っていて、朝の挨拶にすら来てくれなかった。
 気になった俺は、小休憩の間にジャスティン先生を訪ねてみる。

「先生」
「……」

 ノックをしても反応がないし、俺がドアを開けて声を掛けてみても返事もない。
 何やら先生はパソコンと睨み合いをしている。今のジャスティン先生の耳には、俺の声がなかなか届いてくれないようだ。

「ジャスティン先生!」

 少しだけ大きい声を出すと、先生はハッとしたようにやっとこちらを振り向いた。

「ああ、ヒルスか……。何か用かい?」

 疲れた目をしている先生の声は、いつにもなく元気がない。

「大丈夫ですか? 練習場に顔も出してくれないから……」
「ごめんよ。今後どうするか悩んでいてね」
「今後って?」
「ダンススクールのことだよ」

 無理やり笑顔を作る先生の顔は、瞳の奥で思い詰めた色を浮かべている。

 この時俺は、叔父のジェイクが話していたことをふと思い出した。

「もしかして、生徒が増えすぎている件ですか」
「そうなんだよ、よく分かったね?」
「はい。叔父から話は聞きました」

 パソコンをそっと閉じてから、ジャスティン先生は俺の方を向いて真剣に話し始める。

「反響が凄いんだよ」
「えっ?」
「レイとロイだよ。レイは以前のロンドン大会でナンバーワンを勝ち取っただろう。それにロイはアメリカ主催の世界大会で結果を残した。二人が活躍した時期からスクールに入会したいという問い合わせが物凄く増えてね」

 ジャスティン先生は腕を組みながら小さく唸る。この件に関しては、先生にとっても嬉しい悲鳴には違いない。

「新しいインストラクターも数名雇ったんだ。だけど練習場所が足りなくて、困り果てているんだよ。正直、入会希望者の受け入れを一時ストップしているほどなんだ」

 今までずっと世話になってきた先生が困っている。

 俺は一度よく考えてみた。ジャスティン先生は何かと俺たちに良くしてくれている。心から信頼している人だし、インストラクターとして働くことが出来たのも先生のおかげだ。そんなジャスティン先生がこれほど悩んでいるのなら、どうにか解消してあげたい。
 俺は真剣な眼差しを先生に向けてゆっくり口を開いた。

「先生。もしよかったら……俺たちの土地を使いませんか」

 俺の提案に、ジャスティン先生は目を見開く。

「土地って。まさか、君たちの家があったあの場所のことかい?」
「そうです。俺たちは今後、あそこに家を建て直して生活することはないと思います。ずっと放置しているのもよくないと叔父にも言われました。だけど、どうすればいいのかずっと答えが出ません」

 俺の話を真剣に聞いてくれるジャスティン先生の目の奥は、少しばかり潤っているように見える。

「だけど、ジャスティン先生が困っているなら俺は協力したいと思います。俺たちの土地を、よければ使ってくれませんか」
「……そんな。いいのかい」
「ジャスティン先生だからいいんです。きっとレイだって先生の為なら快諾してくれるはずですよ」

 先生はしばらく口を閉じ、何かを想うように遠くを見つめていた。
 
 いつまでも跡地を放置したまま何もせず雑草を生え散らかしてしまうよりも、こうして信頼している人に活用してもらうのが一番のはずだ。きっと天国にいる父と母も許してくれるだろう。

「ありがとう、ヒルス。レイにも許可を貰ったら早速契約をさせてもらっていいかな」
「契約?」
「地代の件やどれくらいの期間使わせて貰うかなど色々と決めないといけないからね」
「いえ、先生。お金なんて要らないし、スクールを建てるならいつまででも貸しますよ」

 軽い気持ちで俺が言うと、ジャスティン先生は首を大袈裟に振るんだ。

「何を言うんだよ、ヒルス! 君たちの大切な場所を使わせてもらうんだ。こういうことはしっかりしておかないと」

 先生の目は真剣だった。

 本当に俺はいいのに。ジャスティン先生はしっかりしているな……。

 俺が呑気に思っていると、事務室のドアからノック音が響き渡った。反射的に、ジャスティン先生と俺の目はドアの方に向けられる。

 そこから姿を現したのは──レイだった。

 彼女の姿を目にした瞬間、俺はたちまち胸が熱くなる。昨晩のことを思い出してしまう。
 すぐさま俺はジャスティン先生の方に目線を戻す。

 朝からレイとは気まずいんだ。と言うよりも、俺が意識しすぎてしまって彼女を見ただけで身体が火照り、目も合わせられずにいるだけであって。話をするなんて以ての外。
 今日レイは一日個人練習で、俺がダンスの指導に入ることはない。助かった、と内心思ってしまう。
 結果的にレイを避けているようになっているのは事実。俺は自分の悪い癖をどうにかしたかった。
 決してレイのことが嫌いになったわけではなく、むしろ大好きだからこそ、俺は彼女の前でどういう振る舞いをしていいのか分からなくなったんだ。

 俺があれこれ考え込んでいるのをよそに、レイは事務室の中へ何食わぬ顔で入ってきた。

「ジャスティン先生、大丈夫ですか? 一度も練習場に来てくれないなんて珍しいですね」

 レイは少しばかり心配そうな声をしていた。それでもジャスティン先生は、レイの顔を見るなりぱっと表情を明るくするんだ。

「レイ、ちょうどいいところに来てくれたね! 実は相談があるんだよ」
「相談? 私にですか?」

 ジャスティン先生は先程とは打って変わって目をキラキラさせるんだ。

 ─携帯新スクール建設の話を先生から聞かされたレイは驚いたような顔をし、それでいて口角をこの上ないほど緩めていた。聞くまでもなくレイはすぐに建設の件に合意してくれて、むしろ嬉しそうに話をするんだ。

「凄いですね! 先生のダンススクールがそこまで人気になるなんて」
「レイのおかげでもあるんだよ」
「えっ、どうしてですか?」
「君がロンドン大会で結果を出してくれただろう。あの時のダンスを見て、スクールに入会したいと言う新入生も実際にいるんだよ」

 そう言われたレイは、目を細める。そして、ふと俺の方に顔を向けるんだ。

「あの日の大会は、ヒルスの為に頑張ったんです。だから、彼のおかげでもありますね」
「ははは。その通りだね! 本当に僕は、君たち二人には感謝しなきゃいけないよ」

 横目でレイが微笑んでいるのが分かる。でも俺は、まだまだ恥ずかしさがあって、彼女と目も合わせることも出来なかったんだ。
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