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第五章 『サルビア』の奇跡

96,母がのこしてくれた奇跡

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 だけどこのとき──優しい風が、私の頬を撫でるようにそっと通りすぎた。冬なのにあたたかい、不思議な感触。静かに吹く風が何かを導くように、更地の奥を通りすぎていく。

 私の視線は自然とその方向に向けられた。
 
(……あれ?)
 
 風が指差した方向を見やり、私はハッとした。『あるもの』の存在に気づかされたから。雑草の中に隠れているけれど、その綺麗な赤色の一部分がたしかに顔を覗かせているのが目に入った。
 
(……まさか。本当に?)
 
 荒れる心を忘れ、私はすっと叔父の腕から離れる。ヒルスの正面に立ち、ぐっと顔を覗き込んだ。未だに呆然とする彼の鎖骨下辺りに手を伸ばし、つんつん突いてみせた。
 
「な、何だよ?」
 
 首を捻るヒルスに対して、私は更地の方を指差した。彼は一度更地の奥に顔を向けるが、すぐこちらに目線を戻してしまう。
 
「どうかしたか?」
 
 今の彼には私の思いは届かない。もどかしくて、私は首を大きく振った。声なき声で必死に言葉を放とうとするのに、喋れないからどうしようもない。

 しびれを切らせた私は、ヒルスの腕を強めの力で掴んだ。急ぎ足で更地の奥の方へと強制的に連れていく。
 
「何なんだ……わけが分からないぞ」
 
 疑問符を浮かべるヒルスをよそに、私はある場所でピタリと足を止めた。

 そこは、生前母がたくさんの花を育てていた花壇のあった場所。
 
「ここがどうかしたか?」
 
 ヒルスは雑草の方を少し見ただけですぐに私に目線を戻す。

 ──ちゃんと見て。

 声が届かないと分かっていても、私は再度雑草の奥を指差した。
 乱雑に生い茂る草の奥の方をグッと覗き込み、ヒルスはそこで目を見開いた。ようやく、緑の中にある大切なものの存在に気づけたみたい。
 
「これは……」
 
 私もヒルスと並んで、大切なものに目線を向ける。

 本当に、信じられなかった。けれど──たしかに生き残っている。
 たったひとつ浮いた存在でありながらも、キラキラと光る赤色の『サルビア』が、まるで何事もなかったかのようにそこに立ち尽くしていた。
 元気に咲く『サルビア』をじっと見つめながら、ヒルスは声を震わせる。
 
「どうして。母さんの『サルビア』が……?」
 
 私も驚いてる。あの大火事の中この一輪だけは燃やされず、綺麗なままの状態で残されているなんて。

 力強く佇む『サルビア』は、太陽の光をたっぷり浴びて輝いている。今まで見たどんな花よりも美しい。見れば見るほど、私の心は癒されていった。
 驚きを隠せない様子の彼の瞳をじっと見つめ、私は微笑みかけた。
 
(お母さんが残していってくれたんだね)
 
 声を届けたい。心の中でもう一度語りかけた。
 ハッとしたように、ヒルスは見つめ返してくる。
 
(きっとお母さんが、この『サルビア』を通じて私たちに伝えているんだよ。「前を向いて生きてほしい」って……)
 
 何も答えなかったけれど、ヒルスはぎこちなく頷いた。
 声が、届いてる。ちゃんと私の言いたいこと、彼に伝わってる……。
 
「二人ともどうしたんだ?」
 
 首を傾げながら叔父がこちらに歩み寄ってきた。
 
「その花がどうかしたのか」
 
 ヒルスはゆっくりと叔父の方を振り向いた。耳まで赤く染まっている。
 
「……ジェイク叔父さん、ごめん。思い出が全部なくなったなんて嘘だった」
「なに?」
「この赤い花……『サルビア』の花は、母さんが大切に育てていたものなんだ。どういうわけか、一輪だけ燃えずに残っていたんだよ」
 
 その言葉を聞き、私は彼の手をギュッと握り締めた。
 
「母さんが残してくれたものだって、レイは言ってる」

 涙声だった。でも彼の表情はあたたかい。
 叔父は優しい眼差しになってそっと彼の肩を叩いた。
 
「ああ、分かったよ。オレも悪かった。今のお前は余裕がないからな。ここをどうするかはまた今度考えればいい」
 
 このとき、彼の冷たかった手はほんのりとあたたかくなったの。

 ──この『サルビア』が、なぜ燃えることなくここにあるのかは分からない。だけど母はたしかに生前、愛情を込めて花を大切に育てていた。だから季節に関係なく『サルビア』たちはいつも美しく咲き誇っていたし、あの大火事からも奇跡的に生き残ったのかもしれない。母の『サルビア』の花たちにはいつも、魔法のような不思議な力が宿っているの。

 少しずつでいい。前を向いていこう。


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